小旅行に行きましょう④
車に乗り込み、河口湖沿いに少し走り市街地を抜ける。
ところどころ道が混んでいるところもあったが、三十分ほどすると山中湖が見えてきた。視界に広がる湖に目を奪われる。さっき目にした河口湖よりも大きい。対岸が遠く、波も立っているので、湖というよりまるで海のように見えた。
湖畔沿いにしばらく走ると、やがて湖は木々に隠れて見えなくなり森の中のような道に出た。本当にこの先にお店があるのだろうかと少しだけ不安になってくるが、カーナビの案内に従いつつ夏癸は迷わず運転している。
「……」
窓の外を眺めていた茜は、なんとなく下腹部が気になってきて膝を擦り寄せた。外と比べると車の中は寒くはないのだが、足下が少しだけ冷える。美術館を出る前に済ませてきたにもかかわらず、茜の身体は無視できない程度の尿意を催していた。
ちら、と夏癸の横顔を窺う。いま、声かけたら迷惑かな。
口を開くか逡巡していると、茜の視線に気付いたのか、夏癸のほうが先に声を上げた。
「どうしました?」
「あっ……え、えっと、あとどのくらいで着くのかなって」
「五分くらいだと思いますけど……もしかしてトイレですか?」
「ちょっと……でもまだ大丈夫ですっ」
「そうですか? まあどこか探すより、カフェまで行ってしまったほうが早いですね」
声に心配する気配を滲ませながらも夏癸は運転を続けた。
茜は少しだけ顔を俯けた。気付かれてしまった恥ずかしさに顔が赤くなる。
なんだか今日はいつも以上にトイレが近い気がする。足が寒いせいかな。やっぱりタイツを履いてくればよかった。
カーナビの案内通りに道の途中で右折する。注意していないと見過ごしてしまいそうなところに店はあり、狭い駐車スペースに車を止めた。
車を降りて、茜は目を丸くした。
森の中にひょっこり現れたみたいに、大きなきのこのような形をした建物が建っていた。丸みを帯びたデザインの外観はメルヘンチックで可愛らしくて、まるで本当におとぎの国に迷い込んでしまったかのような気持ちになる。
「中に入りませんか?」
思わず惚けていた茜は、夏癸に声をかけられて我に返った。
もっとじっくり見たいし写真も撮りたいところだが、いまは先にトイレに行きたい。
「は、はいっ」
慌てて頷き夏癸のあとについていく。雰囲気に合った木製の扉を開く。カフェタイムになったばかりの店内に客の姿はなく、お好きな席にどうぞと案内された。内装も凝っている。
「すみません、お手洗いは……」
「あちらですよ」
夏癸が訊ねると店の奥にある手洗いを示された。行っておいでと促されるように視線を向けられ、茜は首を竦めるように頷いた。
(わぁっ、トイレまでかわいい……!)
手洗い場のある白い壁にはところどころ窪みがあり、可愛らしい小さな置物が飾られている。
見惚れてしまいそうになるが、尿意を思い出して慌てて女性用のドアを開けた。
用を足してすっきりしてから店内に戻ると、夏癸は窓際の席に座っていた。ステンドガラスの窓も素敵だ。向かいに座り、どうぞと差し出されたメニューに視線を走らせる。
昼食から時間が経っているのでお腹はほどよく落ち着いている。ケーキひとつくらいなら食べられそうだ。迷った末にそば粉のケーキとカモミールブレンドのハーブティーを注文した。夏癸が頼んだのはコーヒーとくるみのタルトだ。
「わぁ……かわいい……っ」
茜は運ばれてきたケーキに目を輝かせた。
フルーツとジェラートが添えられたシンプルなケーキの上には粉砂糖でお店のロゴが描かれている。ハーブティーの入ったガラスのポットとティーカップも素敵だ。
