29.不気味な静けさに膨らむ不安

 あの夜は異常に静かだった。森の動物の声や気配が遠く、何も感じられない。魔王城へ向かう旅で野宿を繰り返したゼルクは、その不気味な静けさに眉を寄せた。


 嫌な予感がする。だが戻って何もなければ、嘲笑されるだろう。そっと近くで確認したら戻ればいい。相手に見つからずに帰れば、大丈夫なはず。膨らむ不安に勝てず、ゼルクはゆっくり歩き出した。


 夜明けの時間は、見張りも眠気に襲われる。発見されにくい時間に到着するため、時間を掛けて歩いた。木々の間を抜け、ふと漂う異臭に顔をしかめる。何度も嗅いだ臭いだ。間違うはずがない。


 音も気にせず走った。こちらが風下なのか、臭いはどんどん強くなる。大きな茂みの手前で、飛び出した魔獣を避けた。転がりながら距離をとるが、周囲にまだいる。焚き火の焦げる臭いはなく、代わりに血と臓物の生臭さが鼻をついた。


「っ、魔物の襲撃か」


 だがこの程度の魔獣なら、エイベル一人で跳ね除けられる。なぜ血の臭いが? 嫌な予感を思い出し、身を震わせた。群れの頂点に立つ魔獣なのか、大きな一頭が咆哮を上げる。その声に呼応するように鳴いた魔獣は、身を翻して走り出した。森の奥へ駆ける魔獣を避け、近くの木の枝にしがみつく。


 想像より多くの魔獣を見送り、静かになった地上に降りた。近づく足取りは重い。助けを求める声も叫びも聞こえなかった。静まり返った野営地は、真っ赤な血に染まっている。


 腕や足など人の一部が転がる現場は凄惨だった。後ずさるゼルクの足に、ことりと何かが触れる。目を見開いて息絶えた頭部だった。顔の半分は齧られ、足りない。吐きそうになって手で口を押さえた。


 生存者がいないか確認して歩き、テントの中や馬車も調べる。女子どもが少ないのは、逃げたのか。ほっとしながら、ひとつの馬車を覗いて勘違いに気づいた。違う、女や子どもは柔らかいから……最初に捕食されたのだ。だから落ちている体が少ない。


 硬い男や筋っぽい年寄りを残し、魔獣は馬車の中で捕食した。逃げ込んだ女は子どもを守ろうと覆い被さり、それでも子どもが犠牲になった。まだ、ぬらぬらと鮮やかな血が馬車から溢れる。


 我慢しきれずに嘔吐したゼルクは、あの恐ろしい日を思い出していた。家族や顔見知りの死に様が浮かぶ。戦おうとして食い殺された父、幼かったゼルクを庇おうと身を投げ出す母。近所のおばさんも、おじいさんも、すべて魔族に殺された。


 あの日と同じだ。生き残りが見つからぬまま、日が昇る。大きな街道沿いでこれだけの惨状が発見されれば、すぐ騒ぎになるはずだ。ここにいてはマズイ。


 そうだ、エイベル! あいつも死んだのか? 裏切られたが、同郷の友だった。慌てて周囲を探すも、どれが彼の手足か区別がつかない。無理だと諦め、血に汚れた体を引きずって森へ足を向けた。その後ろ姿は疲れ切っている。





 少しして、倒れた馬車の陰から三人の若者が顔を覗かせた。街を移動するため早朝から歩いて、この惨劇の跡を見つける。息を潜めて隠れた彼らは、顔を見合わせた。


「顔を見たか?」


「ああ、次の街で手配を掛けてもらおう」


 頷き合い、大急ぎで隣の大きな街へ向かった。彼らが目撃したのは、血塗れの現場と剣を持った不審な男だけ。それは誤解を生み、勇者をさらに追い詰める証言となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る