甘く冷たいバレンタイン①
※茜が中学一年生の頃のバレンタインのお話。
チョコレートの甘い香りが鼻先をくすぐる。
「ねー、湯せんってこのくらいでいいの?」
隣に立つ柚香に袖を軽く引かれ、茜は慌ててハンドミキサーを止めた。音がうるさいため、何と言ったのかよくわからなかった。
「えっ、なぁに?」
「湯せん。これで大丈夫?」
「ちょっと貸して……うん、大丈夫だと思う」
ゴムベラを借りてチョコの溶け具合を確認する。なめらかに溶けているので問題なさそうだ。
「じゃあ、卵黄一個ずつ入れて、泡立て器で混ぜて。そのあとに牛乳ね」
汚れないようにクリアファイルに入れてあるレシピを見せながら説明する。作り方はなずながネットで調べてプリントアウトしたものだ。スマホで見てもいいのかもしれないが、調理中にスマホを頻繁に触るのはなんとなく憚られる。
「はーい。なずな、卵ちょうだい」
「どうぞー」
なずなが取り分けておいた卵黄をボウルに入れる。ゴムベラから泡立て器に持ち替えた柚香を横目に見ながら、茜はハンドミキサーを再び動かしてメレンゲ作りに戻った。
二月十四日、バレンタイン当日の午後。平日ではあるが、先日土曜日に行われた授業参観の振替休日で学校が休みなので、なずなの家のキッチンに集まり三人でガトーショコラを作っていた。
一緒に友チョコを作りたいという柚香の提案に乗ったのだが、なずなが調べたレシピは菓子メーカーのサイトに載っている初心者向けの作り方だったので、この面々でも作るのは難しくはなさそうだ。
茜は小学校三年生の頃から毎年、バレンタインにはチョコレートを使ったお菓子を作って母や夏癸、友達に渡していた。小学生の頃は夏癸が作るのを手伝ってくれていたが、中学生になってから初めてのバレンタインは彼の手を借りずに作りたいと思っていた。どうせなら、何を作るのかも内緒にして驚かせたい。
誰の家で行うか相談したときにそう告げると、なずなが親の許可を取って場所を提供してくれた。
なずなの家に来るのも、友達と一緒にお菓子作りをするのも初めてなので今日をとても楽しみにしていた茜だ。
材料は昨日の放課後に三人で買いに行ってなずなの家に持っていったので、今日も迷わずに来ることができた。翻訳家をしているというなずなの母は今日は家で仕事をしているらしいが、部屋にいるので気にせずキッチンは使っていいと言ってくれた。
茜が泡立てたメレンゲの三分の一をチョコレート生地に混ぜて、なずながゴムベラを握る。が、軽く混ぜたところで彼女は手を止めた。
「……なじませるように、ってどのくらい?」
「えーと……なじむくらい?」
「わかんないよー、茜ちゃん代わって」
「はぁーい」
茜は苦笑しつつゴムベラを受け取った。
生地を混ぜ、このくらいでいいかな、となんとなく思ったところで手を止める。
「柚香ちゃん、小麦粉もらえる?」
「んー。これ全部入れちゃっていいの?」
「うん、大丈夫」
最初にふるっておいた薄力粉を加えて、粉っぽさがなくなるまで混ぜる。残りのメレンゲを半分加え、さっくりと切るように混ぜる。黙々と手を動かしていた茜だが、二人が手持ち無沙汰になっていることに気付いてそっと顔を上げた。
「あの、わたしだけやってていいの……? 二人とも、つまらなくない?」
「え、全然。あたしチョコ刻んで溶かしたし、難しいとこは茜に任せる」
「うん。お願い! 失敗したらやだし」
「それなら、いいけど……」
そんなに難しくないけど、と思いながらも気にせずに生地を混ぜる。二人ともお菓子作りには慣れていないみたいだから、生地を混ぜる工程には苦手意識があるのかもしれない。
残りのメレンゲも全て入れ、混ぜ合わせて、生地の完成だ。
マフィンカップにスプーンで流し込む。これは二人にも手伝ってもらった。
