8章 アンダードッグ-前編

時は少し戻り、二月中旬。休日――正午

「拓哉はなんでマイスターのことを嫌っていたんですか?」

 キッチンに並んで、ともに作業する相沢拓哉とカルミア。昼食のメニューはカレーライス。

 居候である兎の幽霊から、家主の息子である相沢拓哉に対して、突然疑問を投げかけられる。

 話題のネタになった人物は、玄関と庭の掃除や手入れをしていた。

「別に嫌いではないけれど、苦手みたいな……?」

「理由は?」

 ピーラーでジャガイモの皮を削りながら拓哉は答えると、人参を輪切りにするカルミアはすかさず次の質問を投げかける。

「うーん……?」

 拓哉は首を傾げる。というより、考えてもみなかったという表情をする。ピーラーを持った彼の手の動作がのろまになっていく様子を見ると、カルミアは具体的な例を提示した。

「おせっかいが鬱陶しい、性格があわない、生理的に苦手、とかですかね~?」

「いや、苦手というか普通って感じ……? でも半年くらい前までは嫌いだったな」

 拓哉が言う〝半年前〟の出来事。おそらく宗教団体のことを言っているのだろう。

 言い争いで夢夜を傷をつけてしまったが、初めて拓哉が本音を言えた時でもあった。

 あの事件があったから、彼は従兄を認めることができたのだ。

 あれから拓哉の心境に変化があり、度々言い争う時はあるが嫌悪感はない。

 そのため、『以前よりは、そこそこ仲良くできているのでは?』と成長を感じていた。卑屈になって悲観してばかりだが、なにかしらの変化があり、前に進んでいるのだと錯覚する。

「なんで仲悪かったんですか? 従兄弟同士の確執とか、昔から?」

「昔。むかし……?」

 作業する拓哉の手が完全に止まる。

(そういえば、いー兄がうちにやってきた時って、どんな感じだったっけ?)

(たしか、母さん父さんから『兄が海外赴任だから、うちで預かる』とか、『そんな不安がらないで。兄ができたと思って、仲良くするんだよ』とか言ってたような……)

(随分前から一緒にいた気もするし、そんなに時間が経ってないようにも感じる)

 拓哉は過去を思い出そうとするが、すべてに靄がかるようで、思い出せずにいた。

「よく覚えてないかも。小学生の時に交通事故にあって頭と足を怪我したから。記憶力は悪くなるし、運動も過度なものはダメって言われたし」

「えっ! 拓哉、交通事故にあっていたんですか?」

「うん。地域サッカーチームの試合の帰りに、居眠り運転手のトラックに跳ねられたらしくて」

「らしくて?」

 カルミアは首をかしげながら拓哉に追及する。

「後から聞かされたから」

「淡々と説明していますけど、大丈夫なんですか?」

「別に――」

 肉体面でいえば、膝の靭帯損傷により可動遺棄の制限や後遺症はあるが、リハビリのおかげで日常生活は送れるようになった。

 しかし、精神面に問題を抱えており――恐らく、どうにもならないレベルで荒んでいると拓哉は自嘲する。

 ――他の人のようにうまく物事を進められずに苦悩して、置いていかれる感覚を味わう。

 ――自信の喪失。それは、時が止まってしまったかのよう。その魂は絶望する。

 ――〝今〟が嫌ならば、変わればいい。だが、もっと状況が悪くなってしまった時を考える。

 ――〝正しい選択〟を選ぼうとするあまり、その一歩を恐れて、どうしても前に踏み出せない。


 事故直後の相沢拓哉は、勉強をしても運動をしても平均以下の出来になってしまった。

それまではいつもクラスの中心にいて、積極的に前向きに努力をしていたはずだと記憶していた。

 それが、あの日を境にぱったりと、――自身の性格も環境が変わってしまったのだ。

 怪我をした当時、周りの人間は心配し、なにかと気にかけていた。

だが、彼の能力は劣化してしまい、〝普通〟になる。

 周りの人間は失望し、また拓哉のことを疎ましく思っていた者から陰湿な嫌がらせを受けるようになった。一貫校であるため噂は他学年にも広がり、すれ違えば後ろ指をさされる。

 変わらなかったのは、幼馴染の未と従兄の夢夜。

 彼らはなにも変わらなかったが、精神衛生に悪い環境に身を置いた拓哉は、次第に卑屈に悲観になっていった。

 いつしか、拓哉を知っている在学生は陰で彼を『負け犬』と呼ぶようになっていた。

負け犬――相沢拓哉の代名詞。

 これは本来の意味で名付けたのではなく『物事をやる前から諦めてしまう臆病な相沢拓哉』と揶揄していた。

 何もしていなくとも、人間は適当な理由を付けて他人を陥れようとする。

 拓哉は、自分より格下の人間を笑って蔑んで悦に浸る、性格の悪い同級生や教師の顔がよぎる。

(あんな奴ら、みんな死んじゃえ――)

