第17話 終わる役目

 黒ずんだ死体は王都に送られて検死されたが、誰もあのような死体を見たことがなかった。


 結局、あの死体が誰かに殺されたものか、いつ死んだのか、どうやって死んだのか……つまりは何も分からずじまいだった。


 死体はノースプラトーに変換された。戦争状態ではあるが、戦場においても合戦後は死体を引き取って国へ帰らせることが許されている。


 だがノースフォレスト国は慌ただしく、死体のことなどすぐに忘れられた。


 フィリオリと隣国の王子との結婚式は2ヶ月後に決定されたからだ。




 城に戻ってからのフィリオリは忙しく、ゆっくり話す時間は取れなくなった。ドレスの採寸から式場での立ち振る舞いなど、やることはたくさんあったからだ。


 フィリオリは第一王女としていつも優雅に振る舞い、見るものは皆、その美しさと清廉さに目を奪われ、それからため息をついた。


 そんなこともあり、俺はフィリオリと会うことも少なくなった。それでも廊下で偶然に俺を見かけると、


「ランス!」


 嬉しそうな姉の声がする。


 俺を見つけた一瞬だけ、姉はあのときの顔に戻る。


 一緒に馬の背に乗り、花や紅茶に喜んでいた飾らない顔。だがすぐにそれは引っ込んで、穏やかな微笑みに変わった。


「なかなかゆっくり話す機会もありませんね」


「そうですね」


 少し沈黙が流れ、やがてフィリオリは会釈して、すれ違った。


 彼女の声も、もうすぐ聞けなくなるのだと思うと、俺はなんとも言えない気分になった。気がつけば彼女のことを考えている。あんなに集中していた訓練中ですら、気がつくと剣を振る手を止めていた。


 そんな俺を、ハウルドが直々に呼び出した。会うや否や、俺の足元に剣を投げてよこした。


「剣をとれ、ランス」


 兄はいつも通りだった。俺はその様子になぜだか安堵し、剣を拾った。もちろん真剣ではなく、試合用の木剣だ。


 兄と撃ち合うのは久しぶりだった。以前はよく直々に稽古されたものだが、ランスが隊を指揮する立場になるにつれてその数は減っていた。


 ハウルドは無造作に間合いを詰めて、その剣を振るった。その一撃は鋭く、何度か撃ち合ううちに俺の剣は飛ばされた。


 変わらず、兄は強い。俺も上達したはずだが、まるで差が縮まっているような気がしなかった。


 丸腰になった俺は賞賛の目で兄を見上げるが、その頬を兄の木剣が容赦なく打ち払った。みるみる頬が腫れ、唇から血が漏れ出てくる。


 !?


 いや、もう勝負ついてたよな?


 今の一撃、振るう必要あっただろうか。


 そんな俺の疑念をまるで意に介さず、「次だ。剣を拾え」兄が言い放った。本当に、初めて会ったときと変わらない。あのときも、ろくに剣が使えない俺をボコボコにしていた。

 

 いや、違うぞ。


 俺はあのときの俺ではない。何度も戦場に立ち、この国やフィリオリを守る騎士となったのだ。俺は木剣を拾うが否や、ハウルドに突進し、力いっぱいに剣を打ち込んだ。ハウルドはそれを受け止め、にっと笑った。


「それでいい」


 そこからは無我夢中で剣を振るった。俺の腕は数年で飛躍的に上達し、白狼騎士団にあっても一対一で負けることはなかった。あの素人同然だった頃より、ハウルドとの差は縮まっているはずだ。


 しかし……倒れているのはいつも俺の方だった。試合用の木剣でなければ、何度命を失っているか分からない。


 ふふ……

 

 そう、この剣だ。初めて受けたそのときから、俺はこの剣に憧れ続けている。


 気がつけば俺は腫れた頬を歪めて笑っていた。


「さて、準備運動はこのへんでいいだろう」


 ハウルドが言い放った。


 俺は耳を疑う。準備運動?

 

 あの兄もたまには冗談を言うのかと思ったが、しかし彼は今までに見たことがないほどに真剣な表情だった。


 剣を低く構え、俺を見据えた。


「貴様に今から見せる剣は、この王家に代々伝わるものだ。これを見て、命あるものはいない」


 冗談を言っている顔ではない。それどころか、今までに感じたことのないような強烈な圧迫感プレッシャーを感じた。俺は慌てて剣を構える。


「いくぞ」


 ハウルドが告げると同時に、その姿が消えた。


 一気に低く加速し、気がつけば必殺の間合いに入っていた。俺は慌てて間合いを取ろうとするが、低い位置から閃光のように繰り出された一撃が俺の胴を薙ぎ、ほぼ同時に肩に衝撃が走った。


