第2話 冬の日の旅立ち
9歳の俺は目を開けていられなかった。
さっきまではチラついていた雪が、急に吹き荒れ、あっという間に激しい吹雪となったのだ。
激しく顔を叩く氷雪に、泣くこともできない。
家で待っている母の顔が浮かんだ。
今も、たった一人の家族である俺を待っているだろう。
ブーツの先のつま先が痺れて、自分の足ではないような気がした。
それでも一歩一歩、硬い雪を踏み締めていく。
そのとき、突然、誰かが手を掴んだ。マントの中に俺を引き入れて、冷たい風から遮断した。暖かい体温とマント越しの風の音を聞きながら、俺は気を失った。
「なんとお礼を言ったらいいか」
母親の声が聞こえた。
暖炉の前に寝かされた俺の前に、白金の髪の長身の男が立っていた。男の耳が尖っている。
「私はたまたま通りかかっただけですよ。けれど、一人で森で遊ぶのは危ない。この窪地の天候は変わりやすいし、時々は狼も出ますから」
周囲を囲む山々の中で、南の方角に一際大きく
俺はすぐにノルディンと友達になった。
エルフたちは人間よりずっと長生きで、村の長老が子供の頃から、村と交易を続けている。彼らが村に訪ねてくるたび、俺はノルディンの姿を探した。
彼は俺を見掛けると満面の笑みを浮かべて、抱き上げて肩に乗せた。それからエルフのテントで、甘い紅茶を出してくれた。
カップに注がれた紅茶に、森で採れたペプラの実の果汁を数的絞ると、湯気に混じって甘酸っぱい香りが広がる。口に含むと、この世の幸せを凝縮したような味と共に、冷えた体を温めてくれた。
ノルディンは会うたび、俺に様々なことを教えてくれた。
ここは四方を高い山脈に囲まれた大きな窪地になっており、ノースティアと呼ばれていること。
東西に二分して、西側に俺たちが住むノースフォレスト、東側にノースプラトーという2つの国が治めていること。
霊峰の
特に楽しみにしていたのが、若い頃のノルディンの冒険譚で、彼は窪地のあちこちを探検し、ノースフォレストやノースプラトーだけでなく、そこを越えた先にある北のエルフの集落や、ドワーフの大坑道にも行ったことがあるそうだ。
数年もすると、ノルディンは父親のいない俺にとって最も心が許せる友達になっていた。そこで俺は、とっておきの秘密をノルディンに打ち明けた。
「俺のお父さまはね、ノースフォレストの王さまなんだって」
俺は大切に胸元に閉まっていた、金のブローチを取り出した。そこには花の蕾を思わせる赤い宝石と模様が刻まれている。若いときの母が、父からもらったものだった。
ノルディンは驚いた顔をしてから、そのまま俺を抱きしめた。俺はそれを引き剥がそうとする。
「どうした、おれを子供扱いするなよ。お父さまが近くに居なくたって、おれは平気だぞ。気高く、強く生きるんだ」
長い耳が俺の話をじっと聞いている。
俺は言葉を続けた。
「お母さんが教えてくれたんだよ。人は何かしらの役目を持って生まれてくるんだって。だからおれは、その役目を果たす義務があるんだ。
王都にはお父さまと、兄さまや姉さまがいるんだ。俺はみんなを守る、騎士になるんだよ」
「そうですか。君はとってもいい子だから、きっと素晴らしい騎士になりますね。けど今、君が一番守らなくてはならないのは、君のお母さんだよ。君はお母さんの騎士でもあるんだから」
やがて大人になるにつれて、ノルディンの語っていた各地の話がただのおとぎ話であることが徐々にわかってきた。
ノースプラトーの向こうにエルフは住んでいないし、奥地の坑道にはドワーフは住んでいない。行商人は、誰もエルフやドワーフのことを知らなかった。
そればかりか、今が戦時であることも教えられた。俺たちの住む西のノースフォレストと、東のノースプラトーでは100年にもわたって戦争が行われている。だがこの平和な村にいると、それはにわかには信じられなかった。
それもそのはずで、長引く時の経過で、戦争は形だけのものとなり、あまり大規模な衝突はしばらく起きていないとのことだった。
そして14歳になり、その頃の俺は遠い場所での戦争や、おとぎ話どころではなかった。母が病で倒れたからだ。
