甘く冷たいバレンタイン③

 柚香に手を引かれながら小さな歩幅で歩いていた茜が急に立ち止まったかと思うと、急に激しい水音が聞こえてきて面食らった。

 ――茜が、おしっこを漏らしている。

 そんな姿を直接目にするのは小学生以来のことだった。目を背けてあげるべきなのだろうが、なぜか身動きを取ることができなかった。

 

 小刻みに身体を震わせる茜の足元には水溜まりが広がっていく。水溜まりは、地面に吸い込まれていき、じわじわと土の色を変えていった。

 水音は十数秒ほどで止み、柚香の耳に届くのはいまにも泣き出しそうな茜の呼吸音だけになっていた。俯いている彼女の表情を読み取ることはできない。

 

(ど、どうしよう……)

 

 茜の片手を掴んだまま、柚香は狼狽した。

 タイツもスカートも靴も、ぐっしょりと濡れてしまっている。このまま家まで歩いて帰ることは難しいだろう。人通りの多い道を通ることは避けられない。

 

「あ、茜、大丈夫? えっと、とりあえず、トイレ行く? このままここにいるのもあれだし、ね?」

 

 声をかけてみるが、反応はない。茜は俯いたままだ。

 

「やっちゃったものは仕方ないよ。あたししか見てないし、ね、大丈夫だから」

 

 何がどう大丈夫なのだろうかと自分でも疑問に思いながら言葉を重ねる。茜が柚香の前で粗相をするのはこれが初めてではないのだけれど、久しぶりなので戸惑ってしまう。

 林間学校のときにもジャージを濡らした彼女に遭遇したが、あのときはトイレの個室で間に合わずに漏らしてしまったようだし、柚香が着替えを持っていったらなんとかなったのでいまとは状況が違う。

 

「茜、ほら、行こ」

 

 とにかく、このままここにいて誰かに見られてしまったら可哀想だ。

 少し強引に腕を引くと、茜は抵抗することなく足を動かしてくれた。相変わらず下を向いたままで、顔は上げてくれない。ただ、声を押し殺したような嗚咽が、微かに聞こえた。

 トイレに足を踏み入れて茜の手を離す。さて、どうしよう。

 茜は俯いたまま、ぐすぐすと泣きじゃくっていた。床にぽたぽたと雫が落ちている。

 

(タオルもなにも持ってないし……ちょっと遠いけどコンビニで買ってきて……あーでもお金あんまり持ってない! タオルっていくらするんだろう? ていうか着替えないと帰れないか……)

 

 そもそも泣いている茜を放っておいてこの場を離れるわけにはいかない気がする。柚香は必死に頭を悩ませた。

 

(……あ、そうだ! 日向さんに迎えに来てもらおう!)

 

 我ながらいいことを思いついた、と顔を輝かせる。

 だが彼の電話番号がわからない。茜なら知っているだろうが、いま訊いて大丈夫だろうか。だめな気がする。

 柚香はスマホを取り出すと、電話帳から『茜 自宅』と書かれた番号を呼び出した。固定電話には普段は滅多にかけることがないが、念のために登録しておいてよかった。数回のコール音で通話が繋がる。

 

『……もしもし?』

「あっ、もしもし、日向さんですか? あたし、あの、河野柚香です! 茜が、あの、いま、ちょっと……」

 

 一瞬の間を置いて、小声で囁く。

 

「おもらし、しちゃって……迎えに来てもらうことってできませんか?」

『ああ、すみません、迷惑をかけましたね。連絡してくれてありがとうございます。すぐに行きますね』

 

 聞こえてきた声に安心する。ありがとうございます、と言ってから、果たしてこの場所がわかるのか不安になった。


「あっ……でもあの、場所、わかりませんよね……? なずなの家のほうの公園なんですけど」

『大丈夫ですよ。位置情報でわかりますから』

 

 どうやら茜のスマホと位置情報を共有しているらしい。中学の入学祝いに買ってもらった柚香のスマホも母によって同じ設定がされている。

 

『場所わかりましたので、すぐに行きますね。少しだけ待っていてください』

「はい。お願いします!」

 

