天使

 鐘が鳴った。

 天使が現れた。

 私の夢のなかへ訪れた彼のものは、こう言った。

「門を開けよ。海を満たせ」

 大きな翼――あまりに大きな翼、そのふちから輝く、さながら天上の焔のごとき光、どのような汚辱と隠蔽からも無垢なる身体、逆さに燃え立つ黄金の髪はあくまで煌めき、二つ見返すまなこはこの世の終わりにも似た深い紫を湛え、薄い唇は真性の血の色をして微笑み……。

 天使は七晩、私の元を訪れた。響き渡る透き通った鐘の音を背に従えながら。くり返される言葉は常に同じ。

 門を開けよ。海を満たせ。

 その言葉の意味はわかっていた。町の外れにある巨大な水門――ここへ暮らすものならば誰でも知っていた。親から、あるいは祖父母から聞かされ、やがては小さな学校の机でも聞かされる。それは町の中央へ流れる川の水を、せきとめるための門だった。川は、ゆるやかに丸い人工の湖へ注ぎ、私たちはそこから日々の暮らしのための水を得ている。それは湖の水が、海へと逃げ出さないための水門だった。

 我々の海はひどく醜かった。矮小で浅く、魚も海老も貝もない。薄汚れた海草がおびただしく繁茂し、貧しくわずかな海水は底の泥と混ざり合う。切り取られ、ほかの海に助けられることもない――私たちの町は神によって描かれた地図の端の端、世界の果てにあった。我々の海は、世界を覆うガラスの天蓋に打ち寄せながら、ただその透明の球体を汚すばかりで終わっている。

 かつては美しかった、と誰かが言った。水門に塞がれる前には。いつか美しかった海の姿を、覚えているはずもないころに生まれながら。そのはずではあった、けれど町の誰も、昔の海を知りはしない。

 私たちの町には雨が降らなかった。

 井戸を掘ることはできなかった。地下水には海から染みた塩が混じっているからだ。そうして祖先たちは巨大な水門を作った、海と、ほかでもない自分たちのいくらかを犠牲にして。飲むための水の足りないまま、湖の完成するまでに、水門造りに携わったものもそうでないものも、少なからず命を落としたという。それでも私たちはここに住むしかなかった。

 神がそのように定められたからだ。神の御手になる地図の上へ、かくあるべしと印を引いて。

 八晩目に現れた天使は、ずいぶん長いこと黙っていた。私の前に立ち塞がり、存在のすべてを明るく燈しながら、あまりに並外れた空を背にして。

 しかしやがては口を開いた。

「なぜ?」

 およそ覚えていられそうもないほど美しい声だった。

 私は天使を仰ぎ見ながら答えた。

「それは私の言葉です、いと高き方よ。主の下にあって何重にも偉大なるお方、翼の方よ。なぜ私が、そうせねばならないのですか。我々は長く苦しみました。もう十分ではありませんか」

 天使は私を見つめていた。少なくともそのように感じられた。

 天使は言った。

「人の子よ」

 言葉とともに天使が片手を挙げた。私はそのしぐさにわずか見惚れる、あまりに優美なかたちの左手。

「お前はそうするべきだったのに」

 そうして、天使が私の頭蓋を、ぴたり指し示すようにする。そこから発せられる稲妻のような輝き、光線、一条の光の槍が私を打った、すさまじい痛みが目もくらむような鋭さで突き刺さり私を責め立てる、私は悲鳴を上げる――すべてが泥となって熔け落ちるような感覚があった。


 彼は寝台の上に起き上がる。そうして寝巻きのまま歩き出した。瞳は大きく見開かれ、まるでこの世のすべてを同時に見つめようとしているかのよう。額には極めて真円に近しい形の傷が穿たれ、真新しく鮮やかに赤い血がとめどなく流れては、顔となく首となくこぼれ落ちていた。彼の服は襟元から次第に濡れ、暗く染まっていったが、そのことを気にする風もない。傷口に伴うはずの、眩い痛みのしぐさもありはしなかった。

