「おいで」

 彼女は甘やかな声で呼びかけた。春の日のように微笑みながら。入り江のほとりに。陸のふちに手を突いて、まるで平らに横たわる鏡を覗きこむようにして。

 かすかな水音がある。

 彼女は黒い手袋に覆われた手で、傍らに置いた皮袋の紐を解く。なかにはさまざまのものが入っていた。苺。魚の骨と皮。剥かれた林檎。紫蘇の葉。種々の色をそなえた殻つきの豆。干し肉の削りかす。まだ青い檸檬と橙。果ては炭の欠片と、端切れのなめし革まで詰めこまれていた。彼女はそれらを取り出しながら、傍らの地面へ丁寧に選り分け、そして待った。

 ほどなく、水のなかからほの白いものが浮かび上がってくる――はじめは光そのもののように見え、けれどそれはしだいに何か姿かたちを持ったものとなり、やがて銀の鱗に包まれた一匹の魚と知れた。彼女は笑った。魚は月じみて光る身体をくねらせて、尾で水面をばしゃりと叩く。

 彼女はそっと手袋を外した。傍らに拡げたそれぞれのものを素肌の指に摘んで、魚の頭へ近づけた。魚は大きく口を開け、あるものはそのまま呑みこみ、あるものは身体をくねらせ、水のなかへ振り落とした。彼女はそのたびごとに嬉しげな声を上げ、あるいは小さく嗜めた。手を伸ばすと、魚はおとなしくその背びれを撫でさせる。指先の熱で魚の肌が焼けないよう、彼女はよくよく気をつけながら魚に触れた。

 見つけたのは、彼女がまだ十ほどの子供だったころ。はじめはただきれいな魚だと感じて、その日に家で出た焼き菓子の、ほんの小さな欠片をやったのだった。餌をやるたび、魚は日ごと年ごと大きくなっている。ずいぶん長生きの魚ではあった、奇妙に思うことはあったが、雨風のあまり強い日を別として、彼女はここへ通い続けた。餌をねだって口を開ける姿、逃げずに触れるさまが好きだった。

 彼女は言った、ほんの囁きほどの声で。

「かわいいおまえ、今日はおまえに話さなくてはならないことがあるのよ。わたくしは結婚することに決まったの。ひと月のあとには、いまの家を離れることになるだろう。けれどたったひとつ、ただおまえのことが気がかりだよ。かわいいおまえ、わたくしがここへ来ず、餌をやらないでいて、果たしてお前は生きてかれるのか」

 少しの間、彼女は黙って水面を眺めた。魚は半透明の、長く豊かな尾をひらめかせ、ただ月明かりのしたでその半身のごとく光っているばかり。やがて彼女は小さくかぶりを振った。

「いまのは半分ほどしか本当ではないね。こうしておまえと遊ぶことのない暮らしとは、どんなものだろう。できればおまえを連れて行きたいくらい。でも、おまえは海の魚だもの。庭に池を作ったところで、飼うことはできない。さあ、困ったこと……」


 幾月が過ぎた。家同士の約束どおり彼女は嫁ぎ、ほどなく赤ん坊を生んだ。丸々と肥った赤ん坊を、ぜんぶで三人。そうしてやがて幾年が経った。ついには数十年もの時が足早に立ち去り、彼女の子供たちは自分の子を持った。それは幸福な時間ではあった、夫は穏やかで思いやりがあり、子供たちはどれも彼女を慕ってくれた。いまや孫たちも。どこか自分に似た存在たちは、ただそのことを理由に彼女を愛した。彼女もまた、ただそのためにこそ、彼らに思いやりを注いだ。

 それだけの時間が過ぎたころ、公証人から手紙が届いた。かつて暮らした家が彼女のものになったことを知らせるものだった。両親が死に、そして兄も姉もまた死んだのだ。今度は彼女の番だった。望むと望まざるとにかかわらず。

 彼女はすっかり年取った夫とともに、馬車に乗って帰ってきた。それはここに住み続けるわけでなく、ただひと月ばかりを過ごして、家の世話をするために。

 彼女は懐かしい景色を目にし、その土を踏んだ。風に混じる潮の香り。彼女は、年月とともに増した皺に包まれた目をそっと細める。耳の奥底へ、かすかに響く波の音。

 夜、彼女は目を覚ました。夫ともに眠る寝台を、そっと抜け出す。部屋の隅にある衣装棚のなかから、一枚適当な外套を取り出し、寝巻きの上から羽織った。ごくごく気をつけてドアを開ける、掛け金が音を立てないよう、最後まで閉めることはせずに。息を殺し、足音をさせないよう廊下を歩く。彼女は裸足のままだった。

 そしてついには入り江のほとりに。彼女は崩れるように膝を折った。使い古しの身体が、喘いで軋みを上げている。硬くざらついた地面。彼女は囁くように言った。

「おいで」

 それで十分だった。あのころとはまるで違うひび割れたその声、歳月に古びた声、けれど応えはあった。水中深くから、やわらかに長い尾をひらめかせ、銀を削いだかのような鱗をきらめかせながら、いまひとつの月のように浮かび上がってくる影がある。

 魚はずいぶんと育っていた、ともすれば彼女より大きく。彼女は薄く痩せた手を差し出し、背を撫でた。魚がその優美なかたちの尾をくねらせる。

「――ずいぶん待たせてしまったね。でもわたしはこうして帰ってきたよ。ここを離れてからこの方、おまえのことを考えない日は一日もなかった。どれほどおまえのことが恋しかったか……」

 魚は彼女の手の下でぽっかりと口を開けた。いつか餌をねだったときと同じに、けれど小さな歯の並ぶその口は、いまや彼女の手のひらよりずっと大きかった。

 彼女は微笑んだ。

 そうして自分の指先を、ゆっくりとその口元へ差し伸べた。甘やかな痛みがあった。ひどく大きな水音、すべてを包む身を切るような水の冷たさ。泡となって離れてゆくため息。硬く尖ったいくつもの音がある。もはやどんな取り返しもつきはしないと告げる音が。

 けれどじき、何も感じなくなった。

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