9章  Black rabbit-後編

* * *


 これはきっと、誰が悪いかの話ではない。ただの、運の悪さだろう。

 

 八上姫と別れた後、己貴が朝紀を探している時のこと。

己貴が屋敷の敷地内――庭を見て歩いていると、何かに躓きそうになった。

「! っと、すまない。よそ見をしてい、た……」

 そこには背の低い女の子が、仰向けで地面に倒れていた。

「〝よこうれんしゅう〟でもしていたような早さのしゃざいだね。おじいちゃん」

「よこう? おじ……?」

 その幼女は、地面に倒れながらも大きな態度で彼を嘲笑っていた。

 『おじいちゃん』と呼ばれた己貴は、見上げてなじってくる存在に頬を引き攣らせる。

広がった薄茶色の髪は膝裏まであり、うなじあたりから別れ、翼を連想させるような形をしていた。

首元には二つの長い布を巻いており、肩の上に結び目を乗せている。

「えっと。大丈夫?」

「きみのせいで、たおれたんじゃない。ぼくは空が見たくて横になっていただけだからね! 〝なんじゃく〟と思わないでくれたまえ。わかったかい? わかったなら、手をかすんだ」

 強がりつつも、助けを求める幼子。己貴は彼女を起こすと、ついた土埃を軽く払ってやる。

「地面で寝転ぶと危ないし汚れるから、気をつけようね」

「うぐ、ふぬぬぅ…………ごていねいに、どうも」

 澄んだ表情で諭される。どうやら、少女の皮肉はまったく通じないらしい。

 彼女は頬をふくらませると、己貴の周りをぐるぐる走りはじめる。先ほどの恥を、奇行で上塗りしようと考えたのだろう。少女の動きに合わせて長い布がひらひらと靡く。彼はその姿を目で追う。

(遊びたいのかな?)

