肌寒い夜には

 滞ることなくキーを叩いていた指がふいに止まった。続く文章を頭の中で考えてみるがすぐには浮かんでこない。今日はここまでにしておこう。小さく息をついて、画面右下の時刻を見るとすでに日付が変わっていた。

 上書き保存をしてテキストエディタを閉じる。シャットダウンの操作をし、ふと顔を上げると隣の部屋に続く襖がほんの僅か開いていることに気付いた。


「……茜?」


 そっと声をかけてみるが返答はない。

 茜は二十一時半には布団に入ったはずだが、目が覚めてしまったのだろうか。それとも。

 夏癸は立ち上がると、そちらに歩み寄り襖に手をかけた。


「……っ」


 襖の陰に隠れていた小柄な身体が、びくり、と身を竦める。夏癸は膝を折ると、俯いている茜の頭に手を伸ばし、そっと髪を撫でた。予想した通り、彼女のパジャマはお尻の辺りを中心にぐっしょりと濡れてしまっていた。


「大丈夫ですよ。着替えましょうか」

「……ん」


 こくん、と小さく頷いた茜の頭をもう一度撫で、夏癸は部屋の明かりをつけた。薄暗かった室内がぱっと明るくなる。部屋の中央に敷かれた布団は掛け布団が捲られシーツが露わになっている。真っ白のシーツは一部を色濃く染めていた。

 慣れた手つきでシーツを剥がす。下にもう一枚敷いてあるシーツも同様に外すと、敷き布団は少しも濡れた様子がなく乾いたままであった。


 ここ三ヶ月ほどは防水シーツの出番がなかったので少し油断していたが、毎晩つけるようにしていてよかったと安堵する。べつに布団を汚してしまったとしても少し手間がかかるだけで洗えば済む話なのだが、茜はきっと必要以上に罪悪感を覚えてしまうことだろう。


 掛け布団も確認するが濡れてはいない。汚してしまっても簡単に洗えるようにと一番下はタオルケットにしてあるが、それも汚れてはいなかった。

 外したシーツは軽く畳んでいったん置いておき、タオルを取り出す。振り返ると、茜は俯いたままぐすぐすと泣いていた。

 夏癸は僅かに苦笑を浮かべながら、膝をついて少女の顔を覗き込んだ。涙でぐしゃぐしゃになった顔をタオルで優しく拭う。


「茜、泣かなくていいんですよ」

「……っ、め、なさ、」


 久しぶりの失敗はやはりショックだったのだろう。嗚咽の混ざった声で小さく謝る茜を落ち着かせてから、濡れたパジャマをタオルで軽く拭ってやった。


「さ、着替えましょう。風邪をひくといけませんから」

「……うん」


 汚れたシーツを小脇に抱え、なんとか泣き止んだ茜の手を引いて一階へ下りる。繋いだ茜の手は、ひんやりと冷たかった。真夜中の廊下は暗く、どこか不気味な雰囲気が漂っている。

 夏癸自身はこの程度の暗闇に恐怖を覚えることはないが、怖がりな茜が怖い思いをしないように廊下の電気をつけながら浴室へ連れていく。シーツはひとまずぬるま湯を張ったバケツに浸けておき、茜に向き直った。


「一人で大丈夫ですか?」

「ん。……待っててくれる?」

「ええ。ちゃんと廊下で待っていますから」


 不安げに見つめてくる茜にはっきりと頷く。茜の表情が少しだけほっとしたものに変わったのを確認してから、夏癸は一人で廊下に出た。

 ほどなくしてシャワーの水音が聞こえてくる。その音を聞くともなしに聞きながら夏癸は静かに考えを巡らせた。

 母親を亡くした直後の茜はほぼ毎晩のようにおねしょをしていたが、段々とその頻度は減っていって夏にはまったくしなくなった。今夜は急に冷え込んだから久しぶりにやってしまったのかもしれない。


 ――茜と二人で暮らし始めて半年が経った。

 初めは落ち込んでばかりいた茜も最近はよく笑顔を見せてくれるようになった。それでも、時々不安定な様子になることもあれば、怖い夢を見たと言って夜中に泣きながら起きてくることもある。布団を濡らすことは最近はなかったものの、昼間の粗相はたまに。