 しかし、彼はそこで思考を止める。考えれば考えるほど、惨めになってしまうからだ。

「拓哉~~。大丈夫ですか?」

「ああ、うん」

 現実に引き戻された拓哉は、ジャガイモの皮と芽を急いで取り除き、一口サイズで切ると、先に炒めた鶏肉と共に野菜を入れて茹で始める。

 その間にサラダや簡単なおかずを作り、数分経ってからカレールーを入れてさらに二十分ほど煮込む。完成のタイミングにあわせて、作業を終えた夢夜がリビングに入ってくる。

「腹減った。二人とも昼飯サンキューな」

「マイスターどれくらい食べます? 外作業したし、多めにしますか?」

 彼はキッチンにいる二人に礼を言うと、ご飯を盛り付けているカルミアから食べる量を聞かれた。

「あ――いつも通りで」

「いー兄、最近小食だよね」

「あー……がっつり食べるってほど腹空いていないんだよな。消化が悪いんだろううか」

「マイスターのカレーには下剤混ぜましょうか?」

「カルミア。それは洒落にならないからやめろ!」

「トラウマレベルだよカルミアさん。今後カレーが食べれなくなるよ!」

 冗談を言うカルミアは、同時にツッコミを入れてくる二人を見て、『反応が似てて兄弟みたいですね』と呑気に笑う。

「はあ!? こんな中二病、もとい高二病と一緒にしないでよ!」

「え? こう、高二病?」

「そうですよね。マイスター、ドーテー隠キャで拗らせに拗らせた痛い癖ありますもんね」

「おい、事実無根なんだが。嘘言うな」

 そこで夢夜とカルミアの間に火花が散ったと思うと、カルミアは夢夜の背後に回り込むと首に腕を回して絞め技を決める。

 夢夜は苦しいのか必死に彼女の腕を叩くが、解放されることはなかった。よほど怒らせたらしい。

 拓哉は二人を置いてソファの前にあるローテーブルに、一人分のカレーとおかずを並べた。

いつも食べるダイニングテーブルの近くでは二人がプロレスもどきを繰り広げ、騒がしいのだろう。

 彼は一人で手を合わせて、静かに食べ始める。

(なんだっけこういうの――夫婦喧嘩とかバカップルって言うんだっけ。付き合ってられないな)

 やがて飽きたらしいカルミアは、ローテーブルの方に二人分の食事を持ってくる。

「マイスター早くしないと食べちゃいますよ」

キッチンでうつ伏に倒れている人物に声をかけると、その男はゆっくりと立ちあがり、ふらふらやってくると目が赤かった。

「ほらほら、マイスター機嫌直してくださいよ。私が口に運んであげますからあーんしてください」

夢夜は顔を引き攣らせつつ、拓哉に『助けてくれ』と目配せする。

(いや、こっち見られても)

 呆れた様子で見ていると、カルミアは震える夢夜の顎をつかんで、微笑みながら食べさせていた。

「美味しいですか?」

「…………恥ずかしい」

 机の上に肘を付いて顔を隠している夢夜と、上機嫌でカレーを口に運ぶカルミアだった。

(なんだ、この茶番)

 思春期の少年は心のなかで毒吐く。以前から性格が丸くなったとはいえ、そんな簡単に穏やかになるわけではない。それでも、今の感想は侮蔑ではなくツッコミだろうと見てとれる。

 喧嘩しても言い争っても、時間が経てばまた普段通りに接してくる家族。

 十一か月程ともに過ごして、その光景に慣れ親しんでしまった拓哉は少しだけ口元を緩ませていた。

 二人を見て、ふと彼はワーカーホリックの父と母を思い出す。

両親は家に帰ってくることは滅多になく、月一にやってくるのは自分の口座に十五万近い生活費。

真面目で優しい二人だが、それ故、真面目すぎて仕事に追われる姿を思い浮かべると微笑ましく思う。

 向上心があって熱心に物事に取り組んで、優しくて誰からも頼りにされる自慢の両親。

(昔は自分もあんなふうに、かっこよくなろうとしていたっけ――)


 その夜。拓哉はテスト勉強をしようと机に向かい、教科書やノートを引っ張り出す。

 彼は、昼にカルミアとの会話を思い出していた。

 初めて従兄と出逢った時の事と交通事故の話。

事故の後遺症か何かは解らないが、その時から著しく記憶力が低下していた事。

「それでも、なんか違和感があるんだよな――」

(記憶、思い出を――重い何かで蓋をされているような……?)

