プロローグ② 巣食うもの
「――いっでぇ!」
サトルはベッドから落ちて目が覚めた。寝ぼけ眼を擦り、寝相の悪さに呆れながら、大きなあくびをした。
「なんだか、ヘンな夢だったな……」
むくりと起き上がり、頭を押さえながら、おぼつかない足取りで窓を開ける。頭に霞がかかったような気分だったが、雲ひとつない青空と清々しい空気が、一気に眠気を覚ましてくれた。
「あぁー、いい天気だなあ」
「全くだ。気持ちの良い朝だ」
「な、そうだよな。――って、誰だ今の声!?」
「当ててみな。当てたトコでなにもご褒美はないがね」
伸びをしていると思わぬ不意打ちを食らった。誰もいないはずの自分の部屋から、誰かも分からない声が聞こえるこの状況に、つい今まで見ていた夢の内容を思い出した。
「まさかとは思うが、オレは『
「ほう、幽霊と訊くんじゃなくて空妖ときたか。その通り、満点解答だ」
「……いやいや、そんなまさか。まだ学校に慣れてないから疲れてるのかな。もしくは――まだ夢の中か!」
誰かに言い聞かせるわけでもなく、そう言って冷静を演じてみせて、頬を千切る勢いでつねった。
「いでででで!?」
心の中では、夢だと確信していた。しかし、つねった感触が頬をさするまでに残っている。この痛みは夢ではなく現実であることが身をもって、それも涙が出そうなくらいに沁みた。
「空妖って言葉を知っているのなら、キミはもう分かっているんじゃないか。これが現実だってことが。いつもと変わらない日常だってことがな」
「そう簡単に理解できてたまるか! てか、まず姿を現せ!」
「砕いて言えば、ワタシはキミの守護霊みたいなモノだから安心してくれ。もっとも、『幽霊』と『空妖』はまったく違うがね」
「だからそう言っておいて、姿を見せないヤツを信じろっつーのは無理な話ってモンだろ!」
「怒りっぽいな。寝起きだからか?」
唐突に起きたこの理不尽な事態に憤り、尖った声で一蹴して自らがよく知る自室を血眼になって隈なく探すが、影も形も見当たらない。
気に入ってるマンガが並ぶ本棚にも、ベッドの下を探しても、勉強机にも、目を引くものは何もなかった。
「口が汚い割には部屋はサッパリしてるな。残念だがこの部屋の周りにはいないぞ。なあ、どこにいるか知りたいか? なあなあ」
「早く教えて安心させてくれ!」
得体の知れない恐怖を怒鳴って誤魔化すサトルとは対照的に、声の主は面白がる口調であった。声の主は「フッフッフ」と笑い、少し焦らしてから、満を持してと言わんばかりに言った。
「仕方ない。そこまで言うのなら教えてやろう、ワタシはキミの背中に取り憑ついてるんだ」
「……背中?」
「そう、背中」
「あの、背後に人が立ってるとかじゃなくて? 背中?」
「なんだその反応は。もっとたまげて欲しかったんだがな」
サトルは、イメージと違う幽霊像と離れていたコトが逆に恐怖を和らぎ、冷静さを取り戻した。
声の主は、そんなサトルのあっけらかんとした態度をとったのが不満だったようで、少し不機嫌な口調になった。
「じゃあおまえは、オレに対して喋るくらいしか出来ないのか」
「手出ししないって言ったろ。そうだ、ワタシの姿を見ればきっと驚くぞ。鏡で視てみるといい」
「鏡にも映るの? うーん、なんだかイメージと違うな」
窓を閉めた後、下の階にある洗面所へ向かおうとするサトルだが、引っかかるものがあり、歩みを止めた。
「背中に憑いてるってことは、そんなに小さいのか?」
「やっぱり訂正しよう。取り憑くというよりも、『巣食っている』。そう言ったほうがわかりやすいかもな」
「ふうん? 意味わからん」
再び足を動かし洗面所へ向かう。声の主が何も出来ないと分かったら、多少なりとも安心できた。
洗面所に着くなり鏡に背を向けた。滅多に見るコトはない自身の背中を覗いたサトルは、背中にないハズのものが『巣食っている』のを見て、背筋が凍りついた。
「な、なんじゃこりゃあッ!?」
「はじめましてだな。ほら、手出しはできないだろう?」
再び口を大きく開き絶叫するサトルの声を聞き、満足そうに言った。
顔合わせというよりも『口合わせ』といった方が正しいだろうか。サトルの背に巣食っていたのは、『口』であった。
服の上から黒い渦が巻き、その中から鋭利な歯と、カーペットを敷いたような大きく赤い舌を覗かせる。その面妖な姿は化け物そのものだ。
「こんなナリでも、人を喰ったコトはないから安心してくれよ」
「笑えねえよ……」
「おいおい、ここは笑うトコだぞ。信じて貰わないと困るな」
サトルほ大きく溜め息をついた。これは夢ではない。現実なのだからしょうがないと割り切り、意を決して共生の道を選ぶしかないのだ。
「……わかった。信じるよ」
悪いヤツではなさそうなのが、せめてもの救いか。
「じゃあ、顔合わせ? も済んだことだし、自己紹介でもしようぜ。オレはサトル。
「ワタシは……名前がないな」
「名無しなのか。いっぱい食いそうだから『バク』だな。バクバクーって」
