冬と春
息することもできぬ冷たさ。何者も生きることのかなわぬ静けさ。どれほどのものよりも白く透き通り、どれほどの言葉さえも追いつきはしない空白。
埋め尽くしているのは雪と氷、そして霜。それらのすべてによって象られた老女は、やはりそれらのすべてによって造られた扉の前に立ち、これをかすかに撫でた。生きてはおらず、死ぬこともまたない女だった。
老女はのろのろと顔を上げる。扉を、その向こう側からそっと叩く手があった。一度、二度、三度。そうして老女はようよう扉の把手に触れた。
扉の向こうには春が拡がっていた。
その春のとば口にはひとりの若者が立っている。それはこの世でもっとも眩い光の髪に、この世でもっとも冴え冴えとした空の瞳を持つ若者だった。その顔に浮かぶ微笑は見る者の目をあまさず灼いた。きらめく身体は一筋の陽光、身にまとう衣はこの世の花のすべてでもって飾られている。
「まあ、お久しぶりだこと」
老女は言った、低くしわがれた、暗闇に吹きすさぶ吹雪そのものの声音で。その凍れる言葉に扉のふちぎわへ咲いた花が震えるように首をもたげた。
「今度はまたずいぶんとお待たせになりましたね。もうわたしのことなど忘れたのかと」
若者が瞑目する、その口から零れ落ちる吐息はばらの香りに満ちて震え、その輝かしい両腕が老女を抱き寄せた。いまや二人は、扉のちょうど境に立っていた。
「いとしいひとよ。どれほどお会いしたかったでしょう。きっとあなたには想像もつきますまい。あなたのお心が私にわからないのと同じに。さあ、私の国へおいでください、我が最愛の姫よ」
若者は老女の肩を抱いたまま、春の野に一歩を踏み出した。
すると見る間に周囲の草花はしおれて枯れた――老女の踏み出すたびに黒く干からびて、その黒の輪がしだいに拡がってゆく。若者は小さくため息をした、その吐息にはもはや、どのような種類の花の香りも残っていはしなかった。
彼の姿もまた、その眩さに瑕がついたかのようだった。髪はくすみ、肌は褪せ、ただその瞳ばかりがきらめいている。衣に咲き乱れる花は、老女に触れた瞬間にすべて散ってしまっていた。瞬間の過ぎるごと、彼の姿は変質していった、すなわち――老爺のそれへと。
彼の背がか細く、いくらかなりと小さく縮むように見える傍らで、老女の背は反対にすらりと高く伸びてゆくようだった。
彼女の歩むたび空が翳り、風が凍え、大地は霜を走らせる。彼女は笑った。もはやどのような老いの象徴とも無縁となった貌と身体で。
その瞳はこの世でもっとも凍えた火、その唇はこの世でもっとも青ざめた赤。指先は氷柱を束ねたがごとく滑らかに磨かれ、その衣は太陽をさえ拒む雪の純白にて綴られていた。いとも華やかな妙齢の娘となった彼女は、いまや先ほどまでの自分ほどにも年老いた姿の彼の手を握った。
老爺は嬉しげに身震いをし、そうして彼女の肩へとすっかり白くなった頭をもたれさせる。彼女が手を振ると、一艘の氷でできた橇が走り来、彼女は彼を支えながら、その処女雪に覆われた座面へ彼を座らせた。二人は互いに触れ合いながら微笑んだ。そうして走り去った。
何もかも雪と氷と霜とが覆い尽くした。
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