カップにハーブティーを注ぐ。口をつけると、温かな優しい味が口の中に広がった。
最近読んだ小説でカモミールティーが出てきたので、飲んでみたくて頼んでみたのだ。
ハーブティーを飲むのは初めてだが、茜の好きな味でよかった。
ケーキを一口食べる。生クリームと甘酸っぱいコケモモジャムが挟まれた素朴な味は、ほどよい甘さで美味しい。
店内にはゆったりとした空気が流れていた。どこか遠い国にいるみたいだ。
「素敵な雰囲気ですね」
夏癸が小さく呟いた。同意するように頷く。
「来れてよかったです。夏癸さん、ありがとう」
「ええ。私も、茜の喜ぶ顔がたくさん見れてよかったです」
コーヒーに口をつけ、夏癸は穏やかに微笑んだ。
そんな彼の表情を見て、ほんの少し頬が熱を持つ。大切な人と素敵な場所に来られたことを嬉しく思いながら、ゆっくりとお茶を楽しんだ。
***
お茶を味わい、カフェの外観も写真に収めて二人は帰路についた。二度もトイレを借りるのは少し恥ずかしかったけれど、これから車に乗るのだからと念のためにと自分に言い聞かせて、カフェを出る前にトイレは済ませた。
家に着くまではおよそ一時間半。途中で休憩も取ると夏癸が言っていたので大丈夫だろうと安心して車に乗り込んだ。
尿意がなかったので最初のパーキングエリアは素通りした。トイレに行きたくなったら恥ずかしがらずにちゃんと早めに夏癸に言おう。そう心に決めて助手席に座っていた茜だったのだが、最初は快調に走っていた車の速度が次第に落ち、前の車との感覚が狭いものになっていた。何度かブレーキを踏みながらも少しずつ進んでいた車の流れが、やがて完全に止まってしまう。
「……渋滞?」
「みたいですね。事故か何かあったんでしょうか……」
カーナビはこの先に渋滞が続いていることを示している。ラジオからはまだ何の情報も得られない。
茜は服の上からそっと下腹部を押さえた。なんとなく、トイレに行きたいような気がする。まだ大丈夫、なのだけれど。
(どうしよう、言おうかな。でも……)
いま尿意を訴えても夏癸を困らせてしまうだけのような気がする。ひとつ前のパーキングエリアは通り過ぎたばかりで、次のサービスエリアまではまだだいぶ距離がある。
(まだ我慢できるし……もうちょっと近くなったら言おう)
カフェでトイレに行ってからそんなに時間は経っていないし、大丈夫だ。我慢できる。そう自分にいい聞かせて、茜は意識を逸らすように車列の並ぶ窓の外へ視線を移した。
時折のろのろと車が進んでは再び止まる。先ほどからその繰り返しで、サービスエリアにはちっとも近付かない。
(どうしよう……どうしよう……っ)
すっかり下腹部の重さから意識を逸らせなくなった茜は、スカートの布地をぎゅっと握って次第に強くなる尿意に耐えていた。もじもじとさりげなく膝を揺するが、あまり大げさな動きはできない。夏癸にはまだ気付かれたくない。
(なんで、こんなにおしっこしたくなるの……っ! さっきちゃんとトイレ行ったのに!)
やり場のない憤りが胸の中で渦巻く。お茶を全部飲んでしまったからだろうか。でも美味しかったし、残すのはよくないし、途中で休憩するから大丈夫だと思っていた。
ちらっと時計に目を移すと、カフェを出てからそろそろ一時間近く経つところだった。渋滞にさえ巻き込まれなければあと三十分もすれば家に着くというのに、実際は路程の半分も進んでいない。
夏癸はじっと前を見ていて、茜の窮状にはまだ気付いていない様子だった。この渋滞では運転にも神経を使うのだろう。そんな彼に、おしっこが我慢できないなどと言って困らせたくない。
(お願い、はやくついて!)
