手作りのクリスマス

※茜が中学二年生の頃のクリスマスのお話。


 ふんわりとした甘い香りが台所に漂っている。オーブンの様子を窺うが、スポンジケーキが焼き上がるまであと数分かかるみたいだ。焦げているようなことはなさそうで安心する。


「いいにおいーもう焼ける?」

「うん。あとちょっと」

「柚香、焼けてもすぐには食べれないよ?」

「わかってるってば!」


 クリスマスイブ。毎日見慣れた台所には柚香となずなの姿があった。

 この家で過ごすクリスマスは毎年夏癸と二人きりだったのだが、今年は違う。柚香は母親が夜勤のためイブの夜は一人で過ごすのだと聞き、それならうちで一緒に夕飯を食べたらどうかと誘うことにしたのだ。もちろん夏癸も賛成してくれた。せっかくなのでとなずなにも声をかけたら彼女も喜んで誘いを受けてくれた。


 ケーキを作りたいと言い出したのは茜だった。いつもお祝い事のときにはお店のケーキを買ってくるのだが、ホールケーキは二人では持て余すので滅多に買うことはない。クリスマスケーキも毎年小さいケーキを買うことが多かった。


 時々カップケーキや焼き菓子などのお菓子を作ることがある茜だが、同じ理由でホールケーキを作ったことはなかった。今年のクリスマスは人数が多いので、せっかくだから大きいデコレーションケーキを作ってみたかったのだ。

 ケーキは作ってみてもいいかなと何気なく二人に話したら、一緒に作りたいと言われたのだ。以前、バレンタインに三人でガトーショコラを作ったのが楽しかったので二人ともまたやりたいと思っていたらしい。


 友達と一緒にケーキを作るのも楽しそうだと思い、やってもいいか夏癸に訊いてみたら快く了承してくれた。材料は事前に夏癸と買い物に行って用意しておき、二人には夕飯よりかなり早い時間に家に来てもらいケーキ作りをすることにした。

 もっとも一緒に作るといいつつ、二人は材料を測ったり入れたりが主でほとんど茜が作業していたのだが、友達と一緒に台所に立つのは普段と違う雰囲気で楽しいことに変わりはなかった。


「あっ、焼けたみたい!」


 柚香の声を聞いてオーブンを開く。

 きちんと膨らんだスポンジケーキが焼き上がっていた。竹串を刺して焼き具合を確認する。何もついていないのできちんと焼けているみたいだ。丸い型から抜いてケーキクーラーの上で冷ましておく。


「これ買ってきたんだー飾っていい?」

「あ、私も。作ってきた」

「わぁ、かわいいっ。夏癸さんが好きにしていいって言ってたから大丈夫だよ」


 ケーキを冷ましている間に居間の飾りつけをすることになっていた。柚香となずなが持ってきたキラキラしたモールやクリスマスカラーのフラッグガーランドを飾ると、クリスマスらしい雰囲気が出てきた。和室だから少しアンバランスな気もするけれど、それは仕方がない。

 部屋の中には小さなクリスマスツリーも飾ってある。茜が幼い頃に両親が買ってくれたものらしい。よく覚えていないけれど、毎年飾っているから愛着があった。今年はオーナメントに自分が作ったものも加えている。


「……あっ」


 少し背伸びをしながら、マスキングテープで壁にモールを貼り付けていた茜だったが、足をつけた瞬間にお腹に走った衝撃に気付いて思わず声を上げた。


「茜ちゃん?」

「どうしたの?」


 二人の視線が集まってきて頬が赤くなる。


「えっと……ちょっと、ごめんねっ」


 茜はもごもごと口を動かすと、慌てて居間を飛び出した。トイレに行きたい。そういえば、お昼を食べたあとに済ませたきりだった。気が付いたら切羽詰まっていた尿意に焦りながら廊下の奥にあるトイレを目指す。さすがに家の中でおもらしは避けたい。


(あとちょっとだから、我慢……!)