 手短に会話を終えて、通話を切る。柚香はほっと息をついた。

 あまり物怖じしない性格だと自分でも思っているが、友達の保護者に直接連絡を取るのは少しだけ緊張した。

 

「柚香ちゃん……夏癸さんに電話したの……?」

 

 ずっと黙っていた茜がふいに口を開いた。涙でぐしゃぐしゃになった顔をおずおずと上げる。

 

「うん。ごめん、勝手に電話して」

「ううん……ありがとう」

 

 涙の混ざった声で、茜は小さく呟いた。

 

「ごめんね、迷惑、かけちゃって」

「べつにいいけど……。でも、トイレ行きたいならなずなのうちで行っとけばよかったじゃん」

「ごめんなさい……おうちまで、我慢できると思って……」

「我慢しようとしないの! ていうかできてないし」

「ご、ごめんなさい……」

「ああもう、泣くことないでしょ!」

 

 再び顔をくしゃくしゃにする茜に慌ててしまう。

 中学生になってこの手を失敗はあまりしなくなったのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。電話をしたときの夏癸の反応は、なんだか、慣れている、という感じだった。

 小学校に入学して初めて会ったときから、茜は同年代のほかの子と比べるとトイレの失敗が多い子だった。

 学校の帰り道とか、トイレの個室とか、遊びに来た柚香の家とかで、おもらしをしてしまう茜には何度か遭遇してきた。授業中にも、確か一度だけ。

 

 トイレって、言えばいいのに。なぜか人前ではなかなか言えないらしい。

 最初は席が近かったからという理由で柚香から話しかけて仲良くなったのだが、おっとりしていて恥ずかしがり屋の茜からはなんとなく目が離せなかった。粗相したときに慰めたりフォローしたりするのはいつの間にか自分の役目になっていた。

 不思議と、汚いとか、嫌だとか思ったことはなくて、ただ、泣きじゃくっている茜のことが放っておけなくて、早く泣き止んでほしかった。泣いているより、笑顔でいてくれるほうがずっといいと思うから。

 

 泣いている茜をなんとか落ち着かせて、とりあえず濡れている手だけ洗わせて、夏癸が到着するのを待つ。

 十五分とせずに、見覚えのある車が公園の入口に止まった。ハザードランプをつけた車から夏癸が降りてくる。

 

「日向さん来たよ。あたし呼んでくるね」

「う、うん」

 

 茜は恥ずかしそうに頷いた。こんな姿を保護者の男性に見られたくはないのかもしれない。トイレから出た柚香が駆け寄ろうとすると、夏癸はすぐに気付いてくれた。

 

「ああ、柚香ちゃん。すみません、茜がご迷惑を。茜は?」

「トイレにいます。あの、茜のこと、叱ったりしないであげてください」

「……ええ。大丈夫ですよ」

 

 思わず頼むと、夏癸は微かに目を見開いて、それから柔らかく笑みを浮かべた。

 

「茜」

 

 女子トイレの入口で夏癸が声をかけると、所在なさげに立ち尽くしていた茜はびくりと肩を震わせてこちらを振り向いた。

 

「な、夏癸さん……あの、ごめんなさい……」

「大丈夫ですから。ほら、中で着替えておいで」

 

 おずおずと歩み寄ってきた茜に、夏癸は優しい表情を向ける。茜は小さく頷き、着替えの入ったバッグを受け取った。そのまま個室に向かおうとする茜に慌てて声をかける。

 

「あ、茜、そっちのバッグ! あたし持ってるよ」

「あ……うん。ありがとう」

 

 茜はのろのろと手を伸ばして柚香にトートバッグを預けた。大事なチョコが入っているのだから、万が一、汚してはいけない。

 トイレから出て茜が着替え終わるのを待つが、夏癸と二人きりになることなど初めてなので、なんだか間が持たない。何か喋ったほうがいいのかなと悩んでいると、夏癸のほうが先に口を開いた。

 

「待っている間、寒かったでしょう? なにか温かいものでも飲みますか?」

「は、はい」

 

