二話、寿司。

 店員の背中がバックヤードに消えるまで見続けた後、グラスを口に運んで水を口に含み、その水の味に少しだけ驚いてしまった。水は透き通るように澄んでいた。少しの雑味もなく、すぅっと口の中に染みわたる。この水は俺が好きでよく飲んでいるバナジウム天然水よりも美味しい。


 こんな水が出てきたら、否が応でも料理への期待が高まるという物だ。何が出て来るかはわからないが、変な物は出てこないだろうという安心感があった。


(さて、待っている間に……)


 思い出レストランの名前をインターネットで検索しようと思い、携帯が入っているはずのポケットに手を入れる。だが、いつものあの硬い感触が一切ない。


「……え、嘘だろ?」


 慌てて身体中を探ってみたが、携帯どころか財布も見当たらない。更には普段持っている鞄すら持ってないことに気付く。そこには予備のお金が入っていたのに。


 予想外の出来事に頭から血の気がさっと引いていくのを感じた。このレストランへ来るまでにどこかで落としたのだろうか? もしかすると電車の中で……。


 頭の中はパニックになっていた。電車会社に連絡を取るのにも電話がなければどうしようもない。一瞬、周りの客に携帯を借りるか迷ったが、店員の言葉を思い出してやめた。


(今からキャンセルって効くかな? 金が払えませんって言うのも恥ずかしいな、怒られたりするのかな⋯⋯)


 思考が段々とネガティブな方へと思考がいっているのに気付いたが止めようがなく、天を仰ぐように視界を上へとやった。


 店の天井が視界に映る。そこには絵画が何枚か貼り付けられているのが見えた。絵に疎い俺ではそれがなんの絵かわからなかったが、全ての絵に共通してわかったのは、天使が描かれているということだ。


 一番目が惹かれたのは、天使が客に料理を提供している物だった。最後の晩餐という絵によく似ているような気がする。


 店を照らすシャンデリアの光を浴びて薄っすらと光る絵画を見ていると暗い気持ちが段々と晴れていくように感じた。店員が料理を持ってくる時に言えばいい。誠実にしっかりと伝えればなんとかなるはずだ。……そう思おう。


 自分の心にそういい聞かせてから顔を元に戻す。しかし、開き直ったのはいい物の時間を潰す方法がないままだ。昔、携帯が無い時はどうしていたんだろう。


 あてもなく店内に視線をさまよわせる。すると、その行為がやけにしっくりきた。それと共にまだ幼い頃のことが頭の中に蘇ってくる。


 ──ああ、そういえば昔は、よく周りの人の観察をしていたっけな。


 昔の俺は他人のことを見るのが好きだった。時間の合間合間に歩いている人を見たり、話しをして笑っている人を見たりするのが好きだった。それなのに、いつからか俺は携帯を見るばかりで周りを見ることをしなくなっていた。たまにはこうやって携帯から離れるのもいいかもしれない。


 俺は視線を隣の席に向ける。そこには老夫婦がいた。その二人が何を話しているかは聞こえてこないが、楽しそうに笑顔で話しをしている。この二人は一体何を食べているのだろうか? そう思って机を見て、一瞬だけ思考が止まってしまった。そこにはこの洋風なレストランに不釣り合いな物が置かれていた。


 それは──寿司。そう、あの寿司だ。赤身のマグロとなにかの貝が板のような皿に乗せられて老人の前に置かれていた。テーブルクロスの机に寿司は似合わないと俺は思ったが、老人は嬉しそうに寿司を口に頬張った。


 マグロを噛みしめた老人は薄っすらと涙を流した。それを見て、俺は視線を外す。人が泣くのをまじまじと見る趣味はない。だけど……泣くほど美味しい寿司なのだろうか?


 少しだけ気になって、自分の食べてきた中で一番美味しかった寿司を思い出す。だけど、泣くほど感動はしなかった。むしろ、なんだこんな物かと思ってしまった気さえする。きっと、インターネットで評価を見てハードルを上げてしまったからだ。評価の割には美味しくなかったなと思ってさえいたかもしれない。


(それにしても、なんで奥さんの前には料理がないんだ?)


 そこに違和感を覚えた。皿を引き下げるにしても早すぎる。まだ、夫の方は食べているのだ。


(ああ、そうか。メニューがないということは料理が出てこない場合もあるのかもしれないな)


 それはそれでおかしいが、この店自体がどこかおかしい。だから、そういうこともあるのだろうと考えて自分を納得させた。


(でも、寿司も出すだなんて……俺には何を持ってくるんだ?)


 期待と不安が半々といったところだ。別に嫌いな食べ物はないからとんでもない物が出てこない限りは食べられると思う。


 ……まぁ、ここまで来たら考えても仕方ない。もう少し時間を潰そう。そう思って、俺は次のテーブルへと視線を向けた。

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