甘く冷たいバレンタイン②

「ここだよー」

 

 階段を上ってすぐのところにある部屋のドアを開く。なずなの部屋は、アースカラーを基調とした落ち着いた雰囲気のある室内だった。きれいに整理整頓されている。

 折り畳み式の丸テーブルに柚香が運んできたトレイを置く。二人分の荷物を入口付近の片隅に置きながら、茜の視線は思わず本棚に向いてしまった。ハードカバーの単行本に文庫、漫画など幅広いジャンルの本が収納されている。柚香も興味津々な様子で、本棚の前に膝をついていた。

 

「あ、『君恋キミコイ』持ってるの!? 読んでいい?」

「いいけどあとにしなよ、紅茶冷めちゃうよ」

「はーい。あー! 『結羅ユイラのキズナ』もある! なずなってこういうのも読むんだ!?」

「あぁ、それお兄の」

「なずなちゃん、お兄さんいるの?」

 

 彼女から兄弟の話を聞いたことはなかったから、てっきり一人っ子だと思っていた。

 

「うん、まあ。いま一人暮らししてるんだけどね。その漫画、私も好きだから置いといてって頼んだの」

「へぇー。あたしも『結羅』好きだよ。なずなって小説ばっかりで、漫画は読まないのかと思ってた」

「面白い本ならわりとなんでも読むよー。それより食べようよ」

「うん。いただきまーす」

 

 テーブルを囲んで腰を下ろし、マフィンカップに手を伸ばす。一口食べると、しっとりとした濃厚なチョコレートの味が口の中に広がった。けれど甘すぎるということはない。食べやすい味になったのではないだろうか。

 

「結構おいしくない?」

「そうだねー」

「うん。ちゃんとできてよかったぁ」

 

 茜は安心して胸を撫で下ろした。この出来栄えなら夏癸にも自信を持って渡せる。

 紅茶を口に含むと、アールグレイの風味がガトーショコラの味を引き立たせてくれる気がした。

 

「……そういえば、二人は誰かにチョコあげるの?」

 

 ふと訊ねてみると、柚香もなずなも首を横に振った。

 

「べつに。お母さんにあげようかなーってくらい。もう一個は自分で食べる」

「私も……お父さんとお母さんにあげようかな。ほかに渡す人いないし」

「お兄さんにはあげないの?」

「んー、わざわざ渡しに行くのも面倒だし」

 

 それからはなずなの部屋で他愛のないおしゃべりをしていて、気付けば時間は十六時半を回っていた。

 

「わたし、そろそろ帰らないと……」

 

 夏癸からは暗くなる前に帰ってくるように言われている。それに、あまり長居しすぎてもなずなに迷惑かもしれない。

 

「あ、じゃああたしも。……なずな、これ続き借りちゃだめ?」

「いいよ。汚さないでね」

「もちろん!」

 

 柚香は話しながら読んでいた少女漫画の続きが気になるらしい。なずなは苦笑しつつも承諾して、漫画数冊を紙袋に入れて手渡した。

 

「あ、食器とか片付け……」

「いいよいいよ、私やるから」

 

 促されるままに腰を上げて帰り支度をする。なずなはトレイを持って部屋を出た。

 

「『君恋』ドラマ見てるけど、漫画も面白いね。結構話違うし」

「そうなんだ」

「なずな、見てないの?」

「その時間塾なんだー」

「録画して見たら?」

「うーん、なんかそこまでしなくていいかなって」

 

 二人の会話をなんとなく聞きながら階段を下りていく。茜はドラマも見なければ漫画もほとんど読まないので会話に入れない。見れば楽しめるのかもしれないけれど、やっぱり活字のほうが好きなので家にいるときは小説ばかり読んでいる。

 

(……どうしよう、またトイレ行きたくなっちゃった)

 

 茜はふと顔を曇らせた。下腹部には確かな重さを感じていた。

 一度手洗いに立ってから時間が経っているし、紅茶も口にしたので当然と言えるかもしれないが、一度の来訪で二回もトイレを借りるのはやはり気が引けてしまう。

 なずなは途中でキッチンに寄って食器を載せたトレイを置いてきたが、彼女に声をかけるタイミングが掴めずに玄関まで来てしまった。

 帰る間際になってトイレに行きたいと口にするのは、どうしても恥ずかしくて声に出せない。

 

(おうちまで我慢しよう。二十分くらいだし)

 

 家まで我慢しようと決めて、茜は靴に足を入れた。まだそんなに切羽詰まっているわけではないから、きっと大丈夫だ。

 

「じゃあねー」

「なずなちゃん、またね」

「うん。また学校でねー」

 

 玄関で見送ってくれたなずなに軽く手を振って、柚香と二人で外に出る。

 屋外に出た瞬間、冷たい風が肌を撫でた。ぶるり、と一瞬身体が震える。

 

(さ、寒い……どうしよう、我慢できるかな……?)

