少女に泣きつかれて現代ダンジョンの番人をすることになった話の冒頭部分

みやこ

少女になきつかれて現代ダンジョンの番人をすることになった話

 明日から予定のない夏休みが始まるのだった。ボクは約束された退屈へせめてもの細やかな反抗を企てて、ついでにとある理由も抱えて、夜半家を出た。


 死ににいくつもりはなかった。ただ買い物がしたかったのだ。


 時刻は九時。今からならギリギリ、十時閉店の本屋に駆け込める。

 十冊程度買い込んで、読書の夏にでもしようじゃないか。


 幸い貯金はある。

 いっそ分厚い幻想文学、ポーの全集なり澁澤の翻訳の集成なりを買って読み耽るのもありかもしれない。


 ついでに人の少ないこの時間帯なら日中買いに行けないある種の雑誌や漫画も買えよう。


 イカれた入れ替えアイドルオタクじゃないが、尻とタッパの大きな子が入ってるのがあれば買いたい。

 特に尻。

 尻は良い。

 胸なんぞよりよっぽど躍動していて、肉の詰まっている感がある。

 引き締まりと豊満の相反を両立させる、すなわち女体のナイアルラトホテプと言えよう。


 それを包む服もイカしてる。

 黒のパンティで包み込むのは王道だが、食い込ませて欲感を煽られるのも乙なもので、パンストで覆うのもよろしい。


 覆われているがゆえの解放への予兆。


 そういう点で言うならばパンツ・ルックのしゃがんだ瞬間こそが傑出している。出してないけど。でも形が丸分かりであり、そこにうっすらと浮き出る下着の筋でも見えようものなら。

 この傑出に出会ってしまったが最後、スカートなどという無粋には一切の興味を失った。

 あるべきは尻。見るべきは尻。布に覆われたが故に解放を感じさせる尻。意思の強い尻こそがこの世で最も神秘なのだ。


 そしてケツのデカさが映える命のあり方は高身長。高い背丈を支える脚、その付け根から尻にかけての程よい筋肉がいっそうの旨味を掻き立てる。


 もちろん柔らかな尻も良い。座った時にむにっと歪む、潰れる、そういうケツも乙なものだ。


 死ぬならケツに潰されて死にたい。

 それが結論だ。


 ───そう思っていたのだが


 認識が変わることもある。


 少なくとも、スカートという服装への反感は今のボクにはない。

 人類の至宝たる天涯、あの天鵞絨を、今のボクは受け入れようと思う。

 超高校生たるド同級生の一生一度だろう不覚に誓って───


 なんて考えてたら本屋に着いた。

 入店。

 さっさと買って帰ろう。

 真っ先に目についたのは新刊コーナーで、ジャンルごった煮のいろんな本が置いてあった。中でも最も一目を引く位置に置かれているのは、漫画でも、ましてや小説でもなかった。


『月刊ダンジョン』


 迷宮に興味のある人間でこの雑誌を買わない人間はいない(例外1)な、日本で今最も売れている書籍である。


 尤も、ボクは興味などない。

 幼なじみの大魔王(貧ケツ)に買っていってやるかと思ったが、アレは「ぬん。こんなの読む時間使って潜ればいいじゃんって愛様は思うもんに」とほざきよるに決まっている。なのでスルー。


 小説コーナーへ到着。文庫を五冊。四六判を二冊。ハードカバーを二冊。買ったのは『ポー詩集』『空亡の蝕』『名探偵が殺せない』『ホラー作家の家に行こう』『人間食べまくり菩薩』『新本格VTuber賀古ミライのバーチャル推理25』『秒針病棟』『君のための大怪獣』『シャーロック・バース ザ・ダイナミクス・オブ・マルチバース』。後はエロ本を三冊。そ知らぬ顔で会計を済ませる。


 蛍の光に背中を押されて外へ出た。

 満足。大満足である。


 さっさと帰って読もう。もちろん、一番読みたいのは『シャーロック・バース』ですが。マルチバースカヴィル家の犬の謀略によって多元世界から集められたシャーロック・ホームズが事件に挑む傑作パスティーシュですが。決して『デカケツ高校腰ガク部決起集会決定傑作選』ではありませんが。


 ……まあ、流石に、ここまで尻を主張し過ぎるのは不自然かもしれない。

 いい加減に、そろそろ述べるべきだろう。

 ボクは忘れられないのだ。

 今日の放課後に見た、あのパンツがずっと網膜に焼き付いている。どこぞの悪魔憑きの『画面潰しブラクラ』でも食らったみたいだ。そしてボクは恒温の最高速、不滅を誇る灼熱の揺り籠ではまったくないので、今を以てその映像に悩まされている。