大きい丸型で作ってもよかったけれど、綺麗に切り分けるのが大変なのと、食べやすさを考えてカップケーキのように小さな型に入れるレシピを選んだのだ。
百六十度に予熱しておいたオーブンに入れて、あとは焼くだけだ。
「十五分でいいの?」
「うん。とりあえず十五分で」
なずながオーブンに天板を入れ、時間を設定する。作り方には十五~二十分焼くと書いてあるので、ひとまず十五分で様子を見る。生焼けは怖いが焼きすぎてもいけない。
「焼いてる間に片付けちゃう?」
柚香の言葉に頷いて、使った調理器具をシンクへ運ぶ。
「じゃあ、あたし洗うねー」
「これ使っていいよ」
はりきって袖を捲る柚香に、なずながゴム手袋を手渡す。洗うのは柚香となずなが担当することになったので、茜は洗ったものを拭くことにする。そういえば調理実習のときも、柚香やなずなは調理に参加するより洗い物をしていることのほうが多いなと、ふと思い出す。
「あれっ。なずなちゃん、ふきんどこ?」
「えーとね、ちょっと待って……どこだっけ」
なずなは思案顔でキッチンを物色し始めた。シンク近くのふきん掛けにはかかっていない。調理台周りの引き出しを順番に開けてふきんを捜索するなずなを尻目に、柚香はさっさと洗い物を始めてしまう。
蛇口を捻り、水音が耳に入ってくる。その途端に、茜は下腹部の違和感に気が付いた。
(ちょっと……トイレ、行きたい、かも)
ファンヒーターをつけてはいるが、キッチンは少し肌寒い。厚手のタイツを履いてはいるもののどうしても足元は冷えてしまう。先ほどまでは作るのに夢中になっていたので気にならなかったが、いまは微かな重さをお腹に感じていた。
(なずなちゃんに言おうかな……ちょっと恥ずかしいな。まだ、我慢できるよね。もうちょっと、片付け終わってからにしよう……)
小さい頃から、なんとなく、他人の家でトイレを借りるのが苦手だ。行きたい、とか、貸して、などと口にするのがどうしても恥ずかしくて気が引けてしまう。
もちろん、粗相をしてしまうことのほうが余計に恥ずかしいし迷惑をかけてしまうから、限界になる前に勇気を出して告げるのだけれど。人様の家で失敗をしてしまった経験は、ほんの少し、しかない。
「ふきんあったよー。……どうかした?」
「な、なんでもない。ありがとうっ」
スカートの裾を軽く握って爪先をほんの少し揺り動かしていると、ふきんを差し出した
なずなが訝しげに首を傾けた。慌てて作り笑いを浮かべて受け取り、柚香が洗い終えて水切りラックに置いたボウルや泡立て器、ゴムベラなどを拭き始める。
手を動かしながら、もぞもぞと脚を小さく動かす。一分一秒と時間が経つごとに、余計に行きたくなってくる気がする。蛇口から聞こえる水音が、やけに耳につく。
(早く片付けて、なずなちゃんに、トイレ貸してって言わないと……)
一度尿意が気になると、どうしてもトイレのことばかり考えてしまう。
拭いた食器や調理器具をテーブルの上に運ぶ。しまう場所はわからないのであとでなずなに確認しよう。
踵を返そうとすると、いつの間にか後ろに立っていたなずなに指先でそっと肩をつつかれた。
「茜ちゃん、トイレ大丈夫?」
小声で訊ねられて、かあっと頬が熱くなる。
「あ、あの……」
「廊下出て右の突き当り。行ってきなよ」
「う、うん」
トイレを我慢していることに気付かれた恥ずかしさを感じつつも、声をかけてもらえたことは有難い。教わったとおりにトイレに向かおうとして、茜はエプロンをつけたままなことに気付いて慌てて外した。外したエプロンをどうしたらいいか一瞬悩んでしまう。
「椅子にかけといたら?」
「あ、そうだよね。えと、じゃあ、おトイレ借りますっ」
なずなに指摘され、ダイニングテーブルの椅子にエプロンをかける。そして、そそくさと廊下に出ていく茜であった。
(なずなちゃん、なんでわかったのかなぁ。わたし、そんなに、トイレ我慢してるってわかりやすかった……?)
