9章  Black rabbit-前編

はるか昔。金色の稲穂が大地を染める国――瑞穂の國。

   御伽噺ともよべる神話


       * * *


 海辺に黒い兎がいた。

「あの島には何があるのかな~……」

 海岸に一番近い稲穂の影から、青く広がる水平線を見つめる。その先には、孤島がぽつんとあった。

「ここはもう探索し尽くしたし、つまんないし! 行ってみよう!」

 金色の海から飛び出し、地面を蹴ってぴょんぴょんと前へ進んでいく。

 辺りには自生している植物しかなく、他の動物は見当たらなかった。何故なら、同族は〝それ〟を避けていたからだ。

 それは、いつも独りぼっちで遊んでいた。

 白い兎は幸運を運ぶと伝わっているが、なんの悪戯か――この兎の毛並みは真っ黒で、眼は赤く不吉だと煙たがられている。

 兎は好奇心に任せて海辺に来てみたはいいが、どうやって渡るか方法を考えておらず唸っていると、

鮫が一匹近づいてくる。

「おい、兎。そないに唸ってどないした? 拾い食いして腹でも当たったんか?」

「違うけど」

「なら、なんや?」

 『この鮫の仲間を利用し、橋の役割をしてもらおう』と閃いた兎は、鮫に告げる。

「私の仲間と、あなたの仲間。 どちらのほうが多いのかなって思っていたの」

「へえ。 広い海にいるウチらのほうが多いに決まっとるやろ」

「いやいや、私たちの繁殖力を舐めないでいただきたい」

「あんた、自分で言っておいて恥ずかしないのか」

「事実ですし」

 真顔で、真面目に応えると、海醒は飛沫を上げて爆笑する。

「数え方ですが、私があなたたちの背を渡りながら数える。という事でいいですか?」

「あんたおもろいなぁ、そのやり方でええで」

「ありがとうございます」

「ほな、仲間集めてくる」

 数十分すると、島と島を繋ぐように幾匹もの鮫が一本の列を成していた。

「いち、に、さん………」

 兎はぴょんぴょんと跳ねては、鮫の背を数えながら渡って行く。


 やがて目的地である孤島が見え、『あと少し』という時だった。兎は何の疑いもなく従う鮫に向かって、

「ばかな鮫ね! 島を渡るために利用されている事に気付かないなんてっ!」

 言い放った。仲間を呼び集めてきた鮫は激昂する。

「あんた、ウチら騙したんやな!?」

「やばっ―――!」

 兎の失言を聞いた海醒は、大きな口を開けて牙をむき出して襲っていく。兎は空中で避ける術がなく、鋭利な牙で捉えられてしまう。

「っ――――!」

「このまま肉を割いてもええけど、それよりもっと苦しませたるわ!」

 空中に放り投げると、彼女の仲間である他の鮫に牙で受け止められ、皮膚に牙が食い込む。

 また放り投げられると、ざらついた尾ひれで弾かれていく。何度かそれを繰り返していると、兎は元の海岸まで戻されてしまった。

 針のむしろにされたその姿は痛ましく、毛は剥げて露わになった皮膚は傷だらけで血に塗れていた。

 かろうじて意識があるようで、不幸中の幸いだった。

 声が出せず、静かに心臓だけが脈打つ。それでもなんとか身体を動かすと、前方からこちらへ向かってくる男達が見えた。

「おいおい、見てみろよ。前に何か落ちてるぞ」

「ありゃあ、長い耳……因幡の兎じゃねえか? ちょいと悪戯しようじゃないか!」

 男達は道なりに歩いていると数メートル先に動物を見つけて、それに近付いていく。

「兎、大丈夫か?」

「怪我してるのぉ、痛いじゃろう」

 長旅に飽きた者たちの余興。それは、ただの戯れにすぎない。

 男達はにやにやと笑いながら兎に声をかける。

 しかし、無言で左右に首を振る姿を見て、大勢いる男のうちの一人が何かを閃く。

「海水でそれを洗い流し、あそこの山で風と日光に当たり乾かすとよい」

 兎は半信半疑だったが、今の状態から脱するために彼らの言う通りにする。

 はじめは海水で身を洗う。しかし、びりびりと皮膚が痛くなってしまい眉間にしわを寄せる。

 それでも我慢して山の上に行き、風と日光で乾燥させていたのだが――全身が焼けるような衝撃に苦しんでのたうち回る。ただれた皮膚を、何度も針で刺され、涙する。