 それを上書きするために、こうして買いに来た、という理由もあるのだ。


 いったいどうして、焼き付くようなパンツを見たのか。



 以下、回想。



 友達を作ると、忘れる記憶がひとつ増える。

 そんなことを思っていた、いつのことかといえば、明日から夏休みだというのに何の予定もなかった、終業式の日の夕方───つまりついさっきである───そのときボクは、約束された退屈の始まりを予感しながら、高校からの帰り道をぽつぽつ歩いていた。


 夏休みというものは年に数度かあるまとまった休日の中でも最大規模のもので、学生にとっては、恐らく全ての学生にとっては、嬉しいものであるはずだ。ボクだってこの長期休みを嬉しく思わない訳じゃないのだけれど、しかし同時に、長期休暇というものは暇を持て余す時間であることもまた歴然としてそこにある。


 特に夏休みは、部活も入ってないし、宿題だって気合いいれてやればすぐに終わってしまうわけで。

 それに、何となく家に居づらい。

 親と思えない両親と、妹の遺影に囲まれた家で、夏を謳歌できるはずもなし。


 そんなわけで探索者よろしく、町をうろうろしているのだった。


 町。ボクの住む町。

 音羅城おとらじょう町。

 三度迷宮が生まれた地。


 時間を潰すのであれば学校の中で潰せばよかろうが、しかし家に居づらいのと同程度の蓋然性で、校内も居づらい場所である──人口密度が高い。

 人を覚えるのは苦手だし、意識するのも巧くない。

 その点町は、人こそそれなりにいても、わざわざ覚えなくていいから気楽だった。


 そんなわけで、というほどのわけでもないのだが、劇的な理由もなく、特別叙述の必要があったかも疑わしいこの動機で大変申し訳ないと思うのだけれど、まあとにかくこれがボクの語りだ、多めに見てほしい、否、読んで欲しい、なんて世界を読み物か何かみたいに捉えるのは卒業しているこの年齢でマジに言うわけもないこれはいわゆる戯言だけどね、嘘だけど、まぁ、いいじゃん?


 どうせこれだけ話しても、時間は対して潰れないんだし。


 なんて、字数稼ぎかよって思考を巡らせていた丁度その時、ボクは前方に見覚えのある背中を見る。


 夏休み。三年生であるボクの同級生、そして全校の有名人───彼女の名を、織機有亜おりはたありあという。何故後ろ姿であってもわかるのかと言えば、その腰に真一文字を描くよう地面と平行に差した武装の特徴による。我が校でも少ない、探索者免許ライセンス持ち、武装特権の保持者なのだ。彼女は両手を後頭部に持ち上げ、どうやら髪型を整えているらしい。ポニーテールに結ぼうとしている。

 腰に差す剣がゆらゆらと揺れた。

 制服姿。

 ベルトを巻いている以外、一切の改造を施していない、膝下十センチのスカート。

 夏服のため、上はシャツだ。

 スカートの下には校則指定の白い靴下にスクールシューズ。

 肩にはスポーツバッグを下げている。

 健康的な優等生、といった趣だ。

 そして実際、彼女は優等生───ただの優等生じゃない。ド級の優等生である。

 曰く、いつかの定期試験にて八教科中七教科で満点を叩きだし、残り一教科も九十八点であった(ちなみにこの教科、平均点は五十二点)。

 曰く、授業中に黒板の数倍の情報量のノートを作成しており、数学だけで既に七十二冊目である。


 学業成績だけが彼女の偉業じゃない。


 昨年発生した校舎迷宮化事件を単独で攻略し、その功績から特例として未試験で探索者免許を得たことは、我が校の歴史に残る伝説だろう。


 一年生の時はクラスが違ったようだし、二年生でも違うクラスなので、今年でようやく同じクラスとなった。だが今まで話したことはない。向こうもボクのことなど知りもしないだろう。


 いや、学校内全員の名字を覚えているという噂もある。


 対極。

 天上の人。

 ボクの対極にある存在だ。


 ふむ。

 と、ボクは一瞬、彼女に気を取られてしまう。

 普通の高校生じゃない、超高校生織機有亜を偶然見かけたということに、ちょっとした驚きを覚えている。


 まあ。

 そんなこともあるだろう。


 偶然である。偶々だ。


 それにこの方向、彼女の目的地は旧商店街に形成された迷宮だろう。

 偶々方向が合うことなんて、ありふれている。

 なんら不思議な話ではない。


 彼女は気付かない。当然だ。ボクは後ろにいるんだから。幾ら完璧超人だろうとも背後に目のついてる奴はいないし、そもそも背中に目がついてたらその時点で完璧じゃない。パラドックスだ。しょうもないパラドックス。