茜はただ早く渋滞から抜けることを祈るしかなかった。
車はなかなか進まない。時間の経過とともに下腹部の重さは増し、茜を身体の内側から苦しめてくる。
(おしっこ、おしっこしたい……っ、はやく……っ)
茜はぴったりと太股を寄せて、膝を両手でぎゅっと握っていた。本当は手でおしっこの出口を押さえつけたいくらいに尿意が差し迫っているが、そんな仕草をしては夏癸に気付かれてしまうかもしれない。サービスエリアはまだ見えない。
「……っ」
ふいに一際強い波に襲われ、ぶるりと全身が震えた。思わず、お腹を押さえるように前屈みになり、ばたばたと足を動かしてしまう。スカートの上から股間に手を伸ばし、ぎゅうっと押さえつけた。
「茜っ? 大丈夫ですか?」
隣から、驚きの混ざった声が聞こえた。どうしよう、気付かれてしまった。夏癸を困らせてしまう。けれどもう、我慢できそうにない。
茜はもじもじと身体を揺すりながら震える声を絞り出した。
「夏癸さん、ごめんなさい……おしっこ……!」
ずっと堪えていた欲求を口にすると、余計に尿意が高まった気がした。
一瞬、下着に濡れた感触を感じて、それ以上の決壊を防ごうと強く押さえつける。
けれど僅かに濡れた下着は新たな尿意を呼び寄せてしまう。じわじわと下着に熱が広がっていく。お腹が苦しい。早く解放されたい。だけど、漏らしたくない。でももう我慢なんてできない。
「ごめんなさい、でちゃう、我慢できないっ」
茜はもう泣き出しそうだった。しょろ、とまた少し溢れたものが下着を濡らす。掌まで濡れてきているかもしれない。
「茜、大丈夫ですから、落ち着きなさい。汚しちゃっても大丈夫ですから、もう我慢しなくていいですよ」
運転席から優しい声とともに伸びてきた手が頭を軽く撫でて、すぐに離れた。たったそれだけで、緊張していた身体から力が抜ける。押さえていた手を離して、ぎゅっとスカートの裾を握った。
しょろ、しょろと溢れ出したものが内腿を濡らし、お尻の下に熱を広げた。
小さな水音が狭い車内に響く。茜は俯いてぎゅっと目を閉じた。出ちゃってる。温かい。気持ち、いい。
急に聞こえてくるラジオの音量が上がった。夏癸がボリュームを上げてくれたのだろう。彼の気遣いを有り難く思いながらも、頬に集まる熱を抑えることはできなかった。
張り詰めていたお腹がすっかり軽くなり、茜は浅い息を吐き出した。
おずおずと顔を上げると、涙で視界がぼやける。夏癸のほうを向くことはできず、茜は視線を落としたまま「ごめんなさい」と小さく呟いた。
「大丈夫ですよ。それより、気付かなくてすみません」
ラジオのボリュームを下げ、夏癸は優しい声色で言った。いつもと同じで、怒っていないし呆れてもいない。しかし茜は恥ずかしくて情けなくて、ひどく泣きたい気分だった。今日は絶対、失敗しないと思っていたのに。
「ごめ、なさっ……サービスエリアまで、我慢できると、思って、言えなくてっ」
「そうだったんですね。この渋滞では仕方ないですよ、気にしなくていいんですよ」
「……うん」
ぐすぐすと洟を啜りながら、それでも涙を落とすことはなく茜は小さく頷いた。
濡れた下着が肌に張り付いて気持ち悪い。下肢はぐっしょりと濡れてしまったが、座席にはクッションを敷いてあるので車のシートを直接汚しはしなかったのが不幸中の幸いだ。
しばらくすると渋滞は解消され、車の流れはスムーズになった。
休憩する予定だったサービスエリアが近付いてくる。
「サービスエリア、寄りますか? 着替えとか買いましょうか」
「……ううん。あ、でも、夏癸さん寄りたかったら」
「私は大丈夫ですよ。きっと混んでいるでしょうし。でも、またトイレに行きたくなったら我慢しないで教えてくださいね」
「……はぁい」
一応頷いたものの、下半身が濡れたままの姿を人目に晒したくはないので、家に着くまで車から出たくはなかった。
***
結局途中で休憩は取らずに帰ってきたのだが、家が近付くにつれて茜は再び尿意に苛まれていた。水分はまったく摂っていないのに、冷えたせいで催してしまったのだろうか。もじもじと身体を揺すりながら躊躇いがちに口を開く。
「……あの、夏癸さん、ごめんなさい。またおトイレ……」
「家まで我慢できますか? どこか寄りましょうか」
