#2

 結局、いつも頼りになるのは一人しかいない。家庭科教師兼栄養士の笹塚ささづか教官だ。

 笹塚教官が引率する家庭科部買い出しツアーに参加することになった。もちろんそのようなネーミングがあるわけではない。家庭科部は定期的に笹塚教官監修で茶道部のお菓子を調達している。

 本校の敷地から軽井沢駅までは学園の送迎バスを使う。二十人は乗っていた。

 運転手は寮長のジョアンだった。五十代と思われる女性版カー〇ル・〇ンダースだ。誰彼構わずハグしてくる。

 小さな女子生徒は潰されそうになる。紘香ひろかは逃げたくても逃げられない。

「ロカ!」ここでは誰も使わないFIANAフィアナの愛称で紘香を呼ぶ。「ハワユー」

「ふあいん……」

 答える前に次の生徒を抱き締める。

「グダイマイ」ステイシーへの声かけがそう聞こえた。

「ありがとうございます」

 あのステイシーがおとなしく日本語、もちろん大阪イントネーションだが、で答えている。それが紘香には可笑しかった。

「なんで英語で返さないの?」

 ジョアンが他の生徒のところに行ったので紘香は訊いた。

なまってるから嫌なんや」

「え!」大阪弁はエエのかい!「音読はペラペラじゃないの」

「英文を読んだらブリティッシュイングリッシュに聞こえるのだと思う。でもうちのママはオーストラリアなんや。それを知っているからジョアンもオーストラリア語で話しかけてくるんや。グダイマイって」


 G’day, mate! (Good day, mate!)


 アメリカ英語なら、Hello, friend! と同じような意味だとステイシーが言った。


「日本人にはエイがアイに聞こえるやろな。『day』がダイ、『mate』がマイトや。それでいくと、人工知能のAIがアイアイに聞こえるかもな。おサルさんだよーや。まあ、アイはオイに近い発音やから、よく聴くとアイオイや。そやから、今日病院に行った、なんて言うたらえらいことになる」ステイシーは笑った。「病院に死にに行った」


 I went to the hospital today.(今日、病院へ行った。)


これがオージーの発音だと次のように聞こえる。


 I went to the hospital to die.(今日、死ぬために病院へ行った。)


「どうでもええことや!」ステイシーはひとりでボケツッコミをした。




 家庭科部のグループは中等部の生徒が三人だった。真面目でおとなしい子ばかりだと紘香は思った。そして三人ともステイシーを珍しそうに見ていた。

 身長百七十台の明るい茶髪の麗人。この学園では目にしないタイプだ。そしてその口からほとばしる大阪弁。

「家庭科部って何をやってるん?」馴れ馴れしい声かけ。「この子、芸能人やて知ってる? 知らんの? アカンやん、ロカ」と話の途中でも振り返る。

 それが当たり前だからと紘香は返した。


 一時間あまりかけてバスは軽井沢駅に着いた。ここから引率の教官とともにグループ行動だ。

 生徒は皆学園指定の外出着。冬でなければ制服なのだが防寒のために地味なコート姿だった。

 同じ格好をしている。そうなるとステイシーが余計に目立つ。

 ジョアンがまたハグしてきた。何か言っている。「チョキ」を買いに行くのでしょ、期待してるよ、みたいな内容だった。

「ジョアンにばれてるやん」ステイシーが言った。「チョキ買うって」

「チョコじゃないの?」

「うちのママ、チョコレートのこと、チョキ(Chokkie)て言うんや。オーストラリアの言い方らしい」

 だからじゃんけんのチョキが「チ、ヨ、コ、レ、ー、ト」なのか!

「ジョアンに買って帰らなあかんわ」

「寮に着く前にジョアンに渡す必要があるわね」と言ったのは笹塚ささづか教官だった。「袖の下よ」

「持ち物検査されるのでしょうか?」

「もし検査官が成瀬なるせ先生だったらね」

 その教官のことを紘香はあまりよく知らなかった。確か都内の私立高校の教師をしていてこちらには非常勤で来ていると聞いた。

「春からこっちの常勤になると思うわ。多分二年B組の担任に」

「それって私らのクラスってことかな?」ステイシーが訊いた。

 ステイシーはこのまま長野本校に居座るつもりなのだと紘香は思った。

「楽しみね」

「楽しめるとエエねんけど」

「時間がないからさっさと済ませるわよ」笹塚教官が言った。

 ファー付きのロングコートの下から厚手のジーンズとブーツがのびている。身長が百六十五から百七十の間くらいですらりとしていて今日は化粧もしているから都会で見かけるような洗練された美女だった。

 ニット帽からはみ出た茶髪はウィッグだ。

「先生、素敵」紘香は感嘆した。

「まあね、これくらいは普通よ」

「先生は服装チェックの対象外なんか?」

「実はそうでもない」笹塚は声を潜めた。「寮に戻る頃には教官モードにするのよ」

「大変やな」ステイシーのタメ口は大阪弁だから許されるようだ。

 家庭科部の三人を含めた一行は菓子の材料を求めて店を回った。

「アウトレットは?」

「行くわけないでしょ」

「楽しみにしてたのに」ステイシーがまた泣き真似をした。

「私服にもうるさいのに。華美な服装はご法度なのよ」

「華美でなければエエんやろ」

「その華美の定義が厳しいんでしょうが」

「はあ」

 和菓子の材料の買い出しに二人は付き合った。

「国産のものでないといけないの」笹塚が言う。「遺伝子組み換えでないという表記があるものね」

 豆類はうるさいと笹塚は言った。誰がうるさいのか二人にはわからない。

「着色がまた大変だわ」

「でもそれでお菓子が食べられるんやな」ステイシーが嬉しそうに言った。

「茶道部のお茶会に出た人だけよ」

「エエエ!?」

「みんなお菓子が食べたくて、出るんだけどね」紘香が言った。

 そうでないと寮で菓子類を食することは一切なかった。

「さて、チョコの材料を見てみよう」笹塚が言った。

「出来上がったチョコはどこで食べられるんですか?」ステイシーが訊く。

「家庭科部の試食会だね」

「試食会?」

「ふつうはランチの特別メニューなのだけど、そのデザートとしてちょっと添えるくらいかな」

「ちょっとだけですか?」

「ふだんは全然ないのよ。それに比べたら奇蹟のメニューね」

「もの足りんわ」

「だから作り手の特権を利用するしかない」

「そや、それそれ」

 ステイシーが興奮し、紘香は笑った。

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