 まあ、気付いてたとしても、何も起こるまい。

 彼女のような人間はボクのこと嫌いだろうし。

 真面目な彼女。

 不真面目なボク。

 水と油、なんてもんじゃない。

 水と泥だ。

 このまま追い越さないペースで歩いて、程よい曲がり角で曲がるとしよう───


 そのときだ。


 彼女がこけた。


「あ」


 と。


 思わず声を漏らしてしまった。


 織機の校則順守な、膝下十センチのスカートが、体勢の崩れに伴って不自然に上がった右足によって捲りあげられたのだ。

 手で抑えようにも、彼女の両手は地面に向けて着地のために起動していて、さてもうどうしようもなく。

 どこか滑稽ですらある。

 当然、スカートの中身も見えてしまった。

 日の光差し込まぬ影の領域に、一際黒い部分がある。

 白い二本の、骨と肉を包む肌のラインのその付け根の僅か上。背後方向へ膨らむ丘を包み込むそれは夜のような闇。新月の夜の天涯だ。その刹那、白い二つの丘に佇み、無明の夜空を眺める旅人の姿を幻視した。

 黒洞々たる下着である。

 際どい形ではない、布面積それ自体は織機の丘を覆いきるのだから大きいほうである。幅も広く、生地も暑さを感じさせた。決して透けて見えてしまうような扇情はない。そういう点では色気はない。

 けれどその漆黒の様、光を集めて逃さぬ虚無に、ボクの目は吸い込まれてしまった。

 そして決して地味ではないと理解する。

 見えた───刺繍、恐らくは花をあしらっているのだろう、複雑な紋様が漆黒にコントラストを添えている。たぶん、左右対象。美しい。

 更に。崩れた彼女の体勢と舞い上がるスカートによって見える───白。スカートにインされていたシャツの裾まで、はっきりと観測に成功する。この時、彼女の少なからず肉のついた脚二本と、シャツの裾の白さが、黒の稜線をより鮮烈にしているように思えてならなかった。光あれ───。光が強いほど、影もまた強く、濃く、ああ闇よ、闇よ。


 この瞬間を、ボクは忘れない。


 スカートなんていらない。パンツこそ志向。そんな過去の己を恥じた。もっと恥じるべきものがあると思うけど、無視した。無視できないものが目の前にあるから。


 何より、転びかけた己の脚によって捲りあげたという状況にも味わいがあった。

 完璧超人が恐らくこの学生生活において後にも先にもないたった一度犯した過ちという希少性に加えて、転ぶという動作の持つある種の滑稽さ、無様さ。下半身より頭部が下に来るその姿勢は考える葦として知性を重んじる人類の生物的特性を捨てる、尊き先人たちへの冒涜に他ならないとすら思えて。


 スカート内の神聖とスカート外の失態が陰陽を象り太極図すら具現するように見えた。


 ボクはその光景を一時間は味わい尽くしたように思われた。いや、実際は一分にも満たなかっただろう。


 それでもボクはその刹那を永遠と捉えて貪るように味わい尽くした。

 見開いた目から渇きが失せるほど集中した。

 目が奪われた。

 そらすことが失礼に思えるほどの、その尻の圧倒に。

 網膜に焼き付いたようだった。

 クルタ族の緋の眼が赤色に染まるなら、ボクの目は純黒に染まっているだろう、あのパンツが焼き付いてしまっているのだから、って、目は元から黒いか。

 まあ、それほどに衝撃だったのだ。

 織機有亜の下着というのは。


 ───いや。

 流石に字数を使いすぎだ。


 十万文字の賞に出すとして、既に五千字近く使っているぞ。

 二十分の一が尻とパンツの話で埋まっている。五パーセントだ。

 この小説の五パーセントは尻とパンツの話をしています。


 おかしい。

 この小説のジャンルは現代ダンジョンのはずだ。

 なのに迷宮の存在を匂わせる程度で、まだ全然辿り着けないぞ。


 って、ボクは何を考えているのか。

 眼前の光景に見惚れる時間は終わって、ようやく思考が回りはじめて、それで今度は迷路に陥っているらしい。


 迷路、迷宮。

 そうだ、迷宮なのだ。


 彼女は、迷宮に向かっていて───あ。

 目があった。


 織機は姿勢を既に戻しており───振り向いて、真後ろにいたボクを見ていた。

 凝視していた。

 直視していた。

 直死?


