4章 幽愁暗恨-前編
口。声。言葉や思いを伝えるためのコミュニケーションのひとつ。
生前と呼ぶ記憶では、声を、心の音を上げたことはなかった。
その鬼は、口がどろどろに溶けていた。
その鬼は、思いを伝える声を失った。
ちいさな願いを。平和な夢を。
前に進もうと決意したがために、皮肉なことに、ほしいものすべて失ったのだ。
その鬼は、微かに覚えている幸福を反芻する――
白く簡素な室内。窓から差し込んだ光に照らされた少年が眩しく感じて、少女は目を細める。
「峠チャンさ~。コンタクトにして、髪下ろして、メイクしたら可愛いと思うけど」
「そんな……! 私なんて何やってもダメだし、自信ないし、きっと期待に応えられないよ」
「僕が見たいから、やってほしいんだな~。そうじゃなくても、僕スタイリストになりたいから練習させて~。ダメかな?」
高校に通う二年生の峠友恵と、同級生の山本遼太郎の話。
眼鏡が飛んでいってしまうのではないかと思うほど、峠は激しく首を横に振る。その動作に合わせて、腰下まである長い三つ編みも一緒に揺れた。指定された学生服を身に纏うが、スカートは規定より長めにしているのか、素朴で控え目――悪く言えば、暗い印象を与える少女。
対して、髪を金色に染めて、耳にいくつかピアスを開けた山本は、入院着の下に黒いタートルネックインナーを着ていた。シールではあるが、首下から右腕にかけてタトゥーがあるらしく、隠しているとのこと。
学内で教師からも学生からも悪質ないじめを受けている峠は、不知火病院の病棟の個室に居た。
事の始まりは二週間ほど前。
女子集団に窓から押されて落ちた際に、下敷きとなり庇ったのが、今まさにベッドに横になり両足に固定具を着けている山本だった。
家庭にも居場所のない峠は、母親からの命令で彼の元へ媚びへつらいに来ていた。しかし、当初は義務や責任感として通っていたが、話していく内に心の底から山本の事を案じて訪れるようになる。
峠は何よりも、誰かと何かを共有できる事に救われた気持ちを抱く。
他愛のない会話を弾ませ、二人は一緒の時間を過ごしていく日々が続いたころ。
「え……え!? やくざの息子だったの?」
「あっはは。ビビった? こう言うと、大抵みんなビビッて距離置いくからね~。僕、結構有名だから、学校で知らない人いないと思ってたよ」
「ごめんなさいっ。いつも自分のことで精一杯だから周りの出来事はあんまり……。有名人とは知らず、私なんかと仲良くしてくださって、ありがとうございます」
礼儀正しく深々と頭を下げると、山本は目をぱちくりさせて、
「え、何それ。ぷっッ……気遣われるなんて初なんだけど。ンヒっ……あ、待っ、ツボっ、った」
堪えきれずに噴き出していた。ネットであれば、文章の語尾全てに『ww』が付いているだろう。腹を抱えて笑う彼に、峠は慌てふためく。
「そ、その!! でも、……ちゃんと説明しても、言っても、それでも受け入れてくれなかったら悲しいよね」
「悲しいけどさ……フフッ。峠チャンは僕を受け入れてくれたじゃん? それが一番嬉しいんだ。あと、さっき君は『私なんか~』って言ってたけど、人の痛みが分かる君だから仲良くしたいって思った!」
彼の無邪気な顔につられ、峠も口を綻ばせる。
普段邪険にされて生きてきた彼女は、敵意のない喜びに満ちた他者の表情に、ふわふわと温かい気持ちに包まれる。
見たことのない光、新しい世界への扉が目の前に現れた――そんな妄想をする。
「今は辛いかもしれないけど、生きていたらきっと良い事あるって思ってるから。いや、良い未来にしたくて頑張るんだ!」
「山本君……強いんだね」
「誰も責任取ってくれない世界、だから……文句言って、人の足引っ張る奴らの事はどうでもいい! 何をされようが何を言われようが、自分は自分だ。自分の人生は自分で楽しくしなきゃいけないからね!」
彼は胸を張って面白可笑しく意味もなくポーズをとって宣う。峠はその姿を見て、自分も頑張りたいと――強く生きたいと、憧れを抱かずにはいられなかった。
「峠チャン……生きてね」
「えっ……」
「人の言葉に屈しちゃいけない。道はいくらでもあるし、嫌なら逃げ出してもいいんだよ。、もし勇気が必要なら僕が背中を押してあげる。なんてったって、もう友達だからな!」
怪我や峠を取り巻く問題の事を言っているのだろう。その優しさに触れたのはいつぶりだろうか、彼女の目元からは涙が溢れていた。
「っ……!! ありが……っう……ううぅわああああああああん」
ずっと誰かからそう言ってほしかった峠は、人目も気にせず大声で泣き始める。山本に背中を擦ってあやされていた彼女は、騒ぎを聞きつけた看護師が飛んできて退室を促されてしまった。
病院を後にした峠は、彼の言葉で身体の奥から熱が沸き起こるのを感じて、しっかりとした足取りで前を進む。信号の色が変わり、立ち止まって左右を見て、前へと向き直る。