 人間は精神に多大な負荷を感じたとき、防衛本能として記憶を改竄することがあるらしい。

事実を無かったことに、自身にとって都合の良い思い出に変えてしまうという。

「はー……こんな状態じゃ頭に入らないから今日はやめよ」

 彼は開いただけの教科書やノートをエナメルバッグにしまうと、電気を消して布団に入った。


 翌日。

公立桜野山中学校。教室。

「相沢君」

休み時間。拓哉は窓の外をぼんやり校庭の方を眺めていると、通路側から未に声をかけられた。

(また未か……自分と話すとまた周りに厭味言われるのに――)

拓哉は彼女の呼びかけを無視をしようと決め込むが、

「相沢君。聞いてる?」

「……なに」

 少女を無碍にもできず、仕方なく視線を向ける。拓哉が反応すると、未は嬉しそうに頬を赤く染めていた。彼は心のなかで『これ、そんなに嬉しいこと?』と毒づく。

「最近、調子はどう? 夢夜さんとカルミアさん元気?」

「別に。フツー。あの人たちもフツー」

(そういえば、前に『居候が増えた』ってカルミアさんのこと伝えてたな。あの人、僕といー兄以外と話したがらないの、なんでだろ?)

「そ、そうなんだ。じゃあ、何か楽しい事とかはあった?」

「特にない」

「えと……今やってる現文の範囲って難しいよね! 配布プリントの問題で『主人公と弟の性格の違いをどう現しているか文中から探せ』とか、あれは数ページに渡って表現がされてて――探すの大変だったよ~」

「ああ、そうだね」

 拓哉は『ラリーは可能だが、キャッチボールはできない会話』だと自嘲する。

(幼馴染だから、優しさで気にかけてるんだろうな。僕と居たら楽しくないだろうし、あとでクラスメイトからまた何か言われそうだし。めんどくさいな……)

 彼は彼女に振る話題などなく、ただ早く自分から離れてほしいと思っていた。

「だ、だからね!! 私国語が苦手だから中間テストが赤点だったんだ~。もっと頑張って勉強しなくちゃだよね」

(頭のいい人間が、自分より出来の悪い人間に何を言っているんだろう。自慢かな)

「お前さ……それ嫌味? マジでうざいんだけど」

 拓哉は未の顔を見ずに、淡々と返した。人の心を刺すような強い言葉を使っていた。

「えっ、あの、そうじゃなくて。私何やってもだめだめだからさ。もっと頑張れって感じだよね!? 相沢君もそう――」

 彼女は慌てながら弁解をするが、拓哉の言葉により遮られてしまう。

「思ってないけど。勝手に決めつけて、なんなの――お前」

(違う。だめじゃない。君はいつも優しく声をかける……その優しさが、理由が分からない)

「僕より成績もよくて社交的なくせに、自分より格下の奴に自慢して趣味悪。――ほんっとうざい」

「ちっ、違うよ!」

拓哉の言葉に、すぐさま彼女は叫んで否定した。

クラスメイトが、何があったと言わんばかりに一斉にこちらに振り向く。

「え……と、あの」

「……」

気まずそうにする未を見て、拓哉は溜息をつく。先ほどとは違った雰囲気に教室が騒がしくなる。

(僕に関わってほしくないのに、はっきり断れない自分が悪いのに――こんなやり方、みじめで構ってほしいだけの天邪鬼じゃん)

「ああ――そうだね。ここの問題の答えは違ってた~、丁寧に教えてくれたのに、ごめん」 

 拓哉は周囲にわざと聞こえるように謝罪を口にする。囁く愚痴は暴言に変わり、彼の耳に入る。

「せっかく夕暮れさんが勉強教えてくれてるのに、何あいつ?」

「感じ悪いしィ。未ちゃん可哀想」

「ちょーキモイ」

「根暗は学校くんなよ」

周りの人間からは『夕暮が勉強を教えているのに、相沢はその優しさを無碍にしようとしている』と捉えられていた。理解しようともせずに当事者の心を考えず、勝手に決めつける部外者たち。

(自分が否定された時は騒ぐくせに、人には悪びれもせずに言いたい放題)

「あ……うん。 私のほうこそ、大きな声出してごめんなさい」

未は申し訳なさそうにそう言いのこすと、自分の席に戻っていく。

(これでいい。未は僕といたらきっと楽しくないだろうし――不幸になる)

 拓哉はそう考えてから、次の授業の教科書とノートを引っ張り出した。

 いつもと同じ光景だった――そして、いつもと同じ道のりで家に帰宅する。

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