「……えーと」


 やば。

 対応に困る。

 どうすりゃええんやこれ。


「でっけー烏だなあ」


 天を仰ぎ、見てない振りをしてみた。


「さっきからずーっと見てられるなあ」


 どうだ?


 しかし織機はボクのその三文芝居には反応せずに、両手をパンパン叩いたあとでスカートを今更のようにはたいた。

 そして天を仰ぐようにして


「本当におっきい烏」


 それから改めてボクを見て。


「あはは」


 と。

 はにかんだ。

 笑うんだ。

 この状況で。

 器がデカイ。


「スカートってさ。やっぱ防御力がないよね。それともあれかな。攻撃的防御って感じなのかな。こう、見惚れた相手をスパッと首無し死体に」

「さ、さぁ……」

「ちなみに私は剣を持っています」


 これってつまり、死の宣告?


「幸い周りに人はいないし、首無し死体はひとつで済みそう」

「し……死ぬのか!? ボクは死ぬのか!!」

「そうだ。一撃で、斬首して、もう決まりだ」

「し……死ぬ。……い、や……やだ。死にたくない。死にたくない! ふざけるな! 止めろ! 死にたくない!」

「みっともないぞカイ。いや、お前らしくもない」

「はー……はー……。……あれ? なんでボクの名前を……」


 死のノート終盤の茶番で流そうとしたら、もっとデカイ爆弾をさりげなく投げ込まれた気分になった。


「そりゃ知ってるよ。同じ町民じゃない」

「町民!?」


 同じクラスじゃないが来ると思ってたんだけど、予想の三段階ぐらいスケールが上だった。


「それに関口界君には、個人的にちょっと興味もあったしね」

「興味───」


 超高校生に興味を持たれるような何かがボクにあるわけないだろうに。

 織機有亜。

 超高校生。

 彼女の考えることはわからない。


「そう。興味」

「ふうん。ボクは織機に興味なんかないけどね」

「わ。名前覚えてたんだ」

「覚えるに決まってるだろ君みたいな有名人」

「あはは。恥ずかしいな……。でも、ちょっと嬉しいかも」


 そう言って。

 織機は続けた。


「君は誰のことも覚えたがらないように見えたからさ」

「───」


 ああ、クソ。

 これだから超優等生は困る。

 簡単に真理をついて来やがって。


「覚えたくて覚えたわけじゃない」

「じゃあどうして覚えたの?」

「自然と聞こえてくるからだよ」

「友達もいないのに」

「それでも噂話は聞こえてくるもんだろ。……あれ? 今のさりげに失礼じゃねーか?」

「パンツ見た君よりは失礼じゃないと思うけどね」

「見てないです。烏を見てました」

「『蔵』って十回言ってみてよ」

「蔵蔵蔵蔵蔵蔵蔵蔵蔵蔵」

「私のパンツの色は?」

「黒!」

「見たね」

「見てません」

「私の太ももの裏に二つあるのは?」

「ほくろ!」

「見たね」

「見てません」

「いい加減白状しなよ~。今なら一撃で楽にしてあげるからさ~」

「行き着く先は黒縄地獄ってな」

「「わはははは」」

「見たね」

「見てません」

「このままだと永遠にダンジョンまで辿り着かないよ」

「ここが会話の迷宮だよ」

「あんまりうまくないね」

「「わはははは」」


 やべえ。

 楽しい。

 何年ぶりだろう、こんなに笑ったのは。

 織機と話すの、楽し過ぎる。

 見てよかった! 織機のパンツ!