今まで俯いて過ごしていたから分からなかった彼女だが、顔を上げれば道はたくさんあった。
『そうだ、これから自分を変えていけばいいんだ』と、心が大きく跳ねる。
錯覚でもいい。一人だけでも、支えてくれる人がいるから頑張れる。そう何度も言い聞かせると、先ほどの余韻なのか視界が涙でぼやける。
峠は溢れ出てくるそれを拭っていると、突然背中に衝撃を受けて、目線は地面を捉えていた。
待っていた信号は赤のはずなのに、何故自分は車道に飛び出しているのだと考えるよりも早く――、
感じた事がない衝撃と激痛が一瞬で駆け抜け、そこで峠友恵の意識は途切れた。
《先日、不知火病院の前で死亡した少女についてですが、自宅の机の上には遺書らしき物を発見。その事から原因はいじめと考えており、生徒や教師に事情聴取しています。遺族からは――》
相沢宅では、食事中はテレビを点けない決まりらしいのだが、両親が不在のため効力はない。面白い番組がないらしく、拓哉が適当に回した時だった。
「いじめですか。ゴーストよりも、生きた人間のほうが怖いですね~~」
「そうだな。あ、拓哉! ピーマンぐらい食えるようになれよ!」
「なんで? 嫌いだし食べたくない。いつもより細かく刻んでさあ……取り除く僕の身にもなってよ」
「そうさせないために刻んでんだよ」
食卓の上には白米に味噌汁。おかずは秋刀魚の塩焼き、トマトサラダに鶏肉とカシューナッツの炒め物、だし巻たまごが並べられていた。味噌汁の具はわかめと豆腐とねぎ。
秋刀魚の塩焼きには好みで大根のすりおろしと生姜を用意しており、トマトサラダはレタスを敷いて、その上から玉葱ときゅうりの薄切りを散らすようにし、最後に一口サイズに切ったトマトを盛り付け。
鶏肉とピーマン、カシューナッツを細かく切って調味料と一緒に炒めたもの。だし巻たまごは食卓の色合いが偏っている理由で、急きょ作ったのだった。
「だし巻たまご、ちょっと失敗したかもしれない」
「そんなことないですよ。いつもよりちょっと固いくらいです」
「ふわふわしてない……」
カルミアは上げて落とし、拓哉はしょぼくれ残念そうにコメントする。
「次はもっとおいしく作ってやるし」
悔しがる夢夜に対し、カルミアは捕捉をするように告げた。
「しっかし、マイスターって女子力高いですよね。他はダメダメなのに」
「カルミアそれ褒めてるのか? それとも乏しているのか……?」
「え~褒めてるんですよ!? 被害妄想はやめてください」
「言葉の暴力って知ってる? その言葉でどれだけの人間が傷ついてきたか知らないだろ」
箸を持つ拓哉の手が一瞬止まったが、掴んだトマト見つめて追い打ちをかける。
「いー兄はメンタル豆腐だもんな。いや埃かな? 吹けば飛んじゃうくらい弱い」
「拓哉はフォローをしたいのか? 止めを刺したいの――」
いつもと変わりない食卓での会話で、夢夜が拓也の小言を返そうとした時だった。
夢夜は突然ぐらっと頭が揺さぶられ、腹の底から喉まで一気に不快感が押し寄せる。込み上げてきそうなそれを、とっさに手で押さえる。
「マイスターどうしました?」
「あ……いや、なんでもない」
カルミアは訝しげに見つめながらも、夢夜に声をかける。
察しがいいはずの彼女が、何にも気付いていない様子だった。
轟々と燃え盛る炎の海に身を投じているような、常に首元に鋭利な刃を当てられている感覚――世界にいく通りもある危機的状況を、一斉に浴びている緊張感。
無いはずの記憶が、魂が、死という事象に呼応してる。
(今この場にはゴーストはいないはず。それなのに……)
得体の知れない何かが夢夜の身体を縛っていて、思う通りに呼吸ができずにいた。
「今日はもういいや」
「マイスター半分しか食べてないですよ。 珍しくないですか?」
「食欲無くなって――」
カルミアの仕事の手伝いで少しは体力がついたが、それでも貧弱痩身で。
しかし、事前に、保存用と食べ切れるであろう量を分けて用意しているため、完食が日常で。
つまり、夢夜がご飯を残すという行動はとても稀なのだ。
「えっ! 僕が嫌な事言ったから? ごめん、いー兄!!」
「はッ!! もしかして、レモン水で具合悪くなっちゃいました!? 美酢やろうとして、味醂とお酢間違えちゃったんですが」
常日頃から料理を担当している夢夜が、ご飯を残して食事を切り上げようとする。
彼の逆鱗にでも触れて今後の食卓事情に影響すると思ったのか、二人は慌てふためく。
「ちょっと具合が悪くなっただけだから。あ、カルミアは後で説教な」
「ヒドイくないですか!? 代わりに飲むのでチャラってことで!」
「ならないならない。隠蔽して事後報告も、チャラにするのもだめ」
二人の自分勝手さに呆れつつ、夢夜は案じてくれる彼らが食べ終わるまで見守っていた。
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