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 今、確かに名前で呼ばれた。

 声音こわねを変えた娘の悪戯だろうと勘繰りながら室内を見回してみる。どことなく見覚えのある空間が広がっていた。

「ここは……」

 ──私の実家だ!

 しかも、建てかえられる前の木造平屋の茶の間の風景だった。ずいぶんと古い佇まいは郷愁を誘い、胸を締めつける。

 西日が深く差し込んで窓枠の影を畳に落とした。

 ──どういうこと!

 放心している私の耳が微かな衣擦れをとらえた。気配をたどって視線を台所へ向けると、誰かが鼻歌交じりに夕食の支度をしていた。じっと後姿を見つめる。

 ハッとしてその背に向かって呼びかけた。

「お母さん!」

「お腹すいた? もうすぐできるから、手、洗ってらっしゃい」

 ──こんなことって……?

 混乱しつつも、勝手に足は動いて茶の間に接する六畳間の畳を踏んでいた。思わず片隅に目が行く。マンションのリビングに据えられたはずの母の鏡台が鎮座していたのだ。さっきまで私と娘の姿を映していた。

 引きつけられるようにそちらへ移動し、鏡台の前に膝をつく。鏡に映し出された姿に息を呑み、とっさに立ち上がって全身を確認してみる。

 少女が立っていた。身にまとった真っ青なワンピースは、私の小学校入学式の折りに着用した晴れ着だ。母が縫ってくれた。今はマンションの寝室のタンスに宝物として大事に仕舞ってあるはずの……。

 目前の少女を見つめるうち、あの日の感情が怒涛のように全身を駆け巡り出した。嬉しくて嬉しくて胸がときめき、心は真っ赤に熱く染め上げられ、興奮はおさまらず、帰宅しても晴れ着のまま過ごしたのだ。鮮明な記憶の中に母の笑顔があった。母の眼差しが、喜びを増幅させ、はち切れんばかりの幸福感に、幼い心は優しくなった。

 再度、私の名を呼ぶ母の声が、時空を飛び越え、耳に届いた。

「はーい!」

 居ても立っても居られず、鏡台の前を離れ、一目散に台所へ飛び、母の横にベッタリと寄り添って母を見上げる。

「待ってて、これ焼いたらおしまいだからね」

 母はチラリと柔らかな眼差しをこちらに落とした。とたんに、胸底の凍え切ったわだかまりは溶け、私は虜となって、母のムスメに戻ってしまった。

 母はボウルに卵を三つ割り落とし、砂糖、醤油、最後に顆粒和風ダシを適当に入れ、サイバシでかき混ぜ始めた。

 私の大好物の玉子焼きだ。普段、弁当に入れる時などは、私の好みに合わせ、塩のみであっさりめに仕上げてくれる。が、今日は入学式当日のお祝いとあって、少々豪勢な味付けのようだ。何の変哲もない市販の調味料に過ぎないのに、母の手にかかると、絶妙な味のダシ巻き玉子に変貌する。これがめっぽう美味い、母の味だ。

 撹拌し終えると、既に火にかけられた玉子焼き専用の四角いフライパンに一気に流し込んだ。ジュワーッと耳触りの良いリズムを取りながら油が弾ける。手際よくサイバシでグルグル全体をかき回しながら少しずつ固まってきた。

 私はサイバシを長い脚に見立て、舞台で舞う踊り子を想像する。

 半熟状態である程度しっかりしてきたら、フライパンを上下に振りつつ、向こう側から手前へと三つ折りに畳むように巻き込んで形を整えてゆく。フライパンを一度だけ煽ってサイバシでクルリと玉子焼きを引っ繰り返した。

 ものの数分で仕上がった今晩のメインディッシュは、私の鼻腔をくすぐり空腹を刺激する。

 舞台の上で完成したふくよかな肉体を自慢げに皿に横たえしばらくすると、疲れた踊り子は、熱が冷めるとともに萎んで痩せてしまう。黄と白のコントラストで彩られた姿態に私が見とれていると、母は容赦なくサイバシで手足の一部をもぎ取って私の口へ放り込もうとするので、大きく口を開いて頬張った。と、喝采に応えるように、踊り子は存分に手足を伸ばして躍動する。ダシの味わいとほんのりと醤油の風味が鼻に抜け、しょっぱさと砂糖の程よい甘さとが絶妙にハーモニーを奏で口いっぱいに広がった。

 私が微笑みかけると、母も満足げに笑みを向け、食卓を他の食材で飾り始めた。私も手伝って、皆の食器を設え終えると、また鏡台の前に座り、幸せいっぱいのこの顔を映した。鏡に台所の母の姿が見え隠れする。と、突如、暗い気分に襲われた。


   *


 家族皆での船旅の途中、何の前触れもなく、母だけが下船してしまう。楽しかったはずの旅は、母ひとりが抜けただけでこの上もなくつまらなくなった。寂しさの果てに悲しみと怒りが生まれ、憎しみめいた感情が私の心を常に蝕んだ。母の気配を失った晩、寝床で幾度となく胸をかきむしりながら、いつまでも恋しがり、ひとしきり泣いた。

 もうじき母は、私を置き去りにしてひとり旅立ってゆくのだ。

 何かにつけ、傍らに母がいないと思い知らされる時、母への思慕は、いつしか憤怒に置きかわり、子供時代はむなしく過ぎ去った。後年、母を思う度、こんなやるせない複雑な感情を強いた母を激しく恨んだものだ。成長するにつれ、諦めとともに感情の昂りを抑制する術を学んではいったが。


   *


 長らく封印した感情に苛まれ、闇の世界へと心を押し込められ始めた瞬間、鏡の中に光点が現れた。それは母のにおいを伴いつつ、次第に揺らめく炎となって、円形の虹をまとったかと思えば、たちまち視界に広がり、私を包み込んだ。その温かさに私は涙した。

 幼い日、母のかいなに抱かれた記憶が蘇り、どういうわけか心は陽の当たる場所へと誘導されるかのように穏やかさを取り戻していった。同時に、私の心は、子供から大人、母親へと成長を遂げ、死にゆく瞬間の母の心根が、今の自分には手に取るように分かったのだ。

 母は私をこよなく愛してくれていた。それを肌で感じ取ることができる。母のいたわりを知った私の心は満たされる。

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