第9話 嘘と姫君(前)

 初陣後、俺は束の間の休息を与えられた。俺の家でささやかな初陣の勝利を祝うパーティが開かれることになり、フィリオリが俺の家を訪ねてきた。


 俺を見るなり、彼女が駆け寄ってくる。


「ランス、ケガはありませんか?」


 開口一番、彼女は俺の体のことを聞いてきた。何ともないことを伝えると安堵したようで、微笑んだ。


「とても心配していたのです」


 彼女の目尻がうっすらと光っていた。よく見れば、目の周りにうっすらと隈ができている。


「あまり見ないでください。昨夜は眠れず、今日はひどい顔です」


「そんなことはありません。姉さんはいつでも、綺麗ですよ」


 俺の言葉にフィリオリの頬に赤みがさした。俺から離れて「この部屋は暖かいですね、暑いくらいです」と早口で言った。


 それから俺と彼女は日のあたるバルコニーに出て、少しの間、談笑をした。


 日の光の下で、彼女が花のように微笑んでいる。


 俺は昨夜の自称魔女グリシフィアを思い出し、その姿を重ねようとした。


 フィリオリとグリシフィアは髪の色が銀と黒という違いはあれ、確かにそっくりな顔をしている。だが、印象はまるで正反対だ。


 あの女が傲慢な夜空の月だとすれば、フィリオリはこの冬の王国の控えめな太陽に似ている。自ら目立とうとはしないが、そこにあるだけで王国の冷たい石畳を暖めてくれる。


 気がつけば、フィリオリと出会ってからもう2年ほどの時が経っていた。


 俺は17歳になり、彼女は19歳。

 

 彼女の美しさが国内外に響き渡り、縁談の話もよく届くようになった。彼女は王家の第一王女である。もし結婚するとなれば、相手は国の有力貴族か、王国に連なる家柄のものたちだろう。


 時間が穏やかに流れていく中、俺は初陣の話などした。初めのうちはフィリオリが相槌を打ってくれていたが、そのうちそれは少なくなり、ついには黙ってしまった。


「姉さん、すいません。話しすぎました。戦の話など、退屈ですよね」


「いえ、いえ。そんなことはありません。ランスの活躍の話を聞けるのは嬉しいです」


 姉は慌てて取り繕うように、声を出した。だがこのような姉の様子は今だけではなかった。最近、会話をしている最中でも心ここにあらずといった感じで、黙ってしまうことがよく見られた。


「姉さんは最近いつも、何かに悩まれているようです」


 俺の言葉にフィリオリがハッとした顔をした。それから何かを言いかけて、口をつぐみ、そしていつものように笑顔を浮かべた。


「いえ、悩みなどありませんよ。けれど、疲れているのかしら。今日は早めに城に帰って、部屋で休むことにしますね」


「そうですか。悩みがあればなんでも相談してください。私はいつでも姉さんの味方ですから」


 俺とフィリオリの視線が一瞬交わるが、すぐにフィリオリは視線を逸らし、


「ありがとう、ランス。けど、大丈夫よ」


 軽く会釈をして俺の元を去った。




 そこから何週間か、何事もなく過ぎていった。


 その日を境にフィリオリの物思いに沈む様子も見られなくなり、いつもの彼女に戻った。俺は安堵の息を吐き、再び新しい陣形の訓練に打ち込むようになった。


「今日も疲れたな」


 訓練を終えて王城に戻り、俺は訓練室のソファーで一息をついた。


 新しい陣形も様になってきた。これが完成すれば、白狼騎士団は突進力に加え、敵の虚をつく動きができるだろう。


 そんな中、一人の侍女が訓練場に入ってきた。フィリオリの従者だった。


「ランス様、こちらへ」

 

