初めは少しだけだった。


ほんの少し、胸がずきりとした。それ以外は何ともなくいつも通りの生活を送っていた。しかし、またずきり、ずきりと。そしてきゅぅぅっと締め付けられるような感覚を感じるようになってからは早かった。台所で胸を抑えてしゃがみ込んでいたところ、さすがに尋常でないと感じた夫が車を出してくれ、私はその日のうちに検査を受けた。


 1週間後、判明した病気は父と同じ、心臓の病。遺伝するものではないと分かっていても何か因果があるのではと疑ってしまう。早くに亡くなった父を思うとぶるりと震えた。私も彼と同じ道を辿るのだろうか。「死」という1文字が予想以上に肉薄して感じられ、私は医者の淡々とした説明が全く耳に入らなかった。そのくせ、どうして医者はこうも冷徹に人の生き死にの問題を扱えるのかとお門違いな苛立ちを募らせていた。小刻みに震える手に、夫が汗ばんだ温い手を重ねてくれたことだけが救いに感じられた。


 手術を年末に控え、私は初めての入院をした。初めてだからと言って心躍る筈がない。胸を開かれるのだ。想像するだけでも怖かった。しかも私の生死がかかっているのだ。心穏やかでいられるわけがなかった。毎日のように夫は病室を訪れてくれて、君は絶対大丈夫だから、と励ましてくれた。私も、これまでどれだけ修羅場をくぐり抜けてきたと思ってるのよ、ここで死ぬほどヤワな女じゃないわ、と気丈に振る舞った。幸二も時々見舞いに来た。病院の前に咲いていた花を毟り取ってきて花瓶に挿してくれた。売店で饅頭も買ってきてくれた。幸二は本当に不安そうな顔をして私の調子を聞いてきたので、母さんみたいな図太い神経の人がそう呆気なくぽっくりと逝くもんですか、と冗談めかして言った。しかし彼らが帰ってしまうと、殺風景な病室と対話するより他無くなり、私はざめざめと泣いた。絶対とか大丈夫とか、そんな確証のないこと言わないでよ、と夫の発言に八つ当たりもした。隣の患者さんが慰めに蜜柑をくれたのだが、翌晩その方の容態が急変して亡くなったのを聞き、もぬけの殻になったベッドを見て、私もいつかこうなるのだとまた泣いた。


 手術の日は心の準備を整える間もなくあっという間に来た。夫を遺して死ねないという思いだけは強く胸にあって、私は医師たちに総てを託し麻酔をかけてもらった。


 手術は無事成功し、私は数日の経過観察を終えて退院した。麻酔から目が覚めた時、夫は私の手をギュッと握ったまま眠っていて、そんなドラマみたいなこと実際にあるのかと笑ってしまった。傷口が痛んだけれど笑わずにはいられなかった。心底嬉しかった。私のことをこんなにも思ってくれる人がいて。まだ死ねない。もう少しだけ、このささやかな幸せを噛み締めていたい、強く思った。


 それなのに、悉く私の希望は摘み取られてしまった。


 *

 静かに眠気が忍び寄ってきた。温い空気が肌に触れる。私は欠伸を噛み殺して仏壇を見遣った。大きな仏壇は床を取るからという理由で我が家は小さな箱サイズの仏壇を買ったのだ。仏壇はベッドからよく見える場所、棚の上にあった。その仏壇の前には早くに亡くなった慶一の写真と、もう1つ、弾けんばかりの笑顔を浮かべた彼の写真があった。


 *

 年が明け、寒波が一層激しくなる時期になると億劫になるもの、風呂。寒い中裸になって熱い湯船に浸かる。そこまでは許容できる。問題はそこからだった。その温もった身体を一度冷え切った空気に曝さねばならないのだ。私はこれが大層苦痛であった。できるならずっと温いままでいたい。年寄りは風呂に入らなくなるという根も葉もない噂に若かりし頃の私はまさか、と笑っていたが、現に今その風呂嫌いの老人になりつつあった。悪臭を漂わせた不衛生な老人にはなりたくなかったので、私は何とか気を奮い立たせて入った。それほど私は冬の風呂というのが好きではなかった。対して夫は大の風呂好きだった。平気で1時間湯船に浸かっているし、お湯の設定温度は勝手に上げるし、そういうところは割と迷惑だった。時折上機嫌になった彼は浴室で大熱唱することがあり、調子外れの演歌を苦笑いしながら聞いていた。その風呂好きが災いして、彼は帰らぬ人となってしまった。


