彼女のいない日

 午前五時四十五分。いつもと同じ時間に起きて身支度を整えてから、早起きをする必要がないことに夏癸は気付いた。現在、茜は修学旅行中だ。

 家の中はしんと静まり返っている。普段から騒がしいわけではないけれど、ひとりきりだと意識すると妙に家の中が広く感じられた。

 ほんの十年前にはこの家で平気で一人暮らしをしていて、その前にはいまよりもよほど広い家で過ごしていたというのに。すっかり茜との生活に慣れていることを改めて実感する。

 

 茜もそろそろ起床時刻だろう。ちゃんと起きられただろうか。体調を崩してはいないだろうか。気を付けているだろうけれど、万が一、ホテルのベッドで粗相などしていないだろうか。心配事は次々と浮かんでくる。

 やはり、恥ずかしいから嫌だと言う茜を説得し、担任教師の橘に夜尿が心配なことを伝えるべきだっただろうか。

 そんなことを考えつつ台所に立った夏癸だが、朝食を作るのは面倒だなと感じてしまった。茜も食べる食事を用意するときはそのようなことは思いもしないのに、自分一人だけだとどうしても手を抜きたくなる。平日の昼食も手軽に済ませがちだ。

 

「今日はいいか……」

 

 そうひとりごちて、手に取っていた黒いエプロンを定位置に戻す。

 とくに空腹感は感じていない。水だけを軽く口にして、ひとまず毎日の家事を片付けてしまおうと洗面所へ向かった。

 洗濯機を回している間に軽く掃除を済ませる。忙しいときには乾燥まで洗濯機に任せてしまうが、今日は天気が良さそうなので外へ干すことにする。

 洗濯物を干し終わると、軽い空腹感を覚えていた。

 一人暮らしの頃は朝食を抜くこともよくあったが、茜と一緒に毎日きちんと朝食を摂るようになった身体はやはり食事を欲しているようだ。

 

 少し考えてから、久々に外で食べることに決めた。時々足を運ぶ近所の喫茶店は朝七時から営業している。ついでに今日はそのまま外で仕事をしてしまおう。アイデアやプロットをまとめてあるノートとノートパソコンを持ち、家から徒歩数分のところにある個人経営の喫茶店へと向かった。

 扉を開けると来店を告げるベルが鳴る。さほど広くはない店内を軽く見渡すが、開店したばかりの平日朝の時間帯に客の姿は少なかった。「お好きな席へどうぞ」と案内され、奥のテーブル席に座りモーニングセットを注文する。


 少し待つと、トーストとスクランブルエッグとサラダがワンプレートに載ったシンプルなモーニングとブレンドコーヒーが運ばれてきた。

 何度か食べたことがあるが、シンプルな味付けは昔から変わっていない。手早く食べ終えてテキストエディタを開く。皿を下げにきた店員に追加のコーヒーを注文してから、夏癸はキーボードを叩き始めた。

 

 自宅以外では集中できる時とできない時があるが、今回は前者のようだった。

 ふと手を止めて、画面の隅に表示されている時刻を見る。気が付くと昼近くになっていた。途中で一度手洗いに立った以外は自分でも驚くほど集中して書いていたようだ。

 集中力が切れるとともに空腹を覚えていたのでランチセットのナポリタンと、デザートにベイクドチーズケーキを注文する。頭を使ったので糖分を欲していた。


 午前中は空いていた店内も正午を過ぎるとにわかに混雑してきた。さすがにこれ以上居座る気にはなれないので、手早く食べ終えると会計を済ませて店を後にする。

 他の店へ移動するか迷ったがこの時間帯はどこも混んでいるだろう。大人しく自宅へ戻り、メインの仕事部屋にしている一階の部屋で続きを書き始めた。気分によっては隣の居間や二階の私室で書くこともあるが、PCデスクや資料用の本棚を置いて環境を整えてあるこの場所が一番集中しやすい。

 

