第15話 今度、会えたなら

 ふと俺は目を覚ました。




 騒がしいくらいの、鳥の声がする。


 感覚から、寝過ぎてしまったことがわかった。


 


「我ながら珍しいな」




 王都では騎士の習性からか、ほんのわずかな物音でも目を覚ました。昨夜は夢も見ずにぐっすりで、こんなことはいつぶりだろう。




 寝室から出て、昨夜のリビングに入る。奥にあるキッチンからは、美味しそうな匂いとともに、フィリオリとノルディンの声が聞こえてきた。二人は俺に気がつくと、一緒にこちらを見た。




「おはよう、ランス」




 フィリオリがおたまを片手に、三角巾と侍女のようなエプロンをつけている。俺は驚いて、じっとその姿を見てしまった。すると姉が恥ずかしそうに俯いた。




「これですか、ノルディンに借りたのです。変でしょうか」




「変ではありません。けれど姉さんが料理をしているのですか?」




 仮にも第一王女の姉さんが?




「はい、いつもは侍女がやっているのを見ているだけですが」




 フィリオリが細い指を俺に広げて見せた。人差し指と中指に包帯が巻いてある。




「慣れないので、指を切ってしまいました」




 嬉しそうに言った。




「だ、大丈夫なのですか? もし傷が残りでもしたら」




 隣国の王子に嫁ぐ前の大事な体ではないか。




「心配ないですよ。このくらいなら、指輪でうまく誤魔化せます。それよりランス、お腹空いてるでしょう?」




 こともなげに言い、鍋のスープをかき混ぜてから、椀に装った。




「朝ごはんにしましょう。ランスは座っていてください」




「それならば俺も手伝いますよ」




「いいのです。あなたは黙って座ってて」




 フィリオリは俺の背中を押して、椅子に座らせた。俺は手持ち無沙汰で、テーブルの上の番つがいの白梟の片方を手に取る。白梟はノースフォレストでは白狼と並んで信仰の対象であり、見たものに幸せを運んでくると伝えられている。




 やがて、テーブルの上にスープと焼いた卵、葉と果物が並んだ。ノルディンが暖炉で温めていたパンを運んでくる。




「おはよう、ランス」




「おはよう。すごいな、ご馳走だ」




「フィリオリがよく手伝ってくれました」




 ノルディンがキッチンに目を向けると、フィリオリがお盆に乗せた紅茶とティーカップを運んでくるところだった。


 


「さあ、いただきましょう」




 3人がテーブルにつき、手を合わせる。




 俺は手始めに、さっきから湯気と美味しい匂いを上げているスープを手に取り、スプーンで口に運んだ。その様子を、フィリオリが少し心配そうに見ている。




「どうでしょうか」




「美味しい! これを姉さんが?」




 俺の言葉に、パッとフィリオリの顔が輝いた。




「よかった、安心しました!」




 スープは塩と玉ねぎ、そしてキノコで味つけられていた。切られた野菜の形は不揃いで、おそらく姉が切ったのだろう。野菜はよく煮えて、塩味に加えて甘味がある。




 俺はあっという間に平らげて、少し遠慮しながら聞いた。




「おかわりできますか?」




「もちろんです!」




 フィリオリが立って俺のお椀を持ってくると、先ほどよりも大盛りでスープをよそってきてくれた。




 それから3人で談笑しながら、食事をとった。ノルディンは昔の俺の話を、フィリオリは今の俺の話をして、二人で俺の話をしていた。どちらの話も俺にとって、なんとなくくすぐったかった。




 この時間がずっと続けばいいな。そんなふうに考えている自分に気がついた。ずっと、こんな毎日が続いてほしい。




 姉さんも同じ気持ちなのだろうか。目が合うと、幸福そうににこっと笑った。




 しかし———。




 俺にもフィリオリにも、王都での責務がある。




 俺は前線で戦う白狼騎士団として、第4王子としての役目があり、フィリオリは国の平和のために隣国に嫁ぐことになる。




 俺たちは国に戻らなくてはならない。








 別れの際、小高い丘の巨大な大樹の根本で、ノルディンは見えなくなるまでずっと手を振っていた。俺とフィリオリも、何度も振り返りながらノルディンに手を振った。




 見えなくなってからも、俺は何度か後ろを振り向いた。




 鬱蒼と繁る針葉樹林の奥で、ノルディンはこれからも俺のことを待ってくれている。俺は腰の皮袋の感触を確かめた。中にはノルディン特製の紅茶の葉と、花の蜜を集めた小瓶と、ペプラの実がいくつか入っている。




