第14話 ノルディン -魂の声-

「ランス、君のことがずっと心配だったんだ」


 ノルディンがカップの紅茶を吹いて冷ましながら、言葉を続けた。


「村を出ていくときのランスは、今のように笑ったりしてなかったからね」


「そうだったかな」


 思い返せば、あのときの俺は母を病で亡くしたばかりだった。


 母はたった一人の家族だった。俺は母の教えを守り、病に倒れてからは母を守るため、街で働いた。だがある朝、母はベッドで冷たくなっていた。


 今まで母を守ることだけを考えて生きてきた俺は、生きる指針をなくしてしまった。孤独に震えていた俺が思い出したのは母が語ってくれた寝物語だ。


 王都にいるという王である父や、兄たちの物語。


 俺にとってそれは、ただ一つだけ、遺されたものだった。

 母を失った俺は、そのほかには何も生きる目的が思い浮かば亜なかった。


「母がよく言っていたよ。人間はあらかじめ、役目が与えられて生まれてくる。その役目を立派に果たすことが、俺の使命だ」


 俺の話を、フィリオリが真剣な瞳で聞いている。その顔を見て俺はハッとした。


 フィリオリも王家の役目を果たさなくてはならないことを思い出したからだ。彼女はもうすぐ、隣国であるノースプラトー第一王子の元に嫁がなくてはならない。残忍さで悪名高い、あの王子とだ。


 ———いや。


 俺は胸中の思いを振り払った。 


 それは長年の戦争を続ける両国にとっての平和への道なのだ。

 彼女は立派に役目を果たすだろう。


 気づけば部屋を沈黙が支配していた。皆それぞれ、何かを考えているかのようだった。そんな中、ノルディンが一つの疑問を口に出した。


「ところで、その役目とは、誰から与えられるものなんだい?」


「誰から…?」


 考えたことがなかった。


 いや、この質問自体は二回目だ。


 同じ問いかけはあの月夜のグリシフィアからも受けている。


 だが俺は真剣に考えはしなかった。しかしノルディンから問われ、改めて考えてみる。


「母さん、いや、父様、兄様…」

 言葉に出しながらも、頭に浮かんでいたのは隣にいるフィリオリの顔だった。


 王都で寂しそうに笑う彼女、涙をこぼす彼女、旅に出て、屈託なく笑う彼女。


 ———フィリオリの顔ばかりが浮かんでくるのだった。


「ランス、君は大人になった。だから、私は同じ大人として、私の気持ちを話してみようと思う」


 ノルディンが意を決したように話し始めた。


「君の魂はただ一つだ。ただ一つ、君のためにある」


 ノルディンが椅子から立ち上がり、俺の肩に手を置いた。灰色の目は今まで見たこともないくらいに真剣だった。


「魂の行末を決めるのは、君の亡くなってしまったお母さんじゃない。この国の王様でも、国民でも、君のお兄さんでもない」


 俺は唾を飲み込んだ。


「ランス、君の魂の行末は、君が決めるんだ」


 ノルディンの言葉が脳裏にこだまする。


 俺が…決める?


 いや、ダメだ。


「そんなこと、許されないよ」


「なぜだい?」


「俺は私生児だけど、王家の血を引いているんだ。それに父上や、ハウルド兄さんや、国民のみんなだって俺に期待しているんだ」


「そうだね、ランス。私はそんな君を誇りに思うよ。でもそれは王家や、国民の願いだ。でも君の魂の声を聞いてみたかい? 君の魂は何を願っているんだ?」


 俺の魂の願い? そんなこと、考えたことはない。


 与えられた責務を果たす。


 人間は、そのために存在しているんじゃないのか?

 誰だって与えられた役割を生きているんじゃないのか。


「魂の声なんて、聞こえないよ」


「私には、君の魂が何かを叫んでいる。そんなふうに見えるんだ。ランス、君は本当によくやっている。けれど……、けれど君の姿をみているとね、なんだかとても……胸が詰まってしまうんだよ」


 ノルディンの目はかすかに揺れながら、じっと俺をみている。何かを必死に、伝えようとしてくれている。しかし……


「———ごめん、ノルディン。俺には、やっぱりそんな声は聞こえないよ」


「……いや、こちらこそごめんよ」


 ノルディンは俺の肩から手を離すと、椅子に戻った。


「ランス。本当に君はよくやってるんだ。人間の社会の慣れない場所で、大変なことも多いだろう。私はエルフだから、きっと、そんなこともわからないで言ってるんだね。けれど、ランス。私はね、どうか君に———幸せに生きてほしいんだよ」