 じくじくとした疼痛に耐え伏せていると、一人の青年が大きな荷物を背負ってやってくる。

 ぐったりとしている兎の元まで歩いて来て、それに声をかける。

「君。大丈夫?」

 先ほどの男たちと同類だと思い、兎は返事をせずにそっぽを向く。

「傷だらけだよ、痛くないの?」

 兎は、無視を決め込もうとしたのだが、心配そうに覗いてくる人を無碍にもできず、首を縦に振る。

「そっか。赤い跡が見えたから、酷い怪我だね」

 その青年は大事に兎を抱えながら湧き水を探して歩みを進めると、浅瀬で岩間を流れる川を見つけた。

 背負った荷物を地面に置いて、その一つの袋から四角い布を取り出す。

 近くの岩の上に布を広げてから、そこへゆっくりと兎を横にする。

「神水と云われていて、龍神の加護により治癒能力がある御水なんだよ」

 男は手で水を掬って、ゆっくりと兎の身体に湿らせる。かけ続けてやると、ただれて傷ましい皮膚は治っていた。

 そして、池の近くに生えている蒲の穂を地面に敷いて絨毯にすると、兎をそこに乗せた。

「その上で、ごろごろと転がって、蒲の毛を身に付けるといい」

「……」

 兎は半信半疑で男を見つめる。男は首を少し悩んで、閃いたという表情で穂が付いた蒲の茎を持つ。 

 手に持ったそれを、穂の部分で兎の頭を優しくたたいたり撫でつける。不愉快を表すために兎は後ろ足でダンダンと音を立てるが、男は気付く気配がない。

 仕方ないので兎は言う通りにして、穂の上でごろごろと転がり行ったり来たりを繰り返す。

 すると、毛は元通りになっていき、完全に皮膚の痛みもなくなったようだった。

 相変わらず毛並みは黒色のままだったが。

「綺麗に戻ってよかったね」

 男の顔が安心を通り越して、自分のことのように嬉しそうに綻ぶ。

「っっ!!」

 その多幸に満ちた表情を目の当たりにした瞬間――兎の鼓動が早くなっていく。

「もう無茶してはいけないよ」

 彼に手で頭を優しく撫でられると、ふわふわと心地よくて、頬が緩んでしまうほど愛しいと思ってしまう。

 その黒兎は単純なことに、たったそれだけで彼に惚れてしまったのである。


       * * *


 次の日。

 齢十五の少女の姿に変化した兎は、自身を救った男の後を尾行していた。

 質素な着物だがみすぼらしくもない、着飾らない身なり。漆黒色の艶のある長髪だけが、彼女の美しさを際立たせていた。


 休憩をしようと彼が立ち止まった一瞬を見計らって、少女は彼の前に立つ。

「あの……その! 先日、兎を助けていただいた者の主です。私の眷属を良くしていただいて、ありがとうございます」

「ああ……昨日の兎の」

「わ――私の、名前は朝紀といいます」

「ぼくの名前は己貴だよ」

「素敵なお名前ですね」

「はは、ありがとう」

 会話が止まる。このような機会は滅多になく、せめて印象は良くしたいと考えて施そうとする。

「あの、己貴様! そ、そそそれで!! なにか恩返しがしたいのですが、お手伝いできることや欲しいものはありますか!?」

 赤面し取り乱しながら朝紀が問いかけると、己貴はうーんと唸る。だが、

「ない」

にっこりと満面の笑みで無邪気に答えた。ばっさりと彼女の期待を裏切ったのだった。

「え……えっ!?」

 ぽかん。と、呆けた口で開く朝紀。

 そして、自分の聞き間違いなのではないかと再度問うが、結果は変わらなかった。

 期待を胸に膨らませて、あっけなく撃沈されてしまった彼女。その残念そうな表情を見て、己貴は忍び笑いをする。

「そんな事しなくても大丈夫だよ? ぼくが好きで助けただけだし」

「そんなぁ……」

「ありがとう、君は優しい子だね」

 朝紀は涙目になってがっくり項垂れるが、己貴が片手で優しく撫でると、どきりと心臓が跳ねた。

 彼女の顔は急激に熱を持ち、心臓が早鐘をうつ。だらしない顔になっていないか不安になりつつも、心地の良い温もりに浸ってしまっていた。だが、次の瞬間は気のゆるみで兎耳に戻らないように必死に耐えようとする。

