思い出レストラン。
真上誠生
一話 レストランの説明。
「いらっしゃいませ、お越しいただきありがとうございます」
「あ、ああ……」
突然の女性の声に我へと返った。少しだけ仰け反った拍子に、ぎしりと椅子が音を立てる。気が付けば、いつのまにか木でできた椅子に座っていた。目の前にはテーブルクロスの敷かれた二人掛け用の小さな机。その上には水と氷の入ったグラスが置かれている。
甘酸っぱい香りが辺りに漂っていて、それがやけに鼻腔をくすぐってくる。その匂いは昔、子供の頃によく嗅いだことのある匂いで、すぐにトマトケチャップの物だと気付いた。どうやら、ここは飲食店──レストランのようだ。
(それにしても、どうして俺はここにいるんだ?)
ここに来るまでの記憶が俺の中から抜け落ちていることに気づく。ここに俺がいるのはあり得ない。だって、さっきまで俺は──。
「──今から当店の説明をさせていただきますね」
「え、あ、はい」
俺の言葉と共に女性は何かを説明し始めたが、耳半分にそれを受けた。今は現状の把握が先決だ。
記憶を底まで辿ろうとすると、高無の顔を思い出してしまって胸の中にモヤっとした物が広がった。近ごろは毎日、高無の残した仕事を残業で消化させられている。今日の帰りが遅くなったのもそのせいだ。あんなやつが上役で会社に幅を利かせているだなんて、早晩にでも会社は落ち込んでいくだろう。
……いや、今は高無のことなんてどうでもいいな。今はそれよりも思い出すことが先決だ。
確か、会社を出た後は駅までの道を歩いたはずだ。月も出ていない真っ暗な道を覚えている。そして終電に乗り、電車に揺られながら眠気に耐え切れず目を閉じた。俺の頭の中にある最後の記憶はそこで切れていた。
記憶が無い。そのことに、体が恐怖からか少しだけ冷えたような気がした。俺は一体どうしてしまったのだろうか。もしかして、これは夢だろうか?
焦燥感が募る俺の耳に、ガヤガヤと店の喧騒が入ってくる。女性の声が聞こえづらくなるほどの音量が、ここは現実なのだと伝えているように思えた。
「──様、お客様、大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
女性の声で思考の世界から現実へと引き戻される。それで、しっかりと女性の顔を見て息を飲んだ。俺の接客をしていたのは、現実離れをした美貌の女性だった。透き通るようなブロンドの髪、透明感のある染み一つもない白い肌、それにアクアマリンを彷彿させるような蒼い瞳。明らかに日本人ではないのだが、それにしてはやけに日本語が流暢な子だった。
「ごめんなさい、少し呆けてしまっていて。もう一度説明をお願いできますか?」
説明を聞いてなかったことを素直に謝罪し、もう一度繰り返してもらうように頼んだ。よく聞けば、彼女の声は耳心地がよく、心がほっと落ち着くような声だった。さっきまで悩んでいたことが頭の中からふっとんでいくようだ。
「はい、もちろんです」
俺の言葉に女性はくすくすと小さな笑い声を出しながら目を細め、愛想よく頷いてくれた。それを見て、俺は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
「ここのレストランでは、シェフがお客様に合わせたメニューをお出ししています」
「僕に合わせた? 自分で注文はできないんですか?」
俺の言葉に、女性の店員がコクリと頷く。一体どういった仕組みかわからないが、自動で出てくるそうだ。満漢全席みたいな大量の料理が出てきたらどうしたらいいのだろうか。
別にお腹は空いていない。電車に乗る前は空腹だったはずなのにおかしな物だ。
「大事な注意点としまして、周りのお客様に干渉しないようにお願いします」
「わかりました」
干渉する理由も特にないので頷いた。だけど、こんなことを言う店は初めてだな……そもそも、この店がどこにあって、なんて名前の店なのか知らないままだ。
「それでは、少々お待ちくださいませ」
「あ、あの!」
そう言って、席から離れようとする女性を俺は呼び止める。そして、振り向いて首を傾げる店員に、俺は質問を投げかける。
「すみません、この店の名前を教えてもらえないでしょうか……」
俺の言葉に女性は天使のような微笑みを浮かべ口を開く。
「ここは、思い出レストランです。ご存分に楽しんでいってくださいね」
思わず見惚れてしまったその笑顔に、俺は無言で頷くことしか出来なかった。
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