渦巻英雄:ビギニング②
固く強い鍵を閉める音が鳴り、英雄はその扉の外で空を見上げた。
「これから頑張れよ」と口酸っぱく言われ続けた言葉が再度後ろから聞こえる。
この刑務官というのは普段は厳しいがその実こちらを本気で心配してくれているのがよく分かる。
流石に全員という訳ではないがやはり相手が子供となると厳しさの裏に優しさというものが宿るのだろうか。
軽く会釈をして振り返ろうとすると懐かしい声で呼ばれた。
「よ。ヒデちゃん。オツトメゴクロー様ってやつだな」
男勝りな口調とは反対の長く綺麗な黒髪。
しかしその服装はどこかパンクでダラしない雰囲気でとても
「………レイラン」
彼女の名前は
家族を失い完全に一人となった筈だった英雄にとって唯一残った繋がり。
この三年間も頻繁に会いに来ていたし、こうして出所した瞬間ですら待っていてくれる。そんな存在。
とはいってもそれに感謝を示せる程英雄もまだ大人ではないのだが。
「保護司は? 普通いるもんだろ?」
通常、少年刑務所を出所したら一定の期間保護司が付く。
いわゆる“保護観察”というものだ。
しかし目の前にいるのは麗蘭のみ。
不思議そうな表情で英雄は麗蘭を見つめる。
しかし麗蘭はケロッと答えた。
「保護司はアタシだ」
あまりに当たり前に言うものだから反応が遅れてしまった。
英雄は怪訝な顔で返す。
「は? こういうのって普通は知らん奴がやるもんだろ?つーかアンタ警察官だし」
疑問を疑問のままにぶつける。
その為麗蘭も少しだけ笑ってストレートに答えた。
「証拠不十分やらなんやらに加えての超模範囚で特例の三年での出所。そこに特例を重ねてアタシが特別にアンタの保護司になったんだよヒデちゃん」
特例。そう言われると何となく納得してしまう気がする。
ある種最強のパワーワードだ。
麗蘭はまるで有無を言わさないかのように英雄にスマホを渡す。
「そんで? 取り敢えずまずは服でも観に行く?」
端的に出所後の最初の予定を決めようと麗蘭は話を変えた。
しかし英雄も自分の特例措置の理由などいちいち知りたくもない為麗蘭に合わせる事にした。
「いや、行きたい場所がある」
「ん? どこだ? 連れてくぞ」
英雄は麗蘭の車に乗り込みながら遠くを見るように続ける。
「父さんと母さんとヒマリ………あと
どこか悲しげに落ち着いた英雄の瞳に麗蘭もまた哀しげに口角を上げ、車は走り出した。
車の中で麗蘭は絶やさず話を続ける。
気を遣っているのだろうか。外の世界の情報を教えてくれようとしているのか。
分からないが麗蘭は話し続ける。
「ヒデちゃん覚えてる? “ケンシン”の事! アイツ去年アマチュアで世界チャンピオンになったんだぞ? やるねぇキミのライバルは」
「別に………ライバルって訳じゃあ…」
「うんにゃヒデちゃんは“ケンシン”との試合の日は特別楽しそうだったからにゃあ」
図星をつかれたのか英雄は少し照れくさそうに頭を掻く。
「“カオルちゃん”も一緒に更生してからは毎日ジムに来てたしさ。やっぱあの二人付き合ってんのかね」
「聞く相手間違えてんぞ」
一見すると返答にしては乱雑な返し。
しかしこの些細な会話が英雄が普通の日常に戻ってきたという証になる。
幼馴染みの二人に探り合う様な会話はいらない。
ただ今まで通りの雑談が二人の距離を元に戻すのだから。
麗蘭は絶えず話し続け、英雄は度々と答えて会話は続いていった。
「証拠不十分で不起訴。しかし本人は「家族ではない誰かは殺した。けど塵になって消えた」と言っている事から精神的にも世間の体裁的にも一度少年刑務所で療養兼収容をしたほうが本人の為にもなると思われます」
裁判官の前で淡々と弁護士が話を続ける。
人々は可哀想と言う。
親不孝とも言われた。
けどそんなの知らない。どうでもいい。
もう家族とは会えないのだから。どうでもいい。
一人にしてくれ。
そう願いながら思い出すのは確かに自分で殴り殺した謎の男の事。
家族が殺されたあの瞬間のみだ。
その日は忘れ物をした。
その為ジムで取材があったがちょっと遅れて行く事にした。
要は忘れ物を取りに行ったのだ。
今思えばあの日取材さえ無ければ家族を助けられたかもしれない。
一緒に死ねたかもしれない。
そう考えるのは今だからなのだろう。
決して忘れない。あの玄関を開けた時の悪寒と異臭。
その瞬間に膨れ上がったあの激動の怒り。
「ヒマリ?」
玄関を開けると異常な異臭と共に血だらけで地に伏す妹
パッと見た限りでも息はしておらず何より反応がない。
思考が混線する。
「父さん! 母さん!
ヒマリが!」
訳も分からずリビングにいる筈の両親を呼んだ。
しかしそもそも日葵がここに血だらけで倒れているという異常な状況。
二人が「どうした?」と顔を出す筈もない。
ただ何かがリビングの方で動いた音がした。
もしかしたら父さんか母さんかも?