 己貴は、ころころ表情が変わる朝紀の面白がっていた。

 やがて手が離れていくと、彼女は名残惜しそうにする。まだ話していたいと思い、なんとか話題を探そうと視線だけを動かす。そして、目に入ってきた彼が背負っている袋について問いかけた。

「え……と、そんな大きな荷物を持ってどちらへ?」

「ああ、八上姫様を娶ろうとしている道中で、この荷物はほとんど兄達の物なんだ。多分もう御殿に到着しているんだろうね」

 彼女はそれを聞くと驚き、すぐさま酷く怒った表情に変わる。そして、身体の前で腕を組んで興奮した様子で叱咤する。

「そんな酷いことを己貴様にさせるなんて! 八上姫様は絶対そんな人達を夫にはしませんよ! 従者であるこの私が言うのですから間違いありま――」

 そこで言葉が詰まった。

 朝紀は重大な間違いに気付いた様子『あ』と短く発すると、青ざめて額から汗が一滴伝っていく。己貴はその表情を察する。

「八上姫の従者だったんだね」

「あ、え、その! 騙すとかそういうんじゃなくっ――私なんかが『八上姫の従者』だというと、姫様の名誉に関わってしまうので。だから、あぅ、う……嘘ついてごめんなさい!」

 頭を何度も下げて謝る朝紀の肩に空いた手を置いて、安心させるように話しかける。

「間違ったら正直に謝るのは、それだけで尊いことだよ。朝紀」

 彼は『世のなかには悪事を働いても、それを非だと認めない人もいるからね』と付け加えてから手を放す。

(もし、彼を姫様の所に案内をするとして――もし、お互い好意をもって夫婦になってしまったら?)

 空理空論。想いを告げることすらできないのかと不安に駆られてしまい、喉がつっかえて息苦しさを覚える。嫉妬という感情が腹の底で渦巻いていく。ならばこのまま、謀って嘘をついて、駆け落ちでもしようかと企む。

 朝紀はちらりと己貴に目をやると、彼女の出方を窺っているのか無邪気そうに首を傾げる。その表情だけで、愛おしく思う気持ちが溢れ、毒気が抜けていくのがわかった。

(私は、こんなに心の澄んだ方を騙そうとしてたの……?)

 美しく輝く魂に惹かれて感情が昂ってしまったことを恥じ入る。

『それに、醜い私なんて、受け入れてくれるはずがない』と言い聞かせ、自分の気持ちに嘘をついてまで蓋をしようとする。体に鮫の牙が食い込む衝撃よりも、ずきりと心が痛む。

 それは、重く深く複雑な感情だろう。

 それでも、彼との出逢いは触れた温もりは――泡沫の夢だったと諫めることにした。

 意を決して、彼女は己貴に告げる。

「数々の無礼お許しください。この朝紀――八上姫様の御殿まで貴殿を案内いたしましょう」


 朝紀の案内により丘をいくつか越えて平地を行くと、太い木で作られた二メートルほどの背丈の柵が見えた。出入口らしき門があるが、出払っているのだろうか門番はいない。

 敷地内に入ると、柵門から正面に建つ屋敷までおおよそ百メートルの道のりがあった。

 騒がしさにより建物を右のほうに目を向ければ、そこには多くの男がごった返していた。

 剣を持つ者が牽制しているようだった。どうやら門番たちはこちらの対応にあたっているらしい。

 そのなかから、彩り溢れる衣を纏った女性が己貴と朝紀の前にやって来ると、

「この八上。我が夫となる方はそちらの者です」

 突然、そう投げかけられた。己貴は周りを見渡すが、周囲の反応により『どうやら自分のこと』だと理解する。朝紀はひどく驚いた顔をするが、彼が視線を送ると目を逸らされてしまう。