俺は母の介抱をしながら、村人たちの家畜の世話や麦の刈り入れなどをして生活費を稼がなくてはならなくなった。さらに頭を悩ませたのが、16になれば俺は兵役で、王都に行かなくてはならず、母を頼む当てはなかった。
だが唐突に、悩む必要はなくなった。
母の容態が悪化し、あっという間に天に召されたからだ。
質素な葬儀を終えて家に帰るなり、俺はベッドに倒れ込んで、泣いた。
たった一人の身寄りを無くし、この世界にただひとり取り残されてしまった。
今まで母のために生きていた俺は、この先の生きる理由を見出せなかった。
ひとしきり泣いた後、母が大切にしていた金のブローチを手に取って眺めた。
母の、いつも言っていたことを思い出す。
「人は何かしらの役目を持って生まれてくるの。お父様の子供であるあなたは、特に強い役目を持っているのよ」
「はい、母さま。俺は責務を果たします。いつの日か父や兄を助け、彼らを守る盾となります」
幼い俺はいつもそう答えた。今まで母の前で、何度誓いを立てたのかわからない。
そうだ、俺は一人ではない。まだ、父や兄たちがいるじゃないか。
王城では国を守るため、騎士や兵たちが日頃から鍛錬に励んでいるのだという。その指揮を取るのが、ノースフォレストの王族である父や兄たちだった。
俺は最低限のものだけを残して売り払い、処分し、それで得た幾らかのお金を持って、王都に向かう乗合馬車に乗ることにした。
出立の朝には、遠く霊峰の
かけるべき言葉を考え、何も言えずにいるノルディンを、俺は抱きしめた。
「ありがとう、来てくれて本当に嬉しいよ。あのとき、冬の嵐の中で救ってくれただけじゃない。いつも優しいノルディンにたくさん助けられた」
父親がそばにいない俺にとって、ノルディンの存在はそれ以上の存在だった。
ノルディンは俺の頭に手を置いた。
「私ができたことなんて、わずかなことだよ。あの冬の日だって、幼い君は決して歩みを止めなかった。君は強い子だ、ランス。君にこれを受け取ってほしいんだ」
懐から取り出されたものは、白銀色の短剣だった。葉っぱの形をした鞘には小さな花の蕾の模様が刻まれ、美しい細工をしていた。
「あらゆる魔を祓うと言われる金属、
ノルディンの目はいつものように優しく、俺の身を案じてくれていた。
ドワーフは実際には存在しないおとぎ話の住人と聞いていたが、ノルディンの顔はおとぎ話を語る顔ではなかった。
「ルシエリは決して錆びることも、欠けることもない金属だ。けれどその本当の力は、人間が持ってこそ発揮すると、作り手が言っていたよ」
「わかったよ、ノルディン。ありがとう、大切にする」
「肌見離さず持っていてくれ。私はね、なんだか……」
ノルディンはその先の言葉を飲み込んでから、少し寂しそうに笑った。
「忘れないでくれ。もうこの村に君の家はなくても、ここは君の故郷なんだ。帰ってきたら、いつでも私の家に来るといい。霊峰に続く道をまっすぐ行くと、暖かい泉の森の奥に私の家があるんだ。一本道だから、迷わないと思うよ」
「うん、いつか必ず、帰ってくるよ」
俺とノルディンはもう一度、抱き合った。冬のあの日から変わらない、春の木々のようなノルディンの香りがする。俺は離れて、馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出すと、ノルディンは大きく手を振り、見えなくなるまでずっと振り続けていた。遠くなっていく村を見ているうちに、不意に胸から感情が突き上げ、涙と嗚咽が溢れそうになる。俺は口を押さえ、息を止めて堪えた。
こんなところで泣いてどうする。
俺は父や兄たちを守る、騎士になるのに。
そう、次に帰ってくるとき、自分は立派な騎士になっているだろう。
国の盾となり、ノルディンやみんなを守るのだ。
それこそが自分の運命だと、信じて疑わなかった。
そう、俺は何も知らなかった。
この先に出会う永遠に生きる魔女たち。
この生と、この国、兄弟たちの結末。
そこから始まる、終わりのない物語。
運命が少しずつ、歩み出した。
その足音はまだ聞こえない。
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