「私、エルフという種族はおとぎ話でしか知らなかったの」




 フィリオリが言う。




「だからもっと高貴で、近寄りがたい印象だったの。けれど、全然違ったわ。とても穏やかで、優しい人。もっとたくさんお話ししたかったわ」




 その顔は寂しそうだった。




 またいつでも連れてきますよ。




 俺はそう言おうとして、思いとどまった。




 フィリオリはもうすぐ隣国に嫁がなくてはならない。この暖かい泉の森に来ることは難しくなるだろう。








 俺の村に着いた頃にはすっかり日が暮れていて、再び宿をとることになった。もちろん、別々の部屋である。




 灯りを消してベッドに入るが、なぜだか眠れない。




 ノルディンのいう、俺自身の魂の声について考えていた。




 王家を、父を、兄を守る。


 それが俺の責務なのだ。そのことに疑いはない。




 けれどなぜだろう。


 己の使命について考える時、国や兄たちより先に、決まっていつも彼女の顔が浮かぶのだった。




 王都にてフィリオリは、自身の秘めた想いを打ち明けてきた。精一杯の勇気だったのだと、今になって俺は思う。そしてその想いを前に、俺はどうしていいのかわからず、立ちすくんでしまった。




 今でも、どんな言葉を返すべきだったのかはわからない。俺の魂の声なんて、わからないし、聞こえない。




 トントン。ノックがする。




「ランス、起きていますか?」




 ドクン。俺の心臓が大きく脈打った。


 


 俺が急いでドアを開けると、フィリオリが立っている。




「姉さん、眠れないのですか?」




 フィリオリが頷いた。




 俺は灯りをつけて、部屋に招いた。部屋に一つだけの椅子に座ってもらい、俺はベッドに腰掛けた。彼女はじっと黙り、何を言うべきか迷っている様子だった。それは最初に部屋に招かれた日のことが思い出された。




「私を攫さらって逃げて」




 そう言ったのはかつてのフィリオリだ。しかし———




「ありがとう、ランス。私のわがままを聞いて、ここまで連れてきてくれて」




 今度の言葉は違っていた。彼女はゆっくりと言葉を選びながら、俺の目を見て話した。




「わかってるの。私があの王子に嫁ぐことができれば、もうたくさんの人が死ななくてすむ。だから私、ノースプラトーに行くわ」




「はい」




「でもその前に一回だけ、わがままを言ってみたくなったの。少しだけ、あなたの強さを分けてもらいたくて」




 俺の強さ。 


 彼女はいつも、俺を強いと言う。




 だが果たして、本当にそうなのだろうか。俺は自分自身を強い人間などと思ったことはない。ただ周りの期待に応え、役割をこなし、ここまで来た。




 そんな俺よりも、激しい感情に揺さぶられながら、自分のなすべきことを選ぼうとしている姉の方こそ、ずっと強い人間に見えた。




 その姉が真っ直ぐに俺を見ている。王都を出る前の、弱々しく泣いていた頃の彼女の目ではない。






「ランス。あなたは誰になんと言われようとも、決して諦めず、剣の練習を続けて、あの怖い兄上にも真っ向から向かっていったわ。私はずっとあなたを、見ていたの」




 俺を見つめる銀色の瞳から俺は目を逸らせなかった。花が開くように言葉を紡ぐ唇が、美しい。




「今度生まれ変わったら私、正直者になりたいわ」




「姉さんは嘘つきではありません」




「いえ、嘘つきよ。だってずっと、自分の気持ちを騙していたもの。でも大丈夫、心配しないで。私は嘘つきだから、向こうの国でもきっとうまくやれるわ。もしかしてもう、あなたとは会うことは……」




 そこで声が震えて、言葉が詰まった。なんとか声を絞り出し、




「会うことは……ないのかもしれない。けどね、もし生まれ変わりというのがあるのなら、次は正直な気持ちで、好きな人のもとにいたいわ。ずっとずっと、離れない。だからそれまで……」




 フィリオリが涙を浮かべながら、微笑んだ。




「それまで、さよならね。ランス」




 なぜこんなにまで純心で、美しく、強い姉上が自らの心のままに生きられないのだろう。




 隣国の、冷血な第一王子の噂を思い出す。




 本当か?




 本当に、彼女が隣の国に嫁げば、この国は救われるのか?




 彼女の気持ちを犠牲にして、国を救うこと。




 その運命に彼女を推し進めること。




 それが自分の責務なのだろうか。




 いや、何を考えている。俺は何を考えているのだ。




 俺は私生児で、長兄ハウルドの剣として戦場にのみ生きることを許されているのだ。そんな私などに、そのような考えは大それている。彼女の気持ちに応える権利も、彼女のための選択も、そもそも俺にはないのだ。




 フィリオリは涙を拭うと、穏やかに微笑みを浮かべた。見るものの心を温める太陽のような笑顔は、いつもの、ノースフォレストの第一王女のものだった。




 そのまま深く一礼すると、さっと顔を背けてそのまま部屋を出ていった。




 俺も彼女を追いかけて部屋を出て、何か言おうとした。




 だが、言葉がない。かけるべき言葉が見つからなかった。




 彼女はそんな俺に気がついて振り向いた。




「もう大丈夫だから。ありがとうランス」




 もう一度微笑みを浮かべると、部屋に戻り、ゆっくりとドアを閉めた。




 俺はフィリオリが見えなくなってからもしばらく動けずに、廊下に立ち尽くしていた。


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