「ぼくですか?」

「いかにも。朝紀は下がりなさい、それと――のちほど、お話があります」

 八上姫は己貴の言葉を肯定し、彼の背後にいる朝紀に呼びかける。

「……はい」

 八上姫が命令をせば、朝紀はそれに従ってその場を去るのだった。


       * * *


 朝紀が去ると、八上姫に連れられた己貴は大きい座敷に通された。等間隔に柱はあるものの、そこからでは敷地がよく見える。

八上姫は頭を垂れてから、凛とした声を響かせる。

「己貴様。ここまでご足労いただき有難う御座います。わたくしめは心が澄み渡りお優しい貴方を慕い申します。どうかもらってはいただけませんでしょうか」

 突然の求婚だった。

 己貴はその姿を見て、どう返そうか思考を巡らせる。だが、なにか意を決したようで、声を上げる。

「八上姫。この上無く勿体無くありがたい話です」

そこで区切り、己貴は深呼吸してから――、

「ですが、お断り申し上げます。 ぼくは貴方の夫にはなれないです。忝い」

 彼は頭を垂れた。その姿を見て、八十神が怒鳴る。

「お前、ふざけるな!」

「そうだ! せっかく八上姫が頭を下げているというのに!」

「無礼だぞ!」

 八上姫はすっと頭をあげると、垂れた邪魔な髪を揺らして収めた。

 そして、庭の方をぎらりと睨みつけると、

「野次馬どもは黙りなさい――!」

 低く唸るような発言に、彼らは一瞬で黙り込んだ。

「己貴様、本当にあの子が宜しいのでしょうか? また、先日の件は他の者により存じております。不誠実で不器用なあの子は、この先なにをしでかすか分かりません」

「はい、あの子が好いのです。朝紀は……ぼくの前では一生懸命で子どもみたいに純粋な顔をする。目で追っていくうちに愛おしく感じ、彼女の表情が脳に焼き付いて離れないほど、夢中になる。もし、あの子が道を踏み外すというならば悟します。もし哀しみに暮れるならば、この腕で包んであげたい。傍にいたい――共に歩んでいきたい。……そう心から思うのです」

 恥ずかしがることなく、言葉を紡いで惚気けてみせる己貴。

「分かりました。 それでは、この縁談は無かったことに致しましょう。――ですが、だからと言って、あなた方とお付き合いする気は毛頭ありません」

八上姫は大衆を一瞥すると、自らのことだと察した八十神は震え上がっていた。

「ありがとうございます。八上姫」

「お気になさらず。さて、朝紀にお話をしなければなりませんね。あの子も喜ぶでしょう」

「だと良いのですが。ああ、緊張した~~。形式とはいえ、初対面で求婚されるなんて心臓に悪い」

 気が抜けたのか、安堵とともに彼は語尾を伸ばす。先ほどの顔つきと違い、八上姫は不審な目を向ける。

「……貴方のそれは素面なのですか?」

「なんの話ですか?」

 理解が足らずきょとんとする己貴に対し、八上姫は呆れて額に手を当てていた。


       * * *


 黒兎の朝紀は、少女の姿でそこに居た。普段侍女たちが使用する部屋であるが、誰も居ないことをいいことに、ごろごろと寝転がっている。

「己貴様。姫様と婚礼を交わすのかな――」

 八上姫はその土地の領主の娘で、当人は厳格で不正を嫌う彼女は強く気高く、それでいて優しく正義そのもので人々から好かれている。

 眷属である、白く美しい姿の兎――ほかの侍女たちも同様だった。品があり優秀で、愛らしくも強かで、主の潔白を現わすほどに相応しい存在。

 対して、彼女の眷属末端でもある黒兎の朝紀は、その身を理由にして、――というより意地を捻って捩じった性格になってしまい、ふらふらと遊びに呉れていたのだ。

本人の意思でそうなったのではないのに、他者と見た目が違うというだけで誹りを受ける。

 次第に素行が悪くなると、少女を見てくれるのは姉妹のように育った八上姫だけとなった。

 ときどき、ともに悪戯をする仲ゆえか、他の兎たちより距離が近いようだ。

 だが、初めて朝紀と出逢う者は、やはり違う感情を抱くのだろう。そんな者を好く者がいなければ、身を案じてくれる者もおらず、多感な年頃の心は荒んでいくばかりであった。

しかし、それは過去の話であり、生き方である。今の彼女は、黒兎の朝紀は、

「だとしても、そうなるとしても――! 今は己貴様に会ってお話したいなー」

「あーでもどうなるんだろう。謁見できるのかな? いや、そもそも私が左遷されて、会えなかったりして!?」

「うあ~~~~~~~~~~~やだやだ!! そんなの悲しくて泣くわ! あっ!! そうだ、文! 文ぐらいは出してもいいよね!!」

 ただの恋をする乙女になっていた。


       

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る