頭が混乱している中学二年生に冷静な判断など出来る訳がない。
英雄は日葵を抱えてリビングに向かった。
いつもなら優しい笑顔で迎えてくれる楽しい団欒のリビング。
しかしそこには見るも無惨な姿で地に伏す両親の姿があった。
瞬間、異常な勢いで胃が逆流した。
嘔吐したのだ。
経験豊富な大人でも目を覆いたくなる状況。
齢十四歳の少年が耐えられよう筈もない。
そこにいるのはただ理由も分からず突然家族を失った悲劇の少年。
そうなる筈だった。
しかしそうはならなかった。
物が動くほんの些細な音が英雄の耳に入る。
次の瞬間、英雄の目前に鋭い爪のような鋭利な物が迫ってきた。
だが寸前のところで英雄は身体を捻り回避してみせた。
普段からボクシングで鍛えている“天才ボクシング少年”でなければ出来なかっただろう。
すぐさま英雄は顔を上げて突然向かってきた謎の存在に目を向ける。
だが流石に目を疑った。
何せ目の前にいるのは人ならざる者。
頭はまるで狼のように鋭く前に突き出て鋭利な牙を光らせている。
上半身は筋骨隆々で異常に毛深い。というよりその様はまさしく獣のそれだ。
英雄はこの存在を知っている。
だが実際に見た事は今この瞬間まで無かった。
見た事がある筈もないのだ。
狼男は獣の如きうめき声を鳴らして涎を垂らす。
その口元には大量の赤い血が付着していてまさしくこの瞬間まで
英雄は中学二年生。だが馬鹿ではない。
どんなに混乱している頭でも理解出来る事はある。
きっとコイツが殺したのだろう。
英雄の母を。父を。妹を。
泣き崩れてもいい状況。
恐れ慄いて逃げてもいい存在。
何せ英雄は中学二年生。だが天才ボクシング少年。
英雄は拳を固く握りしめた。
雄叫びを発するように立ち向かったその後の事は良く覚えていない。
ただひたすら必死に殴り続けた。
拳から血が吹き出ようと。
感触が無くなるほど殴り続けた。
そしていつしか英雄は床を殴っていた。
だが
そこには先程までいた筈の人型の存在が忽然と姿を消していた。
だが床を殴り続けた。
その後麗蘭がこの家にくるまでの間、約一時間程。
英雄は床にヒビが入る程に、殴り続けていたのだった。
こじんまりとした小さなお寺の裏手側。
そこには数える程しかない幾つかの墓石。
その端で線香の煙は細々と天に登った。
「
呟くように話す麗蘭に英雄は頷く。
「ああ。優しい人だったからな」
英雄はゆっくりと立ち上がってお酒を一つ墓石の前に置いた。
「だが俺は裏切った。ボクシングを傷つける為に使った。それに俺は…………」
麗蘭の目を真っ直ぐと見つめる。
「間違いなく人を殺した。父さんでも母さんでもヒマリでもない………
英雄は天に登って消えていく煙を眺めた。
「レイラン。俺は静かに生きるぜ。もう何もやりたい事なんてねぇしよ……」
英雄の言葉には確かな哀しみが込められていた。
麗蘭もまた哀しげに英雄を見つめる。
そして口をつぐんだ。
その後二人は何も話す事なくただ静かに車を走らせて家に帰ったのだった。
「高校には入らない」英雄はそう言って仕事の面接に行った。
本来保護司としてはなるべく世間に溶け込めるよう幾つもの選択肢を用意してなるべく一般的な生活の選択肢を与える。
麗蘭としては高校に行ってほしかった。
長い人生の中で中高生というのは最も貴重な時間だと言える。
しかし英雄は中学校を二年生の途中から通っていない。
通信教育という扱いで少年刑務所内で書面上卒業はしたがそれでもやはり学生生活の大半は塀の中で過ごした。
ならばせめて高校だけでも行ってほしいと願うのが英雄の保護司であり保護者としての想いではないだろうか。
しかし英雄は迷う事なく拒否した。
怖いというのもあるかもしれない。
人の噂というのは消えるのも早いと言うが流れるのも恐ろしく早い。
既に街で英雄は好機の目線を向けられている。
こんな状況で学校など通ってしまえばきっと英雄はただ楽しい青春を送るという訳にもいかないだろう。
だから理屈は分かっているのだ。
だけど高校に通ってほしかった。
それに何より、学生で無くなってしまえば
「ヒデちゃん………アタシは………」
麗蘭は複雑な感情で、袖を通した制服の警察バッジを握りしめた。
外に出てから数週間経った。
最初の頃は“少年刑務所帰り”として好機の視線を向けられていた。
しかし
暫く経てばもう仕事の仲間として溶け込んでいた。
「ようエーユー! 仕事は慣れたか?」
ドカドカと大柄な雰囲気と声色。
英雄は分かりやすくため息を吐いてみせた。
「はぁ………
ガハハハと大袈裟に笑うこの男はナオイエという。
名字は知らないし何て書くかも知らない。
本人は「無い!」というので特に誰も言及しようともしない。
だがこの大雑把でおおらかな性格に助けられていない人はここにはいないだろう。
そう考えるだけで自分的には少しは成長したかな、なんて考える。
道は踏み外した。それは間違い無い。
しかし立ち上がる術を失った訳ではないのかもしれない。
そう思っているのにいつも気づいたら実家に来ている。
事故物件となったこの場所は今はもう誰も住んでいない。
近所では“親殺しの実家”ともっぱらの評判だ。
こんなところに立ち寄れば自分もいつかはバレるだろう。
英雄がその“親殺し”である事が。
それを分かっているのにここに来てしまう。
何故だろうか。
悲しいのか。怒っているのか。
分からない。
「俺は………」
英雄はゆっくりと歩いていった。
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