 だがこのままでは私は負ける。

 負けるべきなのかもしれない。

 ならば、方向性を変える。


「しかし織機はなんでまたこんなところ歩いてたんだよ」

「そりゃ、迷宮に向かってたの」

「探索か。流石は校内唯一の探索者」

「まあね。探索自体を楽しんでるわけじゃないけど、せっかく免許もらったからには活用したいし」

「そうなのか。楽しんでるわけではないのか」

「楽しむ余裕がないんだよね。最近はパーティーからも追い出されちゃったしさ」

「……へえ」


 そういうこともあるだろう。

 完璧超人だろうとも、人間関係まではカバーしきれないか。スカートの中身をカバーするより難しそうだしな。


「ならこんなところで油売ってる場合じゃないな。さっさと行きな」

「そうだね。追及はまたの機会に折を見て。っと、そーだ。スマホ出して」

「何にも撮ってないよ」

「何を撮ったとも言ってないけど」


 スマホを開いて渡す。

 身の潔白はこれで判明しよう。

 そう思っていたが、どうやら違う目的だったようで。


「はい」


 帰って来たスマホのメッセージアプリに、新しい友達が追加されていた。


「これで友達。もっと私のこと覚えてね」

「お、おう」

「あ、ブロックしちゃダメだぞ」

「しないしない。そんなこと」

「じゃあブロックダメって十回言ってみてよ」

「ブロックダメブロックダメブロックダメブロックダメブロックダメブロックダメブロックダメブロックダメブロックダメ」

「私のパンツは」

「ブラックだね」

「見たね」

「見てません」

「山と言えば」

「川!」

「パンツといえば」

「黒!!」

「見たね」

「見てません。何度やるのさこの下り」

「下らないことって楽しいじゃん?」

「上手……くない!」


 下ってるんだよ! この『下り』なんだから。


「下品ってこと?」

「こっちはちょっと上手い! でもダメだぞ織機。そんなに卑下するな。お前のパンツは誰よりも上品だった」

「見たね」

「見てません」

「中々楽しいね、関口君と話すの。こんなに楽しいなら、一学期のうちに話しとけば良かったなあ」


 あははーと、彼女は笑った。

 いいやつが過ぎる。

 こんなにいいやつだったのか。

 そんな、そんないいやつの、ボクは、パンツを。

 自己嫌悪で押し潰されそうだ。ボクは今ほど、自分が恥ずかしいと思ったことはない。

 ぐぅ─────────!!

 ───言おう。

 言うんだ。パンツを見てしまったことを、正直に告白するんだ。黒かったけど。そして謝ろう。謝罪しよう。罰は甘んじて受ける。どんな罰でも受け入れよう。それだけのことをボクはしたんだ。


「織機、ボクは……」

「あ、そろそろいかなくちゃ」


 腕時計を見て、織機は言う。


「楽しかったよ。夏休み、予定が合えば会おう!」


 そして、ボクが何か言う前に駆け足で走っていった───なんて、そんなの、待てよ!


「待ってくれ機織!!」

「えっ」


 走り出そうとした彼女の手首を掴む───あり? なんでボクは空を見て、うわあッ!?


 背中に走る激痛。投げられた───そう気付いた時には、彼女の顔が上にあって、ボクは地面に倒れていた。


 流石は超高校生。武器を使わずとも実力は屈指か。


「急に掴まないでよ~。手加減間に合わないかと思ったじゃん」

「はは、悪い……。そうだ。悪いんだ、ボクは」


 この体勢じゃ、頭を下げられないけど。



「ごめん、機織。君のパンツを、ボクは見た」


「ふうん。どうだった?」


「ボクは今、死んでもいい」


「オッケー、許す」



 そして今度こそ、立ち去る。


 と。


 何とか起き上がったボクの視線の先で機織は振り返って、


「じゃあね!」


 手を振った。


 手を振って反射的に、それに答えてしまう。

 彼女は満足して、歩き去った。

 もう転ぶことはなかった。


 ああ、クソ。

 なんて……ことだ。

 忘れたくないものが、増えてしまった。


 織機有亜。

 ボクは君を忘れない。


 君の優しさと、パンツの───赤を。





 赤?





 赤───なぜ。


 おかしい。なぜ今、ここで赤が出てくる。


 ボクは、今、どこにいる。


 時刻は夜中の十時過ぎ。

 本を買って帰る途中。

 回想に夢中で、そして、


 近道のため入った路地裏からさらに路地裏へと奥まったそこは、既に───


 異世界めいていた。


 色褪せた左右の壁は、講談社BOXの表紙みたく染められている。

 狭い狭い路がいやにぬかるんでいて堪らない。

 濃厚な匂いが鼻腔を刺激する。


 ───ここは既に、血の海だった。


 鮮血に染まる壁。

 冷気を帯びた真っ赤な血溜まり。

 鉄錆を思わせる臭気。


 その中心に、人間らしき存在がいて。


 そいつはまだ、生きていた。


「そこのお前……」


 この田舎町で生きていて始めてみる銀髪。

 どこか幼く、けれど整った顔立ち。その中に鈍く輝く、鮮血をも青く感じさせるアカイロの双眸。

 総じて人間離れした外観。


みやを、助けろ」


 それは、身に纏う、引き千切れ、破れきった、かつては典雅な装束だったろうドレスの亡骸からも伺える。今では血にまみれ、ところどころ吐瀉物めいたものまで見える。鉄錆の匂いに酸っぱさの混じるのはそのためか。