 侍女は緊張した声で言うと、俺を人気のいない廊下へ連れていき、柱の陰でメモを渡した。


「目につかないところで見てください。お願いします」


 と言った後、彼女は一礼して足早に去っていった。


 何事だろう。


 俺は周囲に人の気配がないことを確認し、中身を見る。


 メモには侍女の筆跡で

「今夜、フィリオリ様の部屋にいらしてください」

 と書かれていた。


 やはり姉の身の上に何かあったのか。


 夜になり、フィリオリの部屋へ向かった。ノックをすると、音もなくドアが開き、侍女が俺を中に招き入れた。


 部屋の奥ではフィリオリがソファーから立ち上がり、思いつめたような顔でこちらを見ていた。


「ランス、ごめんなさい。急に呼んでしまって」


 フィリオリは笑顔を浮かべようとするが、うまくいかず、俯いてしまう。


 それから沈黙が続いた。彼女はただならぬ様子だが、なかなか話だそうとはしない。俺も黙って、フィリオリの言葉を待った。


 暖炉にくべられた薪がパチパチと爆ぜる音と、風が吹いて窓を揺らす音。俺はごくりと唾を飲み込んだ。どれくらいそうしただろう。


「う」


 不意にフィリオリから嗚咽が漏れた。小さな肩が震えだし、彼女が床に膝をついた。驚いた俺は、すぐにフィリオリのそばに駆け寄る。


「やはり何かあったのですね!」


「いいえ、なんでもないのです!なんでもないの」


 フィリオリは泣きながら、なんでもない、を繰り返した。涙が細い顎を伝わり、純正白のドレスにいくつもの染みを作る。


 なんでもないわけがない! 

 

 俺はフィリオリの手を握った。


「姉さん、初めて会った時から、俺はいつも。いつも、あなたに助けられてきました。どんなことでもいい。私は、あなたの力になりたいのです」


 俺は一言一言に力を込めて言った。


 城で初めて会ったときから、優しい姉はいつも、孤独な心を癒してくれた。それにどれだけ救われたか、わからない。


 姉の力になりたかった。この儚い姉を悲しませるあらゆるものから遠ざけ、守りたかった。


「どんなことでも、聞いてくれるのですか?」


 姉は涙で濡れる顔を手で覆いながら、震える声で言った。


「はい」


 俺は強く頷く。


「なら」


 姉が涙に濡れた顔をあげた。長いまつ毛が、涙の滴で濡れている。フィリオリはすがるように俺を見つめて、言った。


「私を攫(さら)って、逃げてください。ずっとずっと、霊峰の道を通って、海の向こうまで……こんな嘘だらけの、残酷な世界から……私を逃して」


 俺は驚き、言葉を出せずにいた。

 

 この国から出る……だって? 一体、彼女の身に何があったのだろう。


「己の役割を果たしなさい」


 脳裏に母の声がこだました。


 俺は彼女を守ることを何度も誓った。

 しかし、彼女の願いを叶えることは、彼女を守ることになるのだろうか。


 俺の思考は巡り巡って、自らに同じ問いを繰り返し続けた。答えを返せず、黙って立っている俺を見て、フィリオリがふっと花のように微笑んだ。


「ありがとう、ランス。あなたのことだから、真剣に考えてくれているのね」


 その声音はいつもの姉さんの調子に近かった。優しくて、太陽のように俺を暖めてくれる。その彼女が言葉を続けた。


「そう、あなたはいつも誠実。この嘘だらけで、寒い寒いこの世界で、あなただけが真実の言葉で話していたわ」


 瞳からまた涙が一筋こぼれ落ちる。姉さんは潤んだ目で俺を見つめた。


 その顔がゆっくりと、俺に近づいてくる。


「嘘つきは、私なの」


 息のかかる距離で彼女が言った。


 俺は固まり、高鳴る自分の心臓の音だけを聞いていた。

 姉さんの顔がさらに近づき、その唇が、俺の額に触れた。

 

 触れるだけの優しい感触。体温、花の香り。


「ランス。私、ずっとあなたを見ていたの。あなたがこの城に来た時から、ずっとよ。初めて会った時から、優しいお姉さんのふりをしていたわ。けれど、いつからか、それは嘘なんだって気づいたの。気づいてからもずっと、嘘をつき続けて……隠しているつもりだったのに」


 関を切ったように話すと、そのまま俺の胸にすがって声を殺し、泣き声をあげた。震える肩はいつにも増して儚く、消えてしまいそうな気がした。


 俺はどうしていいのかわからず、いつもの通りにその肩に触れることができなかった。立ち尽くし、胸に響く彼女の鳴き声を聞いていることしかできない。


 俺の胸で一通り泣いたあと、やがて姉さんは俺から離れた。ドレスからハンカチを出して涙を拭い、微笑んだ


「ごめんなさい、あなたを困らせたわ」


 それは完全にもう、いつものフィリオリの声だった。


 何か声をかけなければ。早く!


 そう強く思って気が焦ったが、思考が混乱し、現実の俺はただ立ち尽くしていた。


「もう大丈夫、急に呼び出してごめんなさいね。今夜も冷えるわ、道中、風邪をひかないように暖かくして帰ってね」


 姉の言葉に、俺は頷いた。一礼し、退出する。


 部屋から出てドアを閉めるときに、姉の声が聞こえる。


「幸せになってね、ランス」

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