「……我慢、できますっ」
茜は気丈に応えた。我慢できると言うしかなかった。
少しだけ乾いてきたもののスカートはまだびしょ濡れで、この姿ではどこにも寄りたくない。
「わかりました。なるべく急いで帰りますね」
そうは言うものの、既に住宅地に入ってしまったので出せるスピードには限度がある。早く家に着かないかな、と思いながら茜はそわそわと頻りに身体を揺らした。足元は落ち着かなく、小さく足踏みをしたり膝を寄せたりしている。
(もうちょっと、だから……がんばって……)
自分に言い聞かせ、尿意の波になんとか耐える。軽く張り詰めた下腹部は、気を抜いたら決壊してしまいそうで。二度も車の中でおもらしをしたくはないという思いだけで必死に堪えていた。
ようやく家が見えてきて、ほんの少し安堵した途端、ぞくぞくと背筋に震えが走った。
「や、ぁっ……」
太腿をきつく寄せて、その間に手を差し込む。もうちょっとだから、まだだめ。
「茜、着きましたよ」
家の敷地に車を入れて、エンジンを止める。けれど茜は動くことができなかった。いま動いたら、ぴんと張り詰めたものが切れてしまいそうで。
夏癸が車を降りて、外から助手席側のドアを開けた。
器用にシートベルトを外し、抱き寄せるように車から降ろされる。地面に足をつけた瞬間、ふっと身体から力が抜けた。
じゅわっと下着に熱が広がる。
「あっ、や、ぁ、だめぇっ……」
必死に下着を押さえつけながら、夏癸の腕をすり抜けて茜はその場にしゃがみ込んだ。
びちゃびちゃびちゃ。
押さえた指の隙間から流れ落ちた水流が地面に落ちていく。茜は顔を真っ赤に染めて、足元に広がる小さな水溜まりをただ見ていることしかできなかった。
「は、ぁ……っ」
短い水音が止み、小さく息をついた。ぶるり、と寒気に身体が震える。また、漏らしちゃった。
「家までよく我慢しましたね。冷えてしまったでしょう? 早く中に入りましょうか」
傍らにいた夏癸が膝を折り、よしよしと頭を撫でた。優しい手つきに、堪えようと思っていた涙が堪えきれなくなる。ふっ、と嗚咽が零れると、もう止まらなかった。
「ごめ、ごめっ、ん、なさ……っ、うぇぇ……」
「ああ、ほら、泣かない泣かない。大丈夫ですから、ね、家に入りましょう?」
夏癸は苦笑を浮かべつつ茜を立たせて、家の中に入らせた。慰められながら浴室へ連れていかれる。スカートから落ちた水滴がぽたぽたと廊下に落ちていった。
「っ、ごめんなさい、あのっ、掃除っ」
「私がやりますから、大丈夫ですよ。早く着替えておいで」
嗚咽を飲み込みながら口を開いたが、有無を言わさぬ様子で着替えを促された。
雑巾を持った夏癸が脱衣所を出ていく。茜はぐすぐすと泣きながら汚れた衣服を脱ぎ捨てた。せっかくおしゃれしたのに、汚してしまった。
――熱いシャワーを浴びて服を着替えると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
しかし鏡に映る泣き顔を見ていると、せっかくの楽しい旅行だったのに、また夏癸に迷惑をかけてしまったと自己嫌悪感がじわじわと湧き上がってくる。
髪もしっかり乾かしてから居間に顔を覗かせると、夏癸がココアを淹れてくれた。マグカップを受け取り、温かいミルクココアに口をつける。
「落ち着きました?」
向かいに腰を下ろした夏癸に顔を覗き込まれる。茜は小さく頷いた。
「はい。……あの、ごめんなさい」
「茜が謝ることじゃないですよ。最後に嫌な思いさせちゃいましたね」
そう言う夏癸の声は優しくて、また泣きそうになってしまった。鼻の奥がつんとする。
「わたし……今日、夏癸さんに迷惑かけないようにしようって、思ってて」
「そうだったんですね。今日の茜が頑張っていたの、ちゃんとわかっていますよ」
夏癸が眼鏡の奥の目を柔らかく細める。伸ばされた手が、茜の髪を優しく撫でた。
「旅行、もう行きたくないですか?」
ぶんぶんと首を横に振る。
「……行きたい、です。今日、楽しかったから」
「じゃあまたどこかに行きましょう。ね?」
穏やかな低い声で紡がれる夏癸の言葉に、茜は小さく頷きを返した。
END
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