「聞こえているだろう。お前だ、お前。……助けろ。宮を、助けろと言っている」


 彼女は───そう、女だった、髪の長さも、美貌の形状も、声の高さも、五感で感じとる全てが女性であると判断できる、そんな彼女は───ボクを、真紅の眼で睨み付ける。


 ボクはそれを見て威圧され───けれど落ち着いて観察すれば、彼女には怯えるべき要素はないのだった。


 何故なら彼女は、倒れていた。


 地に這いつくばっていた。

 血に這いつくばっていた。


 疲労困憊で、満身創痍。

 そして何より、立って見下すことなんて、物理的に不可能だった。


 立ち上がるための脚がない。

 膨らんだ尻が存在しない。

 くびれている腰が消失している。


 断面───切断面がそこにある。

 チロチロと流血する理由がそれだ。

 一部飛び出たピンクと白は、それぞれ臓物と背骨だろう。

 鋭利な傷では全くない。


 千切られ、啄まれ、破裂したような。

 そんな傷が、腹のところに存在し。

 そこから下は、全て全く存在しない。


 彼女は、下半身をまるごとなくしていたのだった。


 瀕死。

 死に瀕している。


「お───おい、き、救急車を」


 心臓が飛び出るかと思った。

 早鐘、なんてもんじゃない。

 黒い何かを見たとき以上の。

 スマホ。

 そうだ、スマホだ。今思い出した。スマホで、助けを呼ばないと───。


「馬鹿。救急車でどうにかなるわけがない。だいたい、それが必要な人間であれば、宮はとっくに死んでいる」

「じゃあ、どうしろって」

「全てを、くれ」



「宮は迷宮の番人。欲するのは素材よ。血、肉、骨、魂、人間ひとつ分の素材さえあれば、ひとまず急場は凌げる」


 ───迷宮の番人。


「第六迷宮『ダリヤ』の番人、それが宮だ。……生憎、攻略され死にかけておるがな……」

「『ダリヤ』……難攻不落の大迷宮様じゃねえかよ。それ……」


 学校の迷宮化や、この町にあるもうひとつの迷宮とは訳が違う。

 王権レガリアの眠るとされる究極の魔窟───『大迷宮』。

 特に『ダリヤ』が有する王権レガリアは、全人類が欲する至高の財───『不死』であると噂される。

 その代わりに異次元の難易度を誇り、またの名を『暗黒宮』───挑戦者の尽くが死に絶えたために、内部がろくに明かされていないことからついた忌名にして、前人未到を夢見た探索者たちの敬意の証。


 その『番人』が。

 王権の守護者が。

 暗黒宮の化身が。


 見る影もない。


 それほどに、弱っている。


「ぎっ……」

「どうした!?」

「……本来、宮は迷宮そのもの。外になど出れんが、王権の力を例外的に用いている……が、それも長くは持たん」


 苦しそうに───いや、本当に苦しいのだろう、息を長く吐き出しながら、彼女は続ける。


「さあ、よこせ。お前の体を……。人間を素材にすれば、そこそこの迷宮ができる……からな。土木鐵鋼とは訳が違う。魂の可能性の力を用いれば───肉体の儀式的記号と合わせ……再び迷宮を再構築できる……」

「体をよこすって、……どれぐらい、必要なんだ」

「全てだ」

「全て……それって、ボクは死ぬじゃないか!?」

「ああ。そうだ」


 彼女は平然と頷いた。

 そうして、ボクは気付く。

 こいつの、目。真紅の双眸。それは、絶対的な零度を湛えている。

 それは……人が、何かものを作るときに向ける目。料理人が野菜を検分し、大工が材木を選ぶ時のような───素材を見る目。

 それを、大マジで。

 本心から、している。

 こいつの体と魂をどう使って───。

 どのような迷宮を再構築しようか───? と。


 求めているのは助けじゃない。

 素材を使って。

 自力で、生き延びようとしている。


 ───ボクは。

 何を考えている?

 こいつは、人外だ。

 まず間違いなく人じゃない。

 人は下半身を失ってこんなに長々と話してられない。


 化物なんだ。

 大迷宮。

 第六迷宮『ダリヤ』の番人。

 数多の探索者を飲み込んだ暗黒宮の化身。

 そんな奴が、死ぬ。

 それを、どうして一瞬でも、助けようと思えたんだ。


 だいたい、死にかけてるってことはだ。


『ダリヤ』は攻略されかけてるんだろ?