 それほど長くはないはずの距離を必死に歩いていきトイレのドアを開く。見慣れた白い便器を目にして間に合ったとほっとした途端、ぞくっと震えが走った。慌ててドアを閉める。


「やっ、まって、」


 ぴちゃ、と足元で小さな水音が跳ねた。身体は勝手に解放を始めてしまって、すでに下着が温かく濡れている。脚に滴るものを感じながらも、茜はあたふたしながらタイツと下着を一気に引き下ろした。便座に腰を下ろす。ぱちゃぱちゃ、と水に落ちる音が一気に響いた。


(どうしよう、やっちゃった……)


 足元には小さな水溜まり。下着も汚してしまった。全部漏らしてしまったわけではないけれど、これではおもらしと大差ない。


「はぁ……」


 お腹はすっきりしたけれど、思わずため息をつく。汚れた脚や床をトイレットペーパーで拭き、タイツと下着はそのまま脱いでしまう。幸いスカートだけは濡れていない。


(早く掃除しなきゃ……うう、でも、先に着替えたい)


 掃除用シートできちんと床を拭かなければと思ったけれど、脚が冷えてしまったし早く新しい下着を身に着けたい。ひとまず先に着替えをしようと思い水を流してドアを開けると、すぐ外に夏癸の姿があった。


「っ、夏癸さん……!」

「すみません、入っていたんですね。開けてしまうところでした」

「ごめんなさい、あの、えっと」


 そういえば鍵をかけ忘れていたとか、床を汚してしまったとか言わなきゃいけないと思いながらも恥ずかしくてとっさに言葉が出てこない。

 けれど、タイツを脱いでいる茜の姿を見て察したのか、夏癸は柔らかい苦笑を浮かべつつ眼鏡の奥の目を細めた。


「大丈夫ですよ。掃除しておきますから、早く着替えておいで」

「あの、でも」

「準備もまだ途中なんでしょう?」

「はい……」


 しょんぼりしながら頷く茜の頭を、夏癸はそっと撫でた。


「ほら、風邪ひくといけませんから。ケーキ、楽しみにしていますね」


 こくん、とひとつ頷いて茜はすぐ浴室に足を向けた。

 柚香となずなをあまり待たせては悪いので、手早く綺麗にして新しい下着を穿いた。汚してしまったものも軽く流して洗濯機へ入れてしまう。丁寧に手を洗ってから、急いで二階の自室に行きタイツを穿いてきた。スカートは汚れていないし、タイツも同じ色のものなのでぱっと見ただけでは粗相したことに気付かれることはないだろう、と思いたい。何食わぬ顔を装いながら急いで居間へ戻った。


「ごめんね、お待たせっ」

「おかえりー」

「飾りつけだいたい終わっちゃったけど。こんな感じでいいかな?」


 戻りが遅かった理由について二人が聞いてくることはなかった。もしかしたら気付かれてしまっているかもしれないけれど、何も言わないでいてくれるのは有難い。


「うん、ありがとう。じゃあ、ケーキも飾りつけしよっか」


 台所に戻ってエプロンをつけ直す。流し台でもう一度手を洗ってから、ハンドミキサーで生クリームを泡立てた。スポンジケーキもすっかり冷めている。


「ね、味見していい?」

「うん。どうぞ」


 きらきらした目でホイップクリームを見つめている柚香にほんの少し苦笑しつつ、スプーンですくったクリームを差し出す。柚香は指先にクリームを取るとぺろっと舐めた。


「あ、おいしい! 甘さいい感じだね」

「そう? なずなちゃんも、味見どうぞ」

「ありがと。ん、おいしい」


 自分でもクリームを舐めてみる。きちんとレシピ通りに砂糖を入れたからだと思うが、過度に甘すぎることのないほどよい甘さのホイップクリームが出来上がっていた。

 スポンジケーキを半分に切って生クリームを塗り、薄切りにしたいちごを挟む。切るときにスポンジ生地を少しだけ味見してみたけれど、こちらもちゃんとおいしく焼けていて安心した。