 『俊足の術』『土遁!』などと言いながら、ちらちらと己貴に目をやる幼子。

 目があうたびに彼は微笑んで返すと、不意に右足のふくらはぎを蹴られてしまった。

がくんと態勢が崩れるが、左足を前に出して何とか転倒は免れた。まるで、膝の屈伸運動のようだ。

「きたえていないから、そんなに弱いんだね??」

「いやあ……暴力はないんじゃないかな??」

 幼女の突然の暴言と暴力に屈せず、己貴は態勢をたて直してから、彼女と向かい合う。

向かい合うことに驚いた幼女は、罰が悪そうに目を反らす。

「あと、ぼくは己貴と言って――おじいちゃんではないよ」

「あなたがいると――わが主がつらい目に合うのに……」

 ぶすっと口を尖らせる幼女に、己貴は膝を屈めると目線を合わせてから、問いかける。

「どういう事かな?」

「……〝神話〟だって――」

「よげん……?」

 己貴は幼女から『神達は役割が決められており、未来も決まっている』と聞いた。

半信半疑だったが、他の神達の行いにより、すでに修正ができない程に歴史が変わっているようだ。

「おじいちゃんはどうするの? あのうさぎちゃんと〝めおと〟になるの?」

 思いがけない質問に、瞬きする。

初対面であるこの幼女に、恋事情を話してもよいのだろうかと困惑する。だが、言葉の意味を知っていることから、思いきって希望を口にする。

「あの子が良ければ、そうしたいんだけど――どうして?」

「〝神話〟が変わっちゃうのに? じぶんかってに決まりを変えていいの?」

幼い子どもは、含みのある言い方をして大人を惑わす。

「なにを……言っているのかな?」

「八上ひめさまと〝めおと〟になって、〝神話〟どおりにしなくていいの? って言ってるんだよ」

「予言でぼくが八上姫と……? そんなことは……」

「そして、ゆくゆくは、あなたは国のおーさまになるんだって。おめでとう、すばらしいよね」

 その子どもは彼が言葉を詰まらせても、お構いなしに捲くし立てる。

「ああ、でも。ぼくにとってはうさぎちゃんと〝めおと〟になってくれたほうが都合いいよ。わが主がしななくていいんだもの」

 『もしそうではないのなら』と言いかけて、首に巻いた長い布を揺らしながらくるりと一回転すると、振り返り言い放った。

「あなたはだれかを〝ぎせい〟にして、のうのうと生きていくことになるんだよ」


       * * *


「あの間抜けより、我らが劣るということだろう!? なんと腹立たしい」

 求婚を断られたうえ、八上姫が求めた己貴が辞退するとは思わなかった八十神。

 立つ瀬のない彼らは、思い思いに不満をもらす。

「今後も似たようなことが起きるのでは」「不要な奴よ。殺してしまえ!」「そうだそうだ!」「あの黒い兎に罪を押しつければよい!」

【いのち響かせる、欲望の渦――。我の拠りどころ、いずこ】

 八十神たちは気付かない。這い寄る〝虚〟は、音もなくそれらの願いを呑み込んだ。


       * * *


 退屈しのぎに、朝紀は屋敷を歩いていた。

 とある一室の前を通り過ぎようとしたとき、耳を疑うような言葉が飛び出す。

「八上姫と愚弟が婚儀を交わすことになったそうだな!」

「!?」

 簾越しではあるが、廊下まで響く声に驚いて咄嗟に隠れる。朝紀は血の気が引いていくのを感じた。

「先ほど、仲睦まじく庭を歩いていたぞ」

「我々も悔しいとは思ったが、ともにいる姿は見事に映える。似合いの夫婦だ」

(嫌。嫌だ……やめて聞きたくない――!!)

「明日にでも婚礼の儀を挙げるだろう」

「いやあ、それにしても相応の二人だ。とても幸せそうに笑う」

「っ――!!」

その瞬間、朝紀は泣きながら元の部屋へと向かう。

 部屋のなかで〝虚〟がくぐもった音を響かせる。だが、そんなことは彼女が知る由もない。


 元の部屋に戻ると、朝紀は感情に任せて四方の簾をすべておろす。

 近くに人気がなかったのが唯一の救いだろう。止める者も誹る者もおらず、彼女はひとりで堪える。

込み上げてくる想いをなんとか鎮めようとしたが、それはどうしても止まらない。

涙が次から次へと頬を伝っていく。声を押し殺して泣くせいか、喉奥が焼けるように感じていた。

 しかし、悲痛な思いは口から漏れ出てしまう。

「階級の低い私なんかより、姫様のほうが絶対お似合いなんだ……。己貴様だって、文武両道で高貴な姫様の方が――好きなんだっ……」

  聞きたくもない、言いたくもない台詞を自分で口にし、心が内側から張り裂ける。

  苦しい。悲しい。哀しい。痛い。痛い。心が痛い。

  運命はどうして残酷なの? 私が悪い存在だから願いは叶わないの?

  幸せを望んではいけないの? 愛して、愛されるのはだめなの?