 その日は一時間経っても二時間経っても彼が出てくる気配がなかったのだ。一段と冷え込む日だったため長風呂もしたくなるだろうと私は大目に見ていた。一時間半経つ頃に一度彼の下手くそな演歌が聞こえた。それからぴたりと声がしなくなった。まさか――嫌な予感がして駆けつけると夫は脱衣所で裸のまま倒れていた。救急車は呼んだものの、彼がもう息をしていないことは確かだった。幸二が慌てて蘇生を試みたが苦労の甲斐も虚しく彼は息絶えた。あまりに呆気ない死に際だった。こんなに唐突に別れが訪れると思っていなかったばかりに私は動揺して、動かない彼の横で呆然と立ち尽くしていた。


 ヒートショックによる不整脈、それが彼の死因だった。急激な寒暖差によって心臓や血管に負担がかかってしまい死に至ったのだそうだ。夫は自ら高温に設定した湯船に長時間浸かり、普段にも増して寒い外気に温めた体を曝してしまった。よくある事故の一例だった。そんな一例に偶々当たってしまったのが彼だった。十分に注意を払えば防ぐことができた事故だった。風呂の湯の温度を上げ、長居をした夫にも非があったことは確かだ。それでも、私は納得がいかなかった。どうして――どうして夫がこんなことで死なねばならないのか。献身的で、私の心の支えになってくれていた、優しいあの人が――。


 夫の死から半年ほどした頃だ。むさ苦しい夏だった。隣の家の軒先で近所の婦人たちが集まって話をしていた。窓を全開にしていたし、彼女たちは必要以上に大きな声で喋るので、彼女たちの世間話は筒抜けだった。私は何とはなしに会話に聞き耳を立てていた。特に興味があったわけではなく、することもなくぼーっと天井を見ていたので、ラジオがてら暇潰しに聞いてみようじゃないのという次第である。近所のスーパーの店員の愛想が悪かったとか、どこどこの婆さんに因縁をつけられたとか、姑がうるさくて大変だとか、大半は日常の些細なことに対する愚痴だった。だが聞いていると唐突に私の家の話題に移った。


「隣のお家ねぇ、不幸続きらしいのよ。こっちにも移るんじゃないかと思うくらい」


隣家に住んでいる婦人の声だった。家人がいないと思っているのだろう、彼女は高らかに笑った。


「息子が事故で早死にして、もう一人も引きこもりになって、奥さんも病気になられて。挙句の果てに、旦那さんまでぽっくりと。もしや呪われているんじゃないかと思うくらい悲惨なのよ。祈祷でもお願いしてさしあげようかしら」


取り巻きの女どもの上品さを装った下品極まりない高笑いが気持ち悪く感じた。彼女は続けてこうも言った。


「旦那さんも心労が祟ってのことでしょう?そりゃあ子供が働かなくなったら……ねぇ。私だったら耐えられないわぁ。だけどそんなに簡単にお仕事辞めちゃうなんて、あの夫婦、余程甘やかして育てたんでしょう。バチが当たったのよ。そう、奥さんが病気になったのも、きっと同じね。バチが当たったのよぉ」


バチが当たった――その言葉を何度も反芻した。バチが当たった――バチ?私達が一体何を誤ったというのだろう。子供が働かなくなったのは甘やかしたせい?パワハラに我慢できないのは甘やかされて育ったからってこと?