 残りのクリームをケーキの周りに塗ったり上に絞ったりして、いちごを載せて飾りつけをする。三人で順番にクリームを絞ったら少し歪になってしまったのはご愛敬ということで。最後に市販のチョコプレートと砂糖菓子のサンタクロースを載せて、クリスマスケーキの完成だ。


「できた?」

「うん、これで完成」

「めっちゃよくない? 写真撮ろう写真!」


 柚香がはしゃいだ様子でスマートフォンを取りに行く。ケーキの写真や自分たちの自撮りを何枚か撮って満足げな顔をした。


「あとで写真送るね! 早く食べたいー」

「まだだめだよ? ご飯のときにね」

「わかってるってー」


 そんなやりとりをしていると台所に夏癸が入ってきた。テーブルの上のケーキを見て口元を和らげる。


「ケーキ、上手にできましたね」

「はい。味も大丈夫だと思います!」

「料理のほうもすぐ用意しますね」


 そう言うと、夏癸はエプロンをつけて冷蔵庫を開いた。下準備を済ませていた食材を取り出し、ケーキはデコレーションを崩さないようにラップをかけて一旦しまっておく。


「あ……手伝います……!」

「あたしも手伝います!」

「料理苦手ですけど、私も何か」


 茜に続いて柚香となずなも手伝いを申し出る。


「じゃあサラダをお願いしますね」

「はぁい。こっちでやろう?」


 調理台は夏癸が使うのでサラダ作りはテーブルで行う。二人にはレタスをちぎってもらい、茜は玉ねぎを薄切りにする。続いて生ハムをくるくると巻いて花の形にしていると、柚香もなずなも目を丸くした。


「なにそれ!?」

「かわいいーどうやるの?」

「簡単だよ。半分に折って、こうやって巻いて……」


 説明しながら、ゆっくりともうひとつ作る。二人ともすぐに真似して作り出した。スモークサーモンも同じように花の形にする。皿に盛り付け、フレンチドレッシングを作ってかける。サラダ完成だ。


「サラダできました」

「ありがとうございます。もう少しでできますから、先に運んでおいてください」


 三人が和気藹々とサラダを作っているうちに、夏癸は一人で手際よく調理を進めていた。チキンを揚げるいいにおいが室内に漂っている。


「茜、バゲット切っておいてくれますか?」

「はぁい」


 居間の座卓にサラダや取り皿を運んでもらい、茜は頼まれた通りパン屋で買ってきたバゲットを切り分けた。そうしているうちに夏癸も料理が完成したらしい。次々と皿に盛り付けている。

 三人で料理を運ぶのを手伝い、食卓が整った。


「いただきまーす!」


 夏癸が昨日張り切って仕込んでいたローストビーフ、揚げたてのフライドチキンとフライドポテト、生ハムとスモークサーモンのサラダ、コーンポタージュにバゲット。そして茜たちが作ったケーキ。食卓には華やかなクリスマスメニューが並んでいた。


「このローストビーフ、売ってるのよりおいしいですよ!」

「ねー! 茜毎年こんなの食べてるの? いいなぁ」

「えっと、今年はとくに豪華かも……」


 茜があまり量を食べられないため毎年のクリスマスはもう少し品数が少ない。五人分の料理を用意するのは大変だっただろうが、夏癸も作り甲斐があると張り切っていたのでたまにはこういうのもいいかもしれない。

 夏癸は早速ケーキに手をつけていた。フォークで一口分を切り分け口に運ぶ。茜は思わず食事の手を止め、彼の横顔を窺ってしまった。


「どうですか……?」

「ええ、すごくおいしいですよ。頑張りましたね」

「よかったぁ。お料理もすっごくおいしいです、ありがとうございますっ」


 思わず顔がほころぶ。夏癸と二人のときはもっと静かだから、こんなに賑やかなクリスマスを過ごすのは随分と久しぶりだ。二人で過ごすクリスマスも充分楽しいけれど、今年はいつもと違う楽しさがある。

 幸せな気持ちを味わいながら、楽しい食事のひとときを過ごした。

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