 彼女のそれは慟哭だった。それが引き金だったのかは、誰も判らない。

 別の誰かだったのかもしれない。ただその哭は、喚んでしまった。


 朝紀は張り上げた声に咽てしまい、その場に屈んで咳込む。

「ごほっ、けほっ…………。恋がこんなに辛いのなら、私のそばに居てくれないのなら――だれか終わりにして」

  ――弱くて情けない自分だけでは、諦めきれず無様にも追い求めてしまう。

  ――永遠に、その心に後悔を残してしまう。

  ――ひと筋の光すらも望んではいけないというのなら、生きる意味などない。

 次第に空気がびりびり震え、一瞬で緊張感が全身を駆け巡る。朝紀は感じたことのない悪寒に体温が奪われ、呼吸が乱れてしまっていた。

 近くで稲妻が走ったと思えば、突風が彼女を襲い、それは辺りのものを巻き込んで吹き飛ばしていく。

 向かい風のなか朝紀は状況を確認しようと廊下に出る。

 敵襲ならば、八上姫に報せるつもりなのだろう。

「いったい、なにが――!」

 だが、彼女が見たのは、水平線から巨大な太陽が現れ、血の如く真っ赤に染まる空だった。


  ――ひびが入り、天が裂ける――

 天の裂け目から見たこともない景色が広がり、朝紀は目を大きく見開いた。

それはもっと先の文明で明らかになるであろう、〝宇宙〟。

物理的な距離を無視して、それはそこに顕現する。

 そして、裂け目から無数の黒い手が伸び、あらゆる存在の命を無慈悲に奪っていく。

 草木は枯れ、川や湖は干上がり、盤石な鉱物は粉々になり塵になる。生物はその身の水分を失い、骨と皮になって絶命する。

 ところが、ある者たちは違った終わりを迎える。

 魂の強大さ、高潔さを象徴したとでもいうように、恐ろしく美しい結晶に姿を変えていくのだ。

 朝紀は部屋へと後退りしていると、白く美しい同族たちが立ち向かう姿が目に入った。

 術を組んで邪の進行を阻み、剣と槍で民を守り、矢を放ち迎え撃つ。

(あんなの、勝てるわけない! ただでさえ私皆より弱いのに、姫様も己貴様もきっと――)

 戦意を失い、身を丸めて隠れむ朝紀。彼女と何もかも違い、清く勇ましい白兎たちは攻防を繰り広げる。

 しかし、彼女らの甲斐もむなしく、未知なる存在の前では無駄に命を散らせるだけだった。

 やがて、そこはしんと静まりかえる。

 朝紀は物陰から身を出し、辺りを警戒しながら一歩前に踏み出した――が、 数多の死体と、大きい結晶が僅かに散らばった光景を目の当たりにして、固まってしまう。

 思考は停止し、胃からこみ上げてくるそれを地面に吐き出した。咳込みつつも、袖で口元を拭う。

 ふと、顔を上げると、目の前には人影が佇んでいた。

【運命に抗う底なしの欲望、――其方は星に何を望む?】

「わ、たし……は」


       * * *


 その影は人の形を成しているが、〝この時空〟に存在するものではない。

 異常に気付いた八上姫は白兎たちと迎撃にあたっていたが、黒い手のような帯に触れると侍女が一瞬で枯れ果てた。


鉄剣で襲いかかってくる影を軽やかに切りさばきつつ、朝紀との距離を埋める。

「朝紀!」

【 ̄ ̄ ̄==―――__=――】


 朝紀を呼び止めようとしたが、聞きなれない言葉に阻まれ、八上姫は動揺して動きを鈍らせる。

 眷属である少女を狙い、黒い影から無数の手が伸びる。

 直感で悟る。直でそれに触れれば〝死〟という概念を脳裏に焼き付けられる。

 朝紀を押しのけて彼女は身をひねって躱そうとするが、連続して襲いかかる影が帯状になって体を捕らえられてしまう。

「っ――!」

「ひっ、姫……さま」

 朝紀は恐怖で硬直してしまい、ただそれを見ていることしかできない。

 主が――彼女がいなくなれば想い人を自分の〝もの〟にできるが、朝紀の心の奥には罪悪感しかなかった。これでいいはずなのに、それでも、見捨てることができない。

 自身の足を叩いて震えを止め、主の元へ駆けつける。

「姫様、ご無事ですか!?」

「あ、さ……き? よか、た。ぶじ……だ、た、の……ね」

 朝紀の呼びかけに、八上姫はなんとか言葉を繋げて答える。黒い影が触れたところは、鉱物を突出させながら無機質へと変貌をはじめる。その姿を見て朝紀は自分の過ちにはっきりと気付く。