――違う。あんたは頭から煮え滾った液体をかけられて、それでも同じことが言えるのだろうか。息子の引きこもりが夫の死の原因になった?おかしなデマを流すんじゃない。確かに夫も悩みはあっただろう。だが彼が死んだのは事故だ。悪い状況が重なった結果。そこに心労を結びつけるのは強引過ぎる。おかしな噂を流さないでよ。何が「バチが当たった」だ。あんたがあることないこと言って、繋がりもしない点を強引に結んで因果関係を作っているだけだろう。バチが当たるべきなのはあんたらだ――。


家を飛び出して、あの憎い隣人の胸ぐらを掴んでやりたかった。だがそんな気力はもう残されていなかった。彼女らの醜い笑い声がずっと耳の奥で木霊していて、私は家の中で独り啜り泣くことしかできなかった。


 *

 昨年、私の病気が再発した。暫くは薬の治療で様子を見ようということになったが、私は心に限界を迎えつつあった。身体も思うように動かすことがままならなくなり、最近は寝たきりの状態が続いていた。繰り返す痛みに耐えることに何の意味があるのか、もう分からなくなっていた。投薬の治療と痛みに悶える日々を送ることは生地獄そのものだった。


 因果応報なんてあったもんじゃない。善いことをしたって善いことが返ってくるわけじゃない。悪いことをしていないからと言って悪いことが起こらないわけじゃない。私の人生がその証明だ。父の言葉に従って生きてきた。高望みなどしていない。ただ小さな、私にとっては大きな幸せ、皆んなが健康に長生きできますように、それだけを願ってきた。その筈なのに私の人生は報われないことだらけ。ねぇどうして、おてんとさま――。あなたは、見ていてくれるんじゃなかったの?もし見ているのなら、どうしてこうも私達にだけ不幸が降り注ぐのでしょうか。


 ぐらり、と視界が揺らぎ、猛烈な眠気が襲いかかる。ああ、そろそろだ――。私は悟った。もう直私は終わりを迎えるのだということを――。


 幸二が私の元に来て座った。私の手を握っていた。検査の結果を伝えられた時の夫の手とそっくりだった。じっとりと湿った、私より大きな手。


「母さん、ごめんね」


彼は力なく微笑んで、手を放す。部屋のドアが静かに閉まった。ああ、幸二――。分かってる。分かってるよ。貴方が何をしようとしているのか。


閉じられた換気口、黒く汚れた手の平、そしていつもより小さな錠剤。


母さんの目は誤魔化せないよ、そう言って誂ってやりたくなった。薬は彼の捨て切れなかった良心だろう。温い空気の正体はおそらく火のついた七輪から来るものだ。この部屋の何処かでひっそりと炭火が燻り続けていたのだろう。私は気づいてしまった、彼は私をここで死なせるつもりだということに。


 動機は凡そ察しがつく。私がこれ以上病気で苦しむより楽にさせてあげた方がいいだろうと考えたから。彼なりの、最後の親孝行――無論そんな美しい動機が真実だとは考えていない。本当のところは、私が邪魔になったのかもしれない。彼は自由になりたかったのかもしれない。いくら優しい人だって、心の内に闇はある。それを出すか出さないかだ。彼は心が壊れてしまっていた。本来は止まっていたタガが外れてしまったのかもしれない。それに今どき介護殺人なんて、珍しくも何ともない。


 どんな理由であろうと、私は幸二に感謝している。夫が死んでから此処に生きる意味はなくなった。何もかもどうでもよくなった。だから今、私は心底喜んでいる。この胸の痛みと、心の痛みと、おさらばできるのだから。愛する貴方の元にゆけるのだから。


 だが、ひとつだけ、気がかりなことがある。もし、幸二が邪な心をもって私を死なせるのだとして、おてんとさまは彼を罰するのだろうか。これまで散々見て見ぬふりをしてきたくせに、幸二の罪は目ざとく見つけてしまうのだろうか。それだけはやめて欲しい。せめて最後くらいささやかな幸せすら叶わなかった私達を哀れんで情けをかけて欲しい。


 薄れゆく意識の中、薄いカーテンから僅かに見える白い太陽に最期の祈りを捧げる。


 どうか、幸二の罪が暴かれませんように、何の報いも受けませんように。


 そして何より、幸二が、幸せでありますように。


 おねがい、おてんとさま――。


【了】





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おねがい、おてんとさま。 見咲影弥 @shadow128

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