熱を持つ頬を軽く押さえながら、ぱたぱたと廊下を歩いていく。右の突き当り。教えられた場所に目的とするドアがあったので、ほっとしてドアノブに手をかけた。
他所の家の手洗いを使うのはなぜだか緊張してしまう。そろそろと中に足を踏み入れ、タイツを引き下げて便座に腰を下ろす。お腹にほんの少し力を入れると、溢れた滴がちょろちょろと水音を立てた。
無意識に強張っていた肩から力が抜ける。水音は意外に長く続いた。
あまり水分は取っていないのに、冬はどうしてもトイレが近くなってしまう。学校でも、廊下側の茜の席は冷えるので、日によっては休み時間ごとにトイレに立ってしまうくらいだ。行きすぎかなと気になりはするのだが、下手に我慢して授業中に行きたくなってしまうよりは良い。
授業中にトイレに行きたいと発言するなど、もちろん恥ずかしくてできるわけがない。
用を済ませてしっかりと手を洗ってからキッチンに戻ると、仄かに甘い香りが鼻先を掠めた。ケーキが焼き上がるまであと数分だ。
エプロンをつけ直して後片付けに戻る。二人とも、とくに気にした様子はなく洗い物を進めていた。
「こっち片付けちゃうね」
「あ、うん」
洗い物を終えたなずなが、テーブルの上に置いておいたボウルや泡立て器などを元の場所に戻していく。
「あたしもちょっとトイレ」
「どうぞー。廊下出て右ね」
気軽に声をかける柚香に対して、なずなも軽く応える。キッチンを出ていく柚香を横目で見送りながら、茜はおずおずと口を開いた。
「あ、あの、なずなちゃん」
「ん?」
「あの、わたし、そんなにわかりやすい……?」
「えっ?」
「えっと……おトイレ、我慢してるのとか、色々……」
自分から訊いておきながら、なんだか恥ずかしくなってきてもじもじしてしまう。
トイレを我慢していることも、その他のことも。なずなにはいつも色々なことを見抜かれてしまう気がする。
なずなはほんの少し考えるようなそぶりを見せてから応えてくれた。
「うーんと……わかりやすい、といえばわかりやすいような。でも柚香はあんまり気付いていないみたいだし、気にしなくていいと思うよ。私が色々気にしすぎてるだけかも」
「そう、かな……」
「うん。あ、でも、トイレはあんまり我慢しないほうがいいと思う」
「き、気を付けます……」
「うん。気を付けてね」
なずなは口元に柔らかく苦笑を浮かべた。
いつも夏癸から言われていることだが、友人からも注意されると改めて恥ずかしい。
気を付けている、つもり、ではいるんだけどなと心の中でそっと呟く。どうすれば人前でトイレに立つのを恥ずかしく思わなくなれるのだろう。
一人でこっそり頭を悩ませていると、柚香が戻ってきた。難しい顔をしている茜を一瞥して首をかしげる。
「二人とも、どうかした?」
「な、なんでもないっ」
「なんでもないよ」
取り繕う声がなずなと重なった。
「ふーん。……まあいいや」
柚香は釈然としないという表情をしていたが、それ以上の追及はせず、オーブンに視線を移した。
「そろそろ焼ける?」
「うん。もうちょっとだと思う」
茜はそっと胸を撫で下ろしつつ応えた。オーブンのほうからは甘く香ばしい香りが漂っている。
しばらくすると焼き上がりを告げる音が鳴った。
焼き上がったガトーショコラをオーブンから取り出す。生地はしっかりと膨らんでいる。竹串を刺して焼き加減を確認するが、何もついてこない。きちんと焼けているみたいだ。
「もう食べれる?」
「まだだめだよ。ちゃんと冷まさないと」
「なんだぁ……」
がっかりする柚香に苦笑しつつ、ケーキクーラー代わりの焼き網の上にマフィンカップを並べる。仕上げに粉糖をふるので、ケーキの熱を取らないと砂糖が溶けてしまう。
「冷ましてる間にお茶の用意しよう?」
なずなが電気ケトルでお湯の準備をし、戸棚からティーカップを出してくる。
茜はテーブルの隅に置いていたレジ袋からラッピング用品と紅茶のティーバッグを取り出した。
昨日、ガトーショコラ作りの材料を買いに行ったときに合わせて買ったものだ。せっかくだからと少しだけ高い紅茶を買ってみた。
粗熱が取れたガトーショコラに、茶こしで粉糖を振りかける。九個作ったうち一個ずつは自分たちで食べるので、一人二個ずつをラッピングする。OPP袋に包んでラッピングタイで封をして、完成だ。
「ちゃんと作れたね」
「うん。ラッピングもかわいくできたね」
「ね、早く食べよっ?」
「もう、柚香ってばそればっかり……」
「だっておいしそうじゃん!」
「はいはい。ここで食べる? それとも」
なずなが訊ねると、柚香が勢いよく片手を挙げた。
「はい! なずなの部屋行きたい!」
「……いいよ。じゃあ柚香ちゃん、お茶とか運んでね」
「オッケー」
カップにティーバッグを入れてお湯を注ぐ。アールグレイの爽やかな柑橘系の香りが鼻孔をくすぐった。抽出時間を待ち、ティーカップとガトーショコラをトレイに載せる。
「じゃあ、私の部屋二階だから」
なずなが先に立って歩き、柚香がトレイを持っていく。
茜はダイニングの隅に置いていた自分と柚香の分のバッグと上着、ラッピングしたガトーショコラを入れた紙袋を持って、二人の後をついていった。
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