 歴史的偉業だ。

 人類的快挙だ。


 何千何万という命を貪ってきた迷宮の、記念すべき攻略の瞬間が今目の前にある。


 助けてどうする。

 巻き込まれてどうする。


 虎子が目の前にあるのに、わざわざ虎穴を作り直す必要なんてない。


 こいつは。


 死ぬべきだ。


「……どうした」


 何も言わず。

 疑問を抱く女を前にして。

 ボクは、片足を引いた。

 それさえできたら、後は一気に。

 三歩、下がれた。


「は」


 逃げるさ。

 ボクは、逃げる。


「ま……ジで?」


 そのとき。

 彼女の、血液よりも赤い双眸が。

 弱く───揺らいだ。


「まっ、ちょっと───」


 そして───


「待ってくれお前!」


 伸ばした手は、空を切る。

 そりゃそうだ。だって彼女は、脚がない。腰がない。尻がない。歩けない。

 ボクと、違って。


 織機に追い付けたボクと、違って。


「待って……待ってよう……置いてかないで……」


 いいやボクは置いていく。

 お前をここに置いていく。


 それが一番正しいんだ。

 攻略されかけの迷宮なんて置いていくべきものなんだ。


 だから。


 だから。


 考えれば考えるほど、こいつを見捨てる理由ばかりが浮かぶ。

 浮かぶ。浮かぶ。浮かぶんだよ!

 今、浮かんでるんだ!!

 ああそうとも、ボクはこいつを見捨てるさ!

 泣こうが喚こうが叫ぼうが見捨ててやる。

 死にたくないからな!

 全身よこせだ? 魂もくれだと?

 ふざけるんじゃぁない!

 消えるのは嫌だ。いやに決まってる!

 こんなところで死ねるかよ。

 ボクは、ボクは、ボクはさぁ……!!

 まだ、まだ、死にたくないんだって……!!

 だってまだ十七歳だぞ!?

 高校三年生だ!

 青春まっただ中なんだよ! 友達全然いないけどな!

 未来だって沢山あるはずだ! 歩んできた過去は……思い出せないけど。

 それでも、生きていたのは確かなはずなんだよ。

 大魔王と一緒にな!

 それで今日は、ようやく、友達もできたんだ!

 なのに。なのにだぞ!

 こんな夜が、こんなしょうもない夜が、人生最後の日であってたまるか。最後の事件はこんなもんじゃない! ボクにとってのライヘンバッハや新宿決戦がこんなぽっと出の夜であってたまるか!!

 ああ、ボクは生きる。

 生きてやるんだよ。

 生きて、生きて、生きて、それで───。


 何を、やるってんだ?


 うるさい!!


 まずはエロ本を読むんだよ!

 買っただけで読んでない本も山ほどある!