 ノルディンが少し悲しそうに笑った。


「だからたまにはこうして、私の家にお茶を飲みにおいで。フィリオリお姉さんと一緒に。私はいつでもここで、待っているからね」




 夜が更けた。慣れない長旅で疲れたフィリオリは、一足先に寝室で休んでいる。俺とノルディンは暖炉の前で火を見つめ、椅子に座っていた。


 橙色の光が夜の部屋を照らし、影をゆらめかせている。


 俺は少年時代にノルディンからもらった短剣を取り出した。今ではいなくなってしまったドワーフ達、その工匠によって作られた、木の葉を模した真銀(ルシエリ)の短剣。


「これはノルディンに返すよ。辛い時はこれを見て何度も救われた。ありがとう」


「これは君にあげたものだよ」


「だがこんな貴重なもの……」


「真銀はこのノースティアにあって、最も強力な魔除けだと言われている。これはきっと、君を守ってくれるはずだ」


 魔除けか……。


 俺は短剣を懐にしまいながら、彼女たちのことを思い出した。


「ノルディン……魔女という存在が本当に、この世にいると思うか」


 ノルディンは若い頃、ノースティアの窪地中を旅して回った。その彼なら何か知っているのではないか。


 突拍子もない俺の質問にノルディンは少し考えて、


「魔女ね、子供たち向けのおとぎ話でなら知っているけれど。いや、待てよ」


 何かを思い出し、語り始めた。


「エルノール神聖教会の教義にある、7人の大罪の魔女の話かな? かの宗教の司祭たちが海を渡って霊峰の道を通り、この窪地にやってきたんだ。彼らはノースプラトーでその教義を広めた」

 神聖教会がこの窪地にやってきたのは200年ほど前だと言われている。ノルディンはその光景を、実際の目で見て知っているらしかった。


「その教義というのがね…」


 人間は生まれながらに7つの大罪を背負って生まれてくる。


 すなわち、傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰の7つ。


 人間が生きている限り、その罪の誘惑からは逃れられず、人間は生あるかぎりその7つの欲望と戦い続けなければならない。


 そして7つの大罪の名を持つ、それぞれの欲望を体現する7人の魔女がこの世界に存在する。


 彼女らは決して死なず、決して変わることがなく、ただ自分の罪の名が示す欲望のままに永遠に生き続ける。


 そして人間を欲望に堕落させるため、常に機会を伺っているのだ。


「永遠に生きる存在なんてものが、本当にいるのだろうか?」


 俺にとっては、200年前の出来事を実際に見てきたノルディンがそれに近い存在に見えた。視線に気がついたノルディンが手を振った。


「いやいや、確かに君たちより長生きだけど、永遠の存在ではないよ。もう私もだいぶ生きた。残り時間はそんなに多くないだろう」


「そうなのか?」


 ノルディンが寿命を迎える。そんな想像すらしなかった事実に、俺はショックを受けた。そんな俺の肩を、彼は笑って叩いた。


「ああごめん、驚かせたね。それでもきっと、君の生涯よりはずっと長生きするよ」


「なんだ、驚かさないでくれよ」


 俺は安堵のため息をついた。ノルディンがいなくなった世界なんて想像がつかなかった。


「私の知っている限り、永遠に変わらず、生き続ける存在なんてものは知らないよ。魔女は教会の教義によって生まれた概念上の存在、つまりは作り話というわけさ」


 作り話……。

 

 それはそうか。

 

 だとすると、あの魔女と自称した者たちはなんなのだろう。俺は花畑の童女を思い出して言った。


「魔女は俺に100万回の生を与えたというんだ」


「それはずいぶん、サービスのいい魔女だね」


 ノルディンが笑う。


 俺はその笑顔にホッとすると同時に、一瞬でも魔女の存在を信じそうになったことが恥ずかしかった。俺はついでに、兼ねてからの疑問を投げかけてみた。


「ノルディン、実はノースプラトーの坑道にはもうドワーフはいないらしいんだ。そもそもドワーフの伝説自体を知っているものに会ったことがない」


「なんだって? ……いや、私が若い頃、ドワーフたちと出会ったのは本当だ。その真銀の短剣はエルフや人間の手ではけして加工することはできない」


「だとすれば、ドワーフたちはどこへ行ってしまったんだろう」


 ここ数百年、窪地は雪に包まれこそすれ、地殻変動や大きな気候の変動に見舞われた記録はない。


 このノースティアの窪地から、人々の記憶ごといなくなってしまったドワーフたち。


「ランス、私はね、この暖かい泉の森に移り住んでから、外の世界のことについては何もわからない。けれどなんだか、胸騒ぎがする。根拠はないんだけどね、何かとんでもないことが起こりそうな気がするんだ。だからせめて、ランス」


 ノルディンが祈るように俺を見た。


「その短剣を肌み離さず持っていてくれよ」

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