「ごめんなさい……悪い子で、 私っ、わたしっ、嫉妬してた。姫様も大事なのに、己貴様をとられちゃうって思って……ごめんなさいごめんなさいごめん――」

 朝紀は虫がいい話だと思いながら、涙を流して八上姫に謝り続けた。

「ち……が。あの、方は――」

【それが望み】

 八上姫は否定の言葉を言いかけるが、黒い影――虚によって遮られた。

【恋慕。想い人と永久に。それに防碍はない。なぜなら世界は終末を迎える〝さだめ〟にある】

「ち、ちがう! わた、し、そんなの望んでない……!!」

「朝紀、危ないっ!」

「え――?」

 刹那。

 飛び出してきた人物により、朝紀の目の前に影ができる。

 彼女にとってその光景はとても動きが遅く、まるで動きが止まって見えたようだった。

 少女の目の前に、見知った男がゆっくりと倒れていく。

 何が起きているのか理解できなかったが、それが地面に着いて、ようやく朝紀は事の事実を知る。

 すぐさま駆け寄り、彼の身体を起こそうとしたが、それは人形のようにだらんと腕を下げるだけだった。想いを寄せていた己貴が眠ったように倒れて動かない。

 息が止まっている。顔が青白くなり、身体の温度もどんどん逃げていく。

 彼女は何度も彼の名前を呼ぶ。しかし、声も聞く事も目を合わせることも、もう二度とないのだと思い知らされるだけだった。

 黒い影が触れたところから、冷えた肉を破いて白んだ結晶を突出させはじめる。赤い飛沫を降らす。

 目に映る光景は、認めたくない現実だった。

「っ―――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!」

 朝紀は、鮮血の雨を降らせ無機質へと変貌していく己貴を抱えたまま叫んだ。

「己貴様! 己貴さまっあああ……あああああああああ――!」

 劈くような悲鳴。無様だろう滑稽だろうと思いつつも、それでも赤子のように人の気など知らず目など知らずに泣き叫んだ。

(ああ、やってしまった。大好きだったのに、誠実でいようとしたのに。謝っても償って赦しを請うても、自分の心が赦さない。結局想いも伝えられず離れていく。ばかだな。私は大ばか者だ!)

「ひっく、うあ、ああ……っ、あああああああああ……ッ!!」


  彼を失うのがこんなに辛かったなら、最初から恋などしなければよかった

  彼と出会ってしまったのが、悪かったのだろうか

  こんな気持ちを抱く私のせいで、不幸を招いてしまったのだろうか

  ああ……そうか、これが罰なのか――

 淀みきった感情は抑えられず、徐々に朝紀の心を蝕んでいく。

【それこそ、宇宙を束ねるに相応しい〝かたち〟――】

 朝紀の泣き声に誘われて、幼い女の子が廊下から顔を出す。

 己貴と二人で庭で遊んでいたが、彼は血相を変えると屋敷に戻ってしまい、気になって後を追ってきたのだった。だが、彼の気配は感じられるのにその姿はなく、幼子は不安を隠せず呼びかける。

「お……じいちゃん?」

 静寂のなか、ガタッと物音が響くと同時に、結界がガラスのように音を立てて崩れていく。

 不穏な空気に緊張し、音を立ててしまったらしい。音に反応した帯状の影は、一斉に彼女に襲いかかる。

「ひっ!!」

 小さく悲鳴を上げると、落ちてくる破片からも帯からも、身を丸くし頭を手で守る。

 ひとたび触れれば、疾く命が終わる〝それ〟。幼子は、この災いを祓う者などどこにもいないと感じていたのだが、

「有は無に在り、無は有に在り。相剋せし境界に新たなる概括を穿つ――」


  ――御尊絶玖――


 それは嵐を巻き起こしたような一太刀一閃だった。

 小節を区切られたようにピタッと静寂さを取り戻すと、黒い虚は粒子となって崩れていった。

 この状況を一変させた人物――銀髪を一つに束ねた青年は、納刀しながら声をかける。

「間に合った、と云ってよい結果かな。天探女――いや河伯殿」

「ぎ、銀灰っ! あれ……」

 〝銀灰〟と呼ばれた男は、幼子が指差した場所を見ると、放心した朝紀の腕から、薄く七色に輝く玉が転がるのを目で捉える。

「それは……?」

「ここに来るまでに似たようなものを見かけたが、外敵による罠かもしれん。関わらんほうが身の為だ」 

 銀灰は視線を移して彼女の状態を確認するが、騒ぐこともせず抵抗する様子でもなく、ただその目は虚ろいでいた。


       

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