 

 不安に襲われてしまうが、今更引き返してトイレを借りに行くことなどできない。

 きゅっと唇を引き結んで、茜は足を踏み出した。

 しかし、家まで我慢するという決意は、十分もしないうちに折れようとしていた。


(おしっこ、したい……どうしよう、すっごくしたい。我慢できないかも……だ、だめ、ちゃんと、我慢しないと)

 

 歩き始めて幾何かもしないうちに、茜の膀胱は限界を訴えてきた。

 冷えてしまったせいか、急激に尿意が強まっていた。

 下腹部の重さが一気に増して、時折身体に震えが走る。気を抜くと止まってしまいそうになる足をなんとか懸命に動かしていた。

 隣を歩く柚香は何かを話しかけてくるが、話の内容が耳に入らず生返事ばかりしてしまう。

 

「……茜、どうしたの?」

「え?」

「なんか、さっきからヘンだから」

 

 柚香に心配そうに声をかけられて、ぎくりと肩が強張る。

 なんでもない、と応えようとした瞬間、ぞくぞくと背筋に震えが走って思わずスカートの前に手を伸ばしてしまった。足を止めて、ぎゅっと内股の間を押さえつける。

 

「えっ、茜、トイレっ?」

 

 柚香の驚いた声に訊ねられて、否定できずに小さく頷く。

 

「えー、なんで早く言わないの!? なずなのうち戻る?」

「む、むり……そんなに歩けない……」

 

 茜は押さえる手に力を込めながら、震える声で呟いた。ぎゅうっと押さえつけて我慢しているつもりなのに、おしっこの出口がじんじんと痺れるような感じがして我慢できているのかよくわからなくなる。歩いてきた距離を戻ることなど、とてもできるとは思えなかった。


「そんなこと言われても、コンビニもなにもないし……」

 

 柚香は困ったように周囲を見渡した。人通りのない閑静な住宅街。近くにあるのは民家ばかりで、トイレが借りられそうなコンビニも商店も見当たらない。

 

「どっかの家でトイレ借りる? あたしが頼むから」

「で、でも、もし怖い人だったりしたら……」

 

 柚香の提案に、茜は強い尿意を堪えつつ涙目で応えた。見知らぬ人の家でトイレを借りるなんて、怖いし恥ずかしいしできない。

 

「え~……あ、そうだ、公園! 来る途中にあったよ、確かトイレあったし。そこまで行ける?」

「が、がんばる……」

 

 小さく頷く。なずなの家に行く道中で公園を見かけたことは茜にも覚えがあった。確か、トイレらしき建物があったことも。この近くだったはずだ。公園のトイレはあまり使いたくないけれど、いまはそうも言っていられない。

 

「じゃあ頑張って! ゆっくりでいいから」

 

 柚香に片手を引かれて、茜はよたよたと歩き出した。一歩ずつ、慎重に。足を踏み出すたびに、お腹がたぷんと揺れるように錯覚してしまう。

 

(うぅ、でちゃう……だめ、まだだめ……)

 

 すり足のようにほんの少しずつ歩みを進める。強い波に襲われるたびに、足を止めてぎゅっと太腿をきつく寄せる。手でしっかりと押さえているはずなのに、いつの間にか下着には微かな湿り気を感じていた。しゅ、しゅう、と少しずつ熱が広がっていく。

 

「茜、公園見えたよ! ほらあそこ!」

 

 いつの間にか俯いていた顔を上げると、視線の先に小さな公園が見えた。入口付近にはトイレと思しき小さな白い建物がある。

 あと、ほんの少しだ。

 これ以上の決壊は防ごうと、茜は必死に指先に力を込めた。痛いくらいにぎゅうっとスカートを押さえつける。

 少しずつ足を進める。けれど、公園に足を踏み入れた途端、ぷつんと何かの糸が切れたかのように下肢の力が抜けた。

 しゅう、と熱い水が手のひらに広がる。息を呑んで、茜は足を止めた。

 

「茜!?」

「ごめ、なさ……」

 

 しぃぃぃぃぃ、びちゃびちゃ……。

 手のひらを濡らした熱い奔流は、滝のように脚の間を流れ落ちていく。激しい水音が地面に叩きつけられ、足元を色濃く染めていく。目の前に広がる光景を見ていたくなくて、茜は思わずぎゅっと目を瞑った。

 どんなに力を込めても、我慢していたおしっこは止まらない。水音が鳴り止むまで、茜はただ身を硬くして立ち尽くしていた。

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