「随分テキトーだな。まあ、貰えれば何でもいいがね」
「よし、今日かおまえはバクだ。よろしくな」
「よろしく、サトル」
鏡に背を向けながら異形の口と話すサトルの姿は、それはそれは異様な光景であった。そんなことを気遣うように、バクは大きな口を開いた。
「どうでもいいが、こんなコトしてるのを家族に見られたらマズイんじゃあないか?」
「そりゃそうだ。見られたら困るし、どうにかして引っ込められないのか?」
「できるとも。ほら」
「お、いなくなった」
サトルが再び鏡で確認すると、なんの変哲もない背中が映っていた。
だが目を凝らして見ると、ほんの小さなアリよりも細かな黒い渦が巻いていた。とはいえ、大きな舌や歯が見えるよりかは遥かにマシであり、ずっとこのままでいてくれないかと思った矢先に元の状態に戻る。
「小さいままだと疲れるから、なるべくこのままでいたいのだが、ダメか」
「あー、がんばれ。マジに」
サトルが僅かに抱いた期待は、呆気なく破れた。
「なに朝から騒いでるの。早く朝ご飯食べて身支度整えなさい」
ダイニングから聞こえる母――久美子の急かす呼びかけに、サトルは慌てて「はいよ」と返事をする。
「バレないように頼むぞ、バク」
「大口に乗ったつもりで任せておけ」
「なんだそのことわざ……」
背中の口が見えないかと内心ではビクビクしながら、あくまでいつもの朝と変わらない振る舞いを装い、ダイニングへ向かった。
「おはよう」
「おはよう。あんた、朝から何大騒ぎしてるの」
「ああ、えっと……。起きたらデカいクモが枕元にいて、ビックリしただけだよ」
サトルは首筋を掻きながら、その場で必死に考えた言い訳を放つ。苦しい言い訳であったが、久美子は「そう」と聞き流し、キッチンへ向かった。
「いただきます」
うまく言い訳が通りほっとしたサトルは、朝食が並べられたテーブルにつき、きつね色に焼けたパンにかぶりついた。咄嗟に、ふと思い浮かぶ疑問をぶつけた。
「そういえば、バクは食べなくても大丈夫なのか」
「空妖には食事も睡眠もいらない。なぜなら自然死などしないからな。死なないだけなら簡単なんだ、死なないだけならな」
「へぇ、便利だな」
サトルの前方には久美子がいるが、皿洗いによる水の音によって、その会話は聞こえなかった。
「しかし、クモがいたのか。見落としていたな。もしいたのなら、喰えばよかった」
正気を疑いたくなるようなバクの一言に、サトルは口に含んでいた牛乳を勢いよく噴水のように吹き出した。突拍子もないコトを言い出すなんて、やはり化け物なのかと思った。
「ちょっと大丈夫?」久美子が慌てて言った。
「いやあ、急いで飲んだら変なトコに入っちまってさー、あははは……」
「もう高校生なんだから、もっと落ち着いてよ」
「はいはい、わかってるよ。ごちそうさまでした」
咳込みながら辛くも話すサトルに対し、バクは「関係ないね」と茶化すようにわざとらしく小声で笑った。
意図が見え透いている笑い声を聞き逃さなかったサトルは、眉間にしわを寄せた。
「いい性格してるじゃねえか」
「初対面は印象よく、だろ?」
噴き出した牛乳の処理が終わり、サトルは制服に着替えるため、テーブルから立ち上がり、早々に自室に戻ろうとする。しかし、その時――
「ちょっと待って!」
「はいい!」
後ろ姿を見せたまま、久美子に止められた。予想外の行動にサトルは背筋をピンと伸ばし、素っ頓狂な返事をした。まさかバクが見つかったのか。胸の鼓動が速く大きく、鳴り響く。
「……あんた最近さあ、背伸びた?」
「へっ?」
拍子抜けであった。人知れずこの状況でこんなことのために呼び止められたのかと、ちょっぴり腹が立ったが、バレずにすんだ安心感が勝った。
「そりゃ成長期だし、ちょっと伸びたかもしれないなー! もう着替えるから部屋に戻る!」
テキトーに返すなり、サトルはすぐにその場を一目散に逃げるように自室へ去ろうとする、が――
「ん? 待って?」
「なに?」
また呼び止められた。うんざりして振り向こうとすると、意外な言葉が飛び出してきた。
「背中にゴミみたいなのが付いてるわよ。黒い……あれ、白、赤、なにコレ、知らない虫!?」
「えっ」
「……あれ、なくなった? 気のせいだったみたい」
小さく姿を隠しているバクが普通に視えるのか。そもそも、視るのに第六感だとか霊感だとか、そういうのはいらないのか。
「母さんって霊感とかある?」
「はあ? ないと思うけど」
「なるほど、了解!」
サトルは大急ぎで自室へ戻った。自室へ着きドアを閉めるなり、バクはサトルの苦労をつゆ知らず、ゲラゲラと大笑いをかました。
「あの返事の仕方は実に面白かった。かなり傑作だったぞ」
「おまえさ、ちょっぴり出ただろ! もう勘弁してくれよ!」
「まあ気楽にいこう。何とかなるさ。なっ?」
「この減らず口がーっ!」
一人と口だけの部屋に、切実な怒鳴り声が響いた。
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