「見たか?」


 腹ばいに倒れる俺にハウルドが声をかけた。


「見えません……」


 俺はなんとかそれだけ声を絞り出した。


「これが王家に伝わる剣技、<白狼>だ」


 兄が説明する。 


 間合いの外から一気に加速し、一瞬で間合いにいる。


 そのとき膝を抜いて、姿勢をさらに低くする。


 すると対峙している者からは一瞬姿が消えたかのように見える。低い位置から繰り出される逆袈裟ぎゃくけさの一撃から、続く振り下ろしの二連撃は瞬き一回ほどの間に起こり、相手は上下から同時に剣が襲ってくるかのような錯覚を覚える。それこそ、狼の牙のようにだ。


「古い剣術だ。騎馬が中心の現在では活躍は限られるだろうがな、しかし白兵戦においては未だ有効だ」


 ハウルドは俺に告げた。


 有効どころではない。


 何度手合わせしても、<白狼>を防ぐことができない。剣で捌こうにも、低いところからの初撃を受けるのすら困難で、さらにほぼ同時に逆の軌道から二撃目がくる。また間合いを外そうにも、踏み込みが速く、外しきれない。


「狼のように低く走るほど、その落差が大きいほど、初撃は見えん。二撃目はさらに、だ。俺は体格があり過ぎて、この剣技は向かない。並の体格であるお前なら、上手く使えるだろう」


 確かに、自分より大きな体格の相手にはより有効だろう。しかし、そのことよりも…


「兄さん、なぜこれを俺に?」


 フィリオリの婚儀は目前だ。そうすれば戦争が終わるはずではないか。なぜ今になって、王家の奥義を俺に伝えようとするのか。


「ランス。お前のいうとおり、戦争は終わるのかも知れぬ。だが、終わらないのかも知れぬ」


 兄の言葉に、俺はハッとした。


「王家を護る剣は常に、いつでも抜かれる覚悟をしていることだ」


 俺は兄の言葉に頷いた。戦争が終わらないかも知れない。


 ノースプラトーの第一王子の冷酷な人柄や、慣習を違えて捕虜の指を切り落としたことを思い出す。


 抱いていたフィリオリへの心配が再度、涌いてきた。手の届くところであれば、彼女を守ることができるかもしれない。しかし、遠く離れてしまっては……


 俺は邪念を払うように、ハウルドとの手合わせを重ねた。


 何度打ち合ったかは分からないが、ほとんどは俺が撃ち込まれて終わった。初めて会った頃の手合わせが、いかにハウルドが手加減していたのか思い知らされた。

 

 <白狼>の剣技においても手ほどきを受けるが、なかなか形にならない。


  そうしているうちに月日は過ぎ、式の当日になった。




 結婚式は国境付近のノースプラトー側、小高い丘の上にある神聖教会の礼拝堂にて行われる。長らく戦乱が続いた王家同士の結婚に相応しい荘厳な建造物で、5階建ての巨大な塔になっている。


 俺は参席する第四王子として、礼服を着て、その礼拝堂の階段を昇っていた。花嫁の控室は3階にある。


 ノックをして控室のドアを開けると、フィリオリが母親、つまり王妃と話をしていた。


 白雪蝶の幼虫から取れる絹糸。白雪絹スノウ・シルクから編まれた布は最も純正な白と呼ばれ、この世の無垢の象徴だとされる。


 フィリオリはその純正白のドレスに身を包み、銀の髪をアップにしてヴェールを被っていた。いつもよりも紅い口紅をつけ、色白の頬や肩とコントラストになってその紅がはっきりと目に焼き付いた。


 彼女は俺が来たことに気づき、恥ずかしそうに目を伏せた。


「あまり見ないでください」


「お綺麗です、姉上」


「本当ですか?」


 上目づかいでこちらを見て微笑んだ。


「……ありがとう」


「おお、妹よ! おまえこそ、この国の宝だ。あんな王子にあげるなんて勿体無いことだ」


 ヴィンタスが前に出て大袈裟な身振りで言った。


「こら!ヴィンタス!おまえはいつも…」


 王妃がヴィンタスを叱った。そんなやりとりに俺は、亡き母とのやりとりを思い出して口元がほころんだ。


「ランス」


 王妃は申し訳なさそうな顔をして、俺の前にやってきた。


「おまえが来たとき、正直なところ、穏やかな気持ちでおまえを迎えられなかったわ。しかし今まで、よくフィリオリを守ってくれたね」


「ランス、あなたには本当に助けられました。感謝いたします」


 フィリオリが、第一王女の顔で優雅に言った。


 退室の際、最後に目が合った。フィリオリが何かを言いかけて、やめた。その一瞬の表情が、訴えかけるような瞳が、いつかの記憶と重なる。


「私を攫って」


 フィリオリの声が脳内に響く。




 まさか、何を考えている。


 俺は騎士ランス。彼女の決意を見守るだけだ。




 そう、役目はここで終わる。


 俺と彼女は別々の場所で、別々の人生を送る。


 俺はしっかりと、一つの役目を果たしたのだ。


 そうだろ? 母さん。

 

 俺はよくやったと、言ってくれ、ノルディン。


 しかし、記憶の中の母やノルディンは決して俺を褒めようとはせず、寂しそうに微笑むだけだった。

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