 すぐ近くにある自販機の前に移動する。何がいいか聞かれて、ホットレモネードを買ってもらった。ペットボトルの温かさが冷えた指先を温めてくれる。

 

「ありがとうございます」

 

 口をつけると、温かいレモンの風味と優しい甘さが身体を内側から温めてくれた。レモネードをちびちび飲んでいると、着替え終わった茜がトイレから出てきた。

 

「茜もなにか飲みますか?」

 

 夏癸が訊ねたが、茜は首を振って応えた。

 

「じゃあ、帰りましょうか。柚香ちゃんも、送っていきます」

「あ、はい。……あの、すみません、帰る前にあたしもトイレ行ってきます!」

 

 寒いところで待っていたからか、柚香自身もいつの間にか尿意を催していた。

 柚香は預かっていたトートバッグを茜に返すと、慌てて個室に駆け込んだ。


 ***


 柚香をマンションに送ってから、家に帰ってきた。車の中で、茜は一言も口を開けなかった。柚香にも夏癸にも迷惑をかけてしまったことで、深い自己嫌悪に陥っていた。

 なずなの家を出る前に、ただ一言、トイレに行きたいと言えばこんなことにはならなかったのに。

 

「冷えてしまったでしょう。もうお風呂に入りますか?」

 

 家に入りながら夏癸に訊かれて、小さく頷く。タオルで身体を拭いて濡れた服を着替えたけれど、肌にはまだ不快感が残っていた。早くお風呂に入って洗い流したい。

 

「準備しますから、こたつで待っていてください」

 

 洗面所で手洗いうがいだけを済ませて、促されるまま居間に行く。腕の中に抱えていた汚れた衣服を入れたバッグは、いつの間にか取り上げられていた。

 膝を抱えてこたつに潜り込む。夏癸へのチョコを入れたトートバッグは、無造作に畳の上に放ってしまった。

 ぼうっと座っていると、ことん、と目の前にマグカップが置かれた。仄かに甘い香りがする。カップを覗き込むと、ホットミルクが湯気を立てていた。

 

「どうぞ。温まりますから」

「……ありがとう、ございます」

 

 小さく呟いて、両手でカップを包み込む。そっと口に運ぶと、蜂蜜の入った温かいミルクの優しい味が舌に広がった。

 ホットミルクをゆっくり飲んでいると、しばらくして風呂の用意ができたと呼ばれた。

 洗面所の鏡に映る自分は、泣き腫らした酷い顔をしていた。それでも、身体を洗い流して温かいお風呂にゆっくり浸かると気持ちが落ち着いた。

 濡れた髪をしっかりと乾かして、部屋着に着替えて居間に顔を覗かせる。夏癸は、こたつに入って文庫本のページをめくっていた。茜に気付いて視線を上げる。


「落ち着きました?」

「はい……あの、迷惑かけちゃって、ごめんなさい」

「迷惑だなんて思っていませんよ。柚香ちゃんが連絡してきてくれてよかったです」

「うん。……夏癸さん、あの、これ」

 

 茜は部屋の隅に置いてあったトートバッグからラッピングしたチョコを取り出し、夏癸におずおずと差し出した。

 

「今日、バレンタイン、なので。ガトーショコラ、みんなで作ったんです。いつもありがとうございます」

 

 夏癸の目をしっかりと見て、日頃の感謝の気持ちを込める。頬がじんわりと熱を持った。

 

「ありがとうございます。頑張って作ったんですね」

「はい。ちょっと潰れちゃってる、けど……」

 

 夏癸が受け取ってくれたガトーショコラは、一部分が潰れて形が歪になってしまっていた。帰り道でトートバッグを身体に押しつけてしまったせいだろう。

 

「食べられるから大丈夫ですよ。夕飯のあとに一緒に食べましょうか」

「はい……」

 

 しょんぼりと項垂れてしまう茜だが、夏癸は本当に喜んでいるように見える。今日は色々とやらかしまったけれど、喜んでもらえたなら、よかった。

 柔らかな夏癸の表情を見ながら、茜もほっとして表情を和らげた。




                                END

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