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 一人娘が通う小学校の下校時刻を告げる『遠き山に日は落ちて』のメロディーが、開け放たれた南向きのサッシ窓から爽やかな初夏の微風にのって、優しく鼓膜を揺すぶった。

 頭の中で歌詞をメロディーにのせ、ハミングしながら意識は玄関へと向いた。と、しばらくしてドアが開き、快活な「ただいま」が部屋いっぱいに元気をみなぎらせた。

 リビングの鏡台の前に座り続ける私の右目の視界を陽光がかすめ、窓外を見やる。雨音は去り、雲間から陽は射し始めた。

 鏡の奥に娘が現れた。冷蔵庫からペットボトルを出して冷えた麦茶をコップに注ぐ。一気に飲み干し喉を潤すと、ダイニングテーブルの上にコップはそっと置かれた。フーッと息を吐き終えると、私の背中に向かって大きく手を振りながら満面の笑みを覗かせる。こちらも鏡越しに小さく手を振って娘のシグナルに応えた。

 今年、小学校に入学したばかりの我が子の成長した姿に、思わず笑みはこぼれ、しみじみと熱い眼差しで、鏡の外へ移動する影を見送った。

 網戸の目をかいくぐって、少し強い風がまつ毛をくすぐり、目をつむる。明け方の夢の風景が瞼の裏に浮かんだ。たったひとり船を見送る時の切なく寂しい気持ちが蘇り、胸をえぐる。息苦しくなって目を開け、再び鏡を覗くと、ふと亡き母の顔が浮かんだ。

 己の顔に刻まれた母の面影に微笑みかけ、しばらく見つめたのち、そっと鏡に触れてみる。指先に温もりを感じたとたん、鏡の中から眩い光が網膜を襲った。反射的に目を細めたものの、光は一瞬で消えたので目を見開き、光源を求めて光の筋を探りながら触れていた指を引っ込める。

 背後から呼びかけられ、振り返った。

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