 無理もない。葵が亡くなってから、まだたったの半年だ。十歳の女の子が親の死を受け入れ、立ち直るには多くの時間が必要だろう。夏癸もできる限りのことはしているつもりだが、どこまで彼女の心の支えになれているのか正直自信はない。

 形式上親代わりになれたとしてもあの子が失ったものを完全に埋めることはできない。他人である夏癸に遠慮している面も少なからずあるだろう。それでも、茜が少しでも寂しい思いをしなくて済むように、彼女の傍にいてあげたい。


「……夏癸さん」


 新しいパジャマに着替えた茜がおずおずと脱衣所から出てきた。ぎゅ、と縋りついてきた彼女の頭をそっと撫でる。髪が少しだけ湿っているが、冷えていた身体はすっかり温まったようだ。


「髪、きちんと乾かしましょうか」


 頷いた茜を再び脱衣所に連れていき、ドライヤーをあてる。軽く湿っていただけの髪はすぐに乾いた。ドライヤーを片付けてから、夏癸の寝間着の裾を握ったままでいる茜に視線を合わせた。今日はなんだか、以前に粗相をしたときよりも落ち込んでいる気がする。


「怖い夢でも見ましたか?」


 優しく訊ねると、茜は小さく首を振った。


「こわい夢、じゃ、ないけど……」

「ん?」

「おトイレ行きたくなる夢……」

「ああ、そうだったんですね」


 小さく呟いた茜の声に、思わず苦笑が零れてしまう。恥ずかしそうにしている茜に慌てて言葉を重ねた。


「気にしなくていいんですよ。大人でも、そういう夢を見てやっちゃう人もいるみたいですから」

「夏癸さんも?」

「……私は、ないですね」


 躊躇いながらも夏癸は正直に答えた。大人になってからどころか、物心がついた頃から昼間も夜も粗相をした記憶はない。もしかしたら覚えていないだけで幼児期以降にもトイレの失敗をしたことがあるのかもしれないが、茜を慰められそうな話は思い浮かばなかった。

 茜はほんの少し不満そうに眉を寄せたが、その表情はすぐに不安げなものに塗り替わった。


「夏癸さん、怒ってない……?」

「怒っていませんよ。どんな理由でおねしょしても、ほかの失敗をしても、茜のことを嫌いになったりしませんから」


 おずおずと問いかけてくる声に、躊躇うことなく優しい声になるよう意識して答えた。

 布団を濡らしてしまったとき、あるいはトイレに間に合わなかったとき。必ずと言っていいほど茜は訊いてくる。怒っていないか、嫌いにならないか、迷惑ではないかと。その度に夏癸は優しく否定するのだが、どうしても不安になってしまうようだ。


 恐らく、粗相が多くて夏癸に見捨てられることを恐れているのだろう。そんなことありはしないのに。

 掃除だとか洗濯だとか、確かに手間のかかることは多いがその程度で彼女の存在を迷惑だなどと思うはずがなかった。こんなに愛おしく思う存在を、手放せるわけがない。

 そっと髪を撫でると、茜はようやく安心したように小さく頷いた。


「さ、もう寝ましょう。明日も学校でしょう?」

「うん。あの、一緒のお部屋で寝ていい?」

「もちろん、いいですよ」


 布団に戻る前に念のためトイレに行くよう促して、用を済ませるのを待ってから二階へ戻った。夏癸の部屋に茜の布団を持っていき敷き直す。新しいシーツを二枚重ねて敷いて、その上にタオルケットと毛布、羽毛布団を重ねる。茜の布団にぴったりとくっつけるように夏癸自身の布団も敷いた。


「寒くありませんか?」


 布団に入った茜に問いかけると、「大丈夫」と返答があった。


「電気、消しますね」


 蛍光灯の紐に手をかけ、照明を落とす。一人で寝るときは部屋を真っ暗にするが、茜はそれだと眠れないというので豆電球の明かりだけをつけておく。眼鏡を外して枕元に置き、夏癸も布団に潜った。