 淀みなくキーボードを叩いていく。場所の移動で集中力を切らしてしまったかと思ったが、その心配はなかった。

 現在書いているのは新作の長編のため締め切りまではまだ余裕がある。けれど書けないときはまったく書けないため、調子の良いときにできるだけ書き進めておきたい。

 頭の中に浮かんだ情景を指先で言葉に紡いでいく。夏癸はいつの間にか時間も忘れて執筆に没頭していた。

 

「ん……」

 

 気が付くと午後三時を少し過ぎていた。すっかり身体が凝り固まっている。両腕を伸ばしてから肩や首の凝りをほぐす。

 

「あ……洗濯物」

 

 そろそろ取り込まないといけない。庭に出て洗濯物を取り込み、茜の分も含めて畳み終えた洗濯物をしまってから、夏癸はちらりと時計に目を遣った。

 午後三時四十分。そろそろ出かける支度をしないとならない。

 今日は夕方から直林文学賞の選考会が行われる。午後五時からその待ち会をすることになっていた。

 

 ***

 

「日向先生、お疲れ様です!」

 

 都心の繁華街にある料理店まで車で移動し、店員に案内された個室へ足を踏み入れると、すでに篠原を始めとする編集者たちが集まっていた。挨拶をしつつ勧められた席に腰を下ろす。

 とくに希望はなかったので店選びは篠原に任せてしまったが、夏癸の好みに合わせてか豆腐料理の専門店を選んでくれた。テーブルの上には湯豆腐の準備がされている。

 

「先生、なに飲みますか?」

「すみません、車で来たので……ウーロン茶でお願いします」

 

 若い男性の編集者にアルコールのメニュー表を差し出され、慌てて断る。親しい人間以外がいる場でアルコールを口にするのは好まないので、断る口実にするためにも車で移動するようにしていた。

 店内には菱川出版での担当編集の篠原やほかの出版社も含む顔見知りの編集者の姿があった。他愛のない会話を繰り広げながらも皆どこか緊張した面持ちを見せている。


 食べごろになった湯豆腐を掬い、つけダレと薬味を加えて口へ運ぶ。それなりに名の通った店なだけあって味は美味しい。けれど好物を目の前にしてもあまり箸が進まなかった。どうやら自覚していた以上に夏癸自身も緊張してるらしい。

 時間の経過とともに集まった人たちの緊張の色が濃くなっていく。

 以前、もっと小規模な文学賞にノミネートされたときにも待ち会が行われたが、そのときとは比べものにならないほどの緊張感が漂っていた。

 

 一度手洗いに立った夏癸が席に戻ってから少しして、テーブルの上に置いてあるスマホが着信音を鳴らした。誰かが固唾を呑む。

 見慣れない番号からの着信に一瞬躊躇しつつスマホを手に取り応答する。

 

「はい、日向です。……はい。はい。ありがとうございます」

 

 通話している様子にじっと視線を向けられて居心地の悪さを感じながらも、声だけは落ち着いて受け答えをしていく。通話を切り、一呼吸置いてから口を開いた。

 

「――決まりました」

 

 歓声が上がった。拍手とともに、「やった!」「おめでとうございます!」と集まっていた人たちが次々と口にする。

 礼を言いつつ、緊張感からひとまず解放された夏癸は内心で胸を撫で下ろした。


 記者会見場となっているホテルまではすぐに移動できる距離にある。篠原が早くもタクシーを呼んでいて、数分ほど待っただけでやってきた車に乗り込み、会場となるホテルへと移動した。 

 

 ***

 

 いざそのときになると緊張しすぎて何を話したのかよく覚えていない記者会見を終え、その後も挨拶やら軽い集まりやらを終え、帰宅したときには午後十一時近くになっていた。

 

 さすがに疲れた。早く布団に入りたい。けれどシャワーで済ませたくはなかったので浴槽に湯を溜める。入浴を済ませ、ドライヤーで髪を乾かすのはそこそこに自室へ入ると、畳の上に置いていたスマホが震えていた。

 画面に表示されているのは「非通知」の文字。普段だったら出ようとは思わないが、誰からの電話なのか、考えなくてもすぐにわかった。

 