 彼は歩いていく、朝もやに煙る町の畔を。いまだ眠る路地裏に人の気配はなかった。夜明け前の時間らしい奇妙な沈黙のさなか、かすかに響き渡る鳥の声。風にあおられて鳴る、いまはまだ少し遠い水音。それらのほかにはどんな種類の音もしない。硬い石畳の道のり、そのところどころ、緑にやわらかな草が、裸足のままの彼の足裏を思い出したようにくすぐっては踏み折られる。

 建物同士の壁と壁に、視界のほとんどを遮られた道のり。土地の中央に湖を抱えた町の暮らしは、狭く窮屈で、どの家々も四、五階ほどの高さになる。頭上に見上げる空はいつでもひどく小さかった。ただ青いということがわかるばかりに。

 彼はほどなく辿り着いた。そこだけ奇妙に場が開けている――湖があるために。道として敷かれた石は、その手前でふつり途切れている。むき出しの土は乾いて白茶けていた。その土の広場の中央に、薄青く空の色を映した水面が、穏やかに広がっている。日ごと掃除夫が手入れをし、そもそもの造りからして工夫を凝らされた湖は、いつでも曇りなく澄んでいた。透き通った水の底には、それぞれに形と大きさの異なる岩と石、砂利が決まった順に敷き詰められている。その上へ、やわらかに生えた水草が、小さく白い花を点々と咲かせていた。

 水門は、彼から見て湖の奥側にあった。巨大な石を削り、積み上げた上には重い鉄の土台があり、さらにその上へは巨大な箱のような枠に入れられた、数種の歯車が組み成されている。歯車たちは、連なりながら土台と石積みのなかへと続いていた。そうして、表に出て見えている歯車のなかの一等大きなものから一本の支柱が前へ向けて据えられ、先端に馬車の車輪、あるいは糸車に似た巨大な把手が取りつけられている。これも同じく鉄だった。大小二重の輪を同じく鉄の支えでつなぎ合わせたその把手は、彼の身長を倍にしたよりなお高い。それらはことごとく錆びつき、放置されていた。もう二度と開けることはないとでもいうように。

 彼は水門を見上げた。彼の腕が、真っ直ぐに巨大に丸い把手へと伸びる。その指先がわずかに触れた。それだけだった、ほんのかすか、その指先の輪郭が淡く光ったようにも思われた。

 あまりに容易く、把手は動き出した。はじめは醜く軋みを上げて、けれど次第に滑らかに、勢いよくぐるぐると。歯車たちの叫び声。轟くような水音。

 門は開いた。彼の額から次々滴る血が、ばらのごとく地面に咲く。彼の身体が震えるように大きくぐらつき、傾いだ。

 やがて横向きに倒れて、少しも動かなくなった。

 辺りに響く音はますます大きくなっていく。


「そう、それで、あたしたちは皆とても助かったのよ」

「町の誰も、まさか死んだ水から病気が生まれるなんて思わないでしょう」

「病がやってきたのは、水門の開く少し前のことだよ。さあ、その七日くらい前だったかね……海に一番近いところの家から、病人が出てね。ばたばた倒れてさ。もちろん誰も、最初は原因がわからなかったんだけどね」

「水門が開けられてさ。水が一気に流れてきて、みんなえらい目に遭ったんだよ――ところが病気のほうは、これがぴたりおさまった。そのときはあんまり大変で、しばらく誰も気づかなかったんだが」

「ほら、丘の上に住んでたお医者の先生が。そう、そう――水門の近くにね」

「亡骸があったんだよ。開いた水門のすぐそばに。たった一人で倒れていた。なにぶん場所が場所だったから、身体中傷だらけだったし、頭にも大きな穴があいてた。それに顔も……だったんだけどさ」

「でも服と持ち物で、どうやらあの人だってわかったのよ。きっと誰より早く、海が悪いって気づいたんでしょうけど。でも、言えなかったんでしょうねえ……言っても、誰も信じないだろうからって……」

「あの先生は本当にすごい人だよ」

「あたしたちの町は、もうどこにもありはしないけど」

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