第8話 グリシフィア
俺は今まで、自分の気持ちだけで何かをしたことがあっただろうか。
いや、子供の頃は思うがままノルディンの後をついていき、冒険の空想に思いを巡らせたものだ。しかしいつからだろう、俺は常に誰かから与えられた役割に沿って生きている。
俺は眠ることができず、家から外に出て、深夜の誰もいない街をぼんやりと歩いた。川のほとりに着くと、俺は近くの倒木に腰掛けた。
そんな中、月を見上げる人影に気がついた。
風に流れる漆黒の長い髪、対照的な白い肌と細い首、月明かりの下で黒いローブを纏ったシルエットは月の女神のようだった。その顔を見て俺は驚いた。
「フィリオリ?こんな夜にどうしたんだ」
どうして真夜中にフィリオリがこんなところに出歩いているのか。いくら王都とはいえ、こんな時間には危険な輩もいる。
「フィリオリ?私はフィリオリじゃないわ」
その声はフィリオリと同じ声質だったが、トーンがまるで違っていた。
柔らかい花びらを思わせるフィリオリと違い、少女の声は冷たい氷のように感じた。考えてみればフィリオリは銀髪に銀の目だが、少女は髪も目も深い夜を思わせる漆黒だった。
「失礼しました。私の知り合いにあまりに似ていたもので」
「そう」
彼女は興味なさそうに答えた。
「しかしこんな夜遅くに女性一人だなんて危ない。この辺にだって物騒な輩はいるのです」
「物騒な輩?」
彼女はいたずらな笑みを浮かべ、こちらを見た。
「それはあなたのことかしら?」
確かにこんな夜分に一人で歩く俺は、野盗の類だと思われても仕方がない。
「いいえ、これでも騎士です。身分を示すものは……家に置いてきてしまいましたが」
「身分なんてどうでもいいわ、ランス」
その口から出てきた、俺の名前に驚いた。
「私の名前を知っているのですか?」
だがそんなことよりも、
「私のことはともかく、早く家に帰られたほうがいい。もう夜も遅いのです。眠らなければ、体に障ります」
「眠れないのよ」
彼女は答えた。
「私、眠れないの。眠れる人間がうらやましいわ。夜になると、退屈で仕方がないもの」
眠れない夜は俺にも覚えがある。それは長く、終わりのないように感じるものだ。
「では、あなたが帰るまで、おともいたします」
「? なぜあなたがそんなことをしなくてはならないの?」
「なぜ、ですか。女性を守るのは騎士として当然のことです」
「わからないわ。私のような得体の知れない女を守ることで、あなたが何か得をするのかしら」
彼女は少し考えて言葉を続けた。
「この前に会ったあの人間も言っていたわ。己の義務だ、役割だなんだって、なぜ、そんなものを大切にするのかしら」
俺には彼女の考え方こそ、わからなかった。人は皆、それぞれ役割を持って生まれてくるのだ。その役割を全うすることは、人として正しく生きるということだ。
「その方は与えられた役割に
「その役割ってのは誰が決めるの?」
「誰が……ですか」
考えたこともなかった。
王、母、兄、姉…
俺の頭の中でめぐるましく顔が浮かんでくる。
「あなたたち、せいぜい生きたとして、たった100年でしょ? その100年すらどう生きるか、自分で決められないの? 滑稽なことだわ」
俺は何か反論しようとしたが、言葉が出てこなかった。
「どうせ人間は誰のために生きようが、何をしてようが、あっという間に死ぬのでしょう? その短い生を誰かの言いなりで生きるなんて」
彼女は笑みを浮かべて、言い放った。
「まるで家畜のような生き方ね」
俺はすうっと血の気が引いていくのを感じ、思わず彼女を睨みつけていた。だが深く息を吐いてその感情を押し殺すと、俺は言った。
「あなたにはわからなくても、人間は自分の義務を果たすべきです」
「家畜は考えなくてもいいものね。よく肥えて、誰かの食卓を潤すのが仕事だもの。羨ましいほど怠惰で、楽な生き方」
「……楽なものか」
戦場で血に
「何か言った? 聞こえないわ」
「もう帰りましょう、と言ったのです。あなたを家までお送りします」
「まだ騎士の義務とやらを果たそうというの? こんな真夜中にぶらぶらと出歩いて、なんの義務を果たしていたのかしら。
———まあ、いいわ。魔女のお供としてはちょうどよさそうだものね」
「魔女?」
「ええ。私は魔女なの」
彼女は俺の反応を確かめるようにこちらを見ている。
魔女はもちろん、おとぎ話に出てきて、人間を惑わす存在だ。現実の話ではない。
からかわれていると判断して
長いまつ毛と綺麗な瞳、柔らかそうな唇まで、近くで見れば見るほどにフィリオリに似ていて、俺は唾を飲み込んだ。
魔女は俺の両頬を手で包み、息のかかる距離で言った。
「美しい顔でしょ? この瞳も唇も、世界に二つとない宝石のよう。あなたのような人間には勿体無いわ。そんな美しいものがそばにあるなんて、あなたはなんて幸運なのかしらね」
魔女は妖艶に微笑んだ。俺は言葉を失う。
確かに言う通り美しいのだが、自分のことをそこまで言うか……
なんて
やはりフィリオリと似ているのは顔と声だけで、別の人間だ。それどころか、なんだか別の生き物を見るような気持ちになってきた。
「あら、お迎えが来たようだわ」
魔女は俺から手を離し、夜の闇の方に顔を向けた。
俺にはその方向には何も見えず、何も聞こえない。
「なんだか、あなたにはほんの少しだけ、興味を持ったわ。けれどあなたの顔なんてすぐに忘れてしまうでしょうね。そうだわ」
彼女の細い指には7つの指輪が嵌められている。そのうちの一つをはずし、俺の小指にはめた。それは三日月を模した形に小さな宝石を散りばめており、月光を反射したそれは月のレプリカのようだった。
「これをなくさず持っていなさい。そうすればあなたのこと、ランスだとわかるから」
「偉大なる御方よ」
夜の闇から音もなく一人の男が現れた。少女の前に跪いて声を出すまで、俺にはまるでその気配を感じることができなかった。
「ガイツ、ずいぶん慌てている様子ね」
「すでに他の皆様方はお集まりになっています。我が主人、憤怒の御方よりお迎えに上がるよう命令を受け、参上いたしました」
「あんな女、いつまでもだって待たせておけばいいのよ。私を誰だと思っているの?」
魔女が傲慢に笑い、俺に背中を向ける。
「さて、魔女の騎士さん。夜のお散歩は終わりよ。あなたこそ、早く家に帰ることね」
「待て。君の名前を教えてもらっていない」
この女とは一生分かり合えることはない。そう感じていたにも関わらず、なぜか俺はこの自称魔女に名前を尋ねていた。
魔女は俺を
「グリシフィア」
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