「もしもし、茜?」

 

 声を出した途端、電話の向こうで小さく息を呑む気配がした。ほんの少しだけ震えた声が返ってくる。

 

『っ、なんですぐわかったんですか……?』

「わかりますよ。どうしました? 眠れないんですか?」

『……うん。あ、あのね』

 

 茜が電話をかけてきた理由はなんとなく察しがついていた。彼女は少しだけ躊躇う様子を見せたものの、小さな声で話してくれた。

 

『実は、昨日……お、おねしょ、しちゃって。今日もしちゃったらどうしようって思ったら、全然、眠れなくって』

 

 どうやら夏癸の心配は的中していたらしい。慣れない場所で粗相をしてしまって、さぞや動揺したことだろう。その様子は想像に難くない。今夜も不安になり夏癸のことを頼って電話してきた茜のことを想うと、自然と声音が柔らかくなった。

 

「大変でしたね。それは眠るのも怖くなっちゃいますよね」

『うん……急に電話しちゃってごめんなさい』

「構いませんよ。昨日は片付けとかなんとかなりました?」

 

 気がかりなことを訊ねてみる。昨夜のホテルの部屋は柚香となずなと一緒だったはずだ。あの二人ならば茶化すようなことはしないと思うが、どのように対処したのかは気になるところだった。

 

「うん。柚香ちゃんが先生呼んできてくれてね――」

 

 茜の声音が少しだけ明るくなった。養護教諭の榎本が対応してくれたと聞いて安心する。

 

「それならよかった」

 

 物理的な面ではいま現在の夏癸は手助けをしてあげられないので、汚したベッドや衣服の処理を茜が一人で抱え込んでいなくてよかった。精神面のケアなら電話越しでも役に立てる。いつも以上に優しい声になるように意識して、夏癸は言葉を続けた。


「どうしても部屋で寝るのが心配でしたら、保健室に行っていいんですよ。先生もそう言っていたんでしょう?」

『……でも、迷惑にならないかな』

「大丈夫。茜が安心して眠れることのほうが大事ですよ」

『そっか……ありがとう、ございます』

 

 不安を取り除いてあげられただろうか。そう思っていると、茜はふいに「あっ」と慌てた声を上げた。一体どうしたのか。

 

「茜?」

『あ、あの、受賞おめでとうございます!』

 

 そのことか、と納得する。夏癸が直林文学賞を受賞したことはすでに報道されているので、茜の目にも入ったことだろう。

 

「ああ、ありがとうございます。もしかして、テレビ見ました?」

『うん。夏癸さん映ってて、びっくりしちゃった』

「ちょっと恥ずかしいですね。変なこと言っていませんでしたか」

 

 記者会見で何を喋ったのかはほとんど記憶にないが、わざわざネットニュースなどに上がっている動画を確認してはいない。物凄く緊張しながら喋っていた様子を茜に見られていたと思うと、ちょっと、どころではない羞恥を覚えた。声には滲ませないけれど。

 

『全然、そんなこと……かっこよかったですっ』

 

 茜の弾んだ声のあとに、小さなあくびが聞こえた。思わず笑みがこぼれる。どうやらちゃんと眠気がきたらしい。「眠れそうですか?」と優しく問いかける。

 

『うん、たぶん……。夏癸さんの声聞いたら、安心しました』

「それならよかったです。じゃあ、おやすみなさい」

『うん、おやすみなさい』

 

 夏癸からは通話を切らず、茜のほうから切ったのを確認してスマホを耳から離した。

 帰宅した直後に感じていた疲労感が不思議と抜けていた。夏癸の声を聞いて安心したと茜は言ってくれたが、それは夏癸も同じだった。茜の声を聞けて喜びを感じている自分がいる。粗相をして不安な思いをしただろうが、頼ってもらえたことが嬉しい。

 

 もう日付が変わっているので、今日の夕方には茜が帰ってくる。そのことを楽しみに思いながら夏癸は布団に入ったのだった。

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