 妹の墓参りだっていかなくちゃ。

 親とも仲直りして。

 そして、織機と───。

 織機と、なんのメッセージも、やりとりしてない。

 してない、のにさあ……



「死にたくない……」



 ───それを溢したのが、どっちの口なのか。

 多分ボクもそいつもわからなかっただろう。


 けれど。



「わかった」


 のは、ボクだった。


「いいぜ、やるよ。持ってけ、ボクの全部」

「え───」

「さっさとしてくれ。長くないんだろ、もう」

「なんで」

「なんでかって? ……決まってるだろ」


 人生の結末はきっと、

 こんなもんだろ。

 唐突なんだよ。

 ボクがここで選択を突きつけられるのが急だったのと同じぐらい唐突に、こいつも死を突きつけられている。

 なら。

 どっちが生き残っても変わらない。

 んじゃねーかなあと思うわけで。

 だいたいボクは。

 元から死んだように生きていたんだ。

 死を恐れて、消滅を恐れて、眠る度に明日目覚めたらまた全部失くなってるんじゃないかと思ってここ二年生きてきたんだ。

 お陰で最悪の高校生活だったよ。

 失うことが怖くて、だから何も手に入れたくなかったんだ。


 それがどうだ。

 あんなに死ぬのが怖い。

 今のボクは、失うものができてしまって。

 多分今までの人生で一番怖い。

 それってすごく幸せだ。


 幸せなんだよ。死んでいいくらいに。


「だからこの幸せを分けてやる。その代わり約束しろ。必ず、使いきれ。いっぺん足りとて残すな。捨てるな。無駄にするな。全部使って、最強の迷宮を作れ」

「あ……」


 彼女は。

 第六迷宮『ダリヤ』。暗黒宮の化身は。


「ありがとう……」

「喜ぶか泣くかはっきりしろよ」


 でもそこには、感謝があって。

 はにかんだ笑顔は。

 今はもういない、妹に似ていた。


 ───それが最後。






 そのはずだった。







 唐突に意識が回復した。

 寝ていたことにすら気付いていなかったような、そんな気分だ。

 慌てて体を起こす。

 けれど、その直後。

 何が起きたのか思い出すより先に。


「な、何が───!?」


 圧倒された。


 奇妙な空間だった。

 硝子器の煌めきが網膜に差し込んだ。

 身を起こしたのは綴織りの掛け布からだ。

 頭上には星が浮かんでいる。

 闇夜を思わせる天涯の下に、星が瞬く、それは小さな翠のランプなのだった。

 窓はひとつもない。

 どの壁もアーチ型の天涯が始まるその際まで書棚に埋め尽くされていた。

 装丁された書物、単なる紙の束、巻物、石板、古今あらゆる書物の形態が書棚から溢れだしそうに詰め込まれている。

 数本の柱は天涯を衝く摩天楼だ。

 その柱を螺旋状の階段が巡っている。

 空中には浮遊する本棚が浮かび、或いは銅像、彫像、木像が気儘に游いでいる。

 それらは古代の英雄であり、羽衣を纏う天女であり、無垢さを湛えた天使であり、恐るべき鬼神であった。

 床には草原が広がっている。葦が絨毯のようだ。

 その下では小さな生き物たちが蠢く。

 彼らは角を持ち、手を持ち、眼を持っていて、そしてこの世のどんな生物とも全く似ていなかった。


「ようこそ目覚めたの」


 そんな景色に圧倒されていたボクの元に声が聞こえて。

 向けば、葦の床に足をつけて。

 白銀の髪に真紅の双眸。

 少女はドレスを纏って立っている。


「なんで……ボクは、生きて……」

「お前は迷宮となった。となれば、迷宮はお前だ。迷宮があるなら、お前も生きていられる」

「なんだよ、それは」


 死ぬんじゃなかったのかよ。

 あんだけ語って、恥ずかしいじゃないか。


「いいや……お前は死ぬよりも辛いことになったやもしれんな」


 そのように思わせ振りなことを彼女は言った。


 いや、いい加減、『彼女』ってのも面倒だ。


「なあ、宮子みやこ

「……それは宮の名か?」

「ああ。ダリヤと呼ぶか迷ったけどな。でも、第六迷宮『ダリヤ』は今はもうボクなんだろ。なら、ずっと宮宮言ってるから、宮子だ」

「ふん。悪くない」


 宮子はそう言った。


「それで、宮子。俺はこれからどうすればいいんだ」

「何、簡単だ。来た者を迎え撃てばいい。この───王権(レガリア)を、守るためにな」

「なるほど」

「手始めに、宮を追い詰めた『三銃士』。あれを迎撃せねばならん」

「王権(レガリア)を奪われたら?」

「迷宮としての意味を失い、崩れる。お前の命も終わりだ」

「わかった。じゃあ、死ぬ気で守ろう。……で、一番聞きたいことを聞かせてくれ。


 ボクは、人間には戻れるのか?」



 果たして。

 宮子は。


「戻れるとも」


 と、返した。


「意外だな……」


 戻れるんだ。

 てっきり一生迷宮のままかと。


「迷宮は自律して広がるものだ。時間さえあればな。だから、1ヶ月。それさえくれれば、元の全盛期の『ダリヤ』の規模に戻る。そうなればわざわざお前を迷宮に縛っておく道理はない。解放しよう」

「わかった。……じゃあ俺の役目は、1ヶ月間ここを守りとおすこと、だな」

「難しいぞ。やれるか?」

「やらなきゃ死ぬんだろ。しかも今度は共倒れで。なら……やるさ」


 少女のためなら命を捨てられるが。

 探索者のために捨ててやるつもりもない。

 拾ったものなら尚更だ。


「迎え撃つ準備をしよう」


 ボクは葦原へと踏み出す。



 こうしてボクの異形の夏休みは始まった。


 この夏休みがどこへ向かうのか、まだ誰にもわからない。

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少女に泣きつかれて現代ダンジョンの番人をすることになった話の冒頭部分 みやこ @miyage

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