「……夏癸さん、おやすみなさい」

「ええ、おやすみなさい」


 隣の布団から聞こえてきた小さな声に囁き声で返す。

 しばらくして静かな寝息が聞こえてくるのを耳に捉えながら、夏癸も眠りに落ちていった。



 ――翌朝、夏癸が目を覚ますと布団の中に異物感を覚えて一瞬驚いた。思わず隣を向くと、すぐ横に茜の頭があった。目を閉じて微かに寝息を立てている。どうやら、いつの間にか夏癸の布団に潜り込んでいたらしい。

 寒かったのか、それとも寂しかったのか。どちらの理由かはわからないが少なくともいまの茜の寝顔は穏やかだった。夏癸の隣で安心して眠れるというのなら、それに越したことはない。


 念のためシーツが濡れていないか触れて確認してみるが、乾いたままであった。もっとも、もし布団を汚されたとしても洗って干せばいいだけだ。

 枕元に置いてある携帯電話を手に取って時刻を確認すると、設定していたアラームが鳴るより少し早い時間だった。音が鳴らないようにそのまま設定を解除し、静かに布団から抜け出す。茜が起きる時間にはまだ早いので、もう少ししっかりと眠らせてあげたい。

 眼鏡をかけてはっきりとした視界でもう一度茜の寝顔を眺めてから、夏癸は極力物音を立てないように身支度を整えた。


***


 就寝の支度を整えながらもすぐには眠る気にならず、夏癸は布団に入ったままスマートフォンを触っていた。差し迫った締め切りもないことだし、眠る前に電子機器を触るのは良くないとわかってはいるのだが、好きな作家のweb連載が更新されていることに気付いてしまったのがいけなかった。


 更新されていた最新話を読んだあと、読み逃していたインタビューやエッセイを読んでいるうちに気が付けばもう少しで日付が変わる時間になっていた。

 いい加減寝なければとスマートフォンの画面を消す。そのとき、ふいに隣の部屋から微かな物音が聞こえた気がした。


「夏癸さん。まだ起きてますか……?」

「茜?」


 襖の向こうから聞こえた声に返答する。少しして、僅かに開いた隙間から茜がもじもじしながら顔を覗かせた。


「どうしました? ……もしかして、おねしょ」

「し、してません! あの、お布団の中で本読んでたら、トイレ行きたくなっちゃって……」


 ついてきてくれませんか、と続いた声に夏癸は苦笑しつつも腰を上げた。布団に入る前にきちんとトイレは済ませたようだが、時間が経って再び催してしまったのだろう。

 茜と一緒に暗い廊下に出ながらも、たしなめるように口を開く。


「早く寝ないとだめでしょう?」

「ごめんなさい……ちょっとだけのつもりだったんだけど、読み始めたら止まらなくて」

「まあ、気持ちはわかりますけど」


 夏癸も似たようなことをしていたのであまり強く叱ることはできない。

 中学生になっても茜の怖がりなところは相変わらずだ。ぎゅ、と強く夏癸の袖を掴みながら恐る恐るといった様子で足を進めている。

 夜中の廊下はひんやりとしていた。今夜は少し肌寒い。階段や廊下の電気をつけてあげながら、一階のトイレまで一緒に歩いていった。


「待っててくださいね?」

「ええ、大丈夫ですよ」


 トイレの扉を閉める前に念押しする茜に苦笑混じりに返す。ほどなくして、扉の向こうから微かに水音が聞こえてきた。聞き耳を立てるつもりはないのだが、すぐ外で待っているためどうしても耳に入ってきてしまう。

 水を流して出てきた茜は、恥ずかしさのためか頬を染めながらもほっとした表情をしていた。僅かな距離でも一人になるのを嫌がることはわかっているので、洗面所にもついていく。


「一人で眠れそうですか?」

「……たぶん」


 手を洗った茜に訊ねると、自信のなさそうな声が返ってきた。


「眠れなさそうなら布団持ってきていいですよ」

「うん。でも今日は大丈夫な気がします」

「そうですか? それならいいですけど……」


 そんな話をしながら二階へ上がり、部屋の前で別れる。

 自室に戻ってから念のためしばらく待ってみたが、茜がこちらの部屋へ来る気配はなかった。どうやら一人で寝付けたみたいだ。

 成長を感じて嬉しいような少し寂しくもあるような。複雑な気持ちを抱えながら、部屋の明かりを落とし夏癸も眠りに就いた。

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