第三話 狸合戦。5
ぽつりと、雨梨は呟いた。
窓の外でも、ぽつり、またぽつりと雨が降りはじめている。その視線の先に、暗い緑に覆われた名もなき山がある。
狼のいない山が。
「あれ、と思った。化けるのが上手い連中がこの戦で大勢死んだってのは分かるんだ。
だが、それにしても山で狼とすれ違わなくなったな、と。……そんなときに、ふと、こんな噂を聞いた。ちょうど文明開化、そんな頃だったか――」
記憶を呼び起こすように雨梨は言う。
「人里に下りてった仲間の狸に聞いたんだ。なんでも、狼を捕まえた奴には懸賞金を出すって話」
「懸賞金……」
久しぶりに吉川さんが言葉を放ったような気がした。
「うん。だからもう安心しろよって。今、人間たちが競って狼狩りを始めてるよって。ほら。今も。鉄砲の音が聞こえたようって。お前も気をつけろってさ」
お腹に響く猟銃の音。撃たれる仲間。仲間を大切にするという狼たち。そんな時でも、彼らは撃たれた仲間の元から離れることなく、その場に留まっていたのだろうか。
――いたんだろう。
「明治三十八年。ニホンオオカミの絶滅が確認された。たしか東京の、どこかの民家に現れた一匹の狼が、確認できた最後のニホンオオカミだったか。俺がそれを知ったのはもうだいぶ後になってからだ。新聞か、何かだった気がするけど。もう、忘れた」
雨梨が大きく大きく溜息をついた。
そしてぐっ、と伸びをする。
「正直、奴らの存在は疎ましかったんだよ。同じ獣の癖に。あいつらは崇められて、狸は煙たがられ迫害されて。山の中ですれ違ったりすれば戦々恐々さ。逃げるしかない。喰われちまった仲間も大勢大勢見てきた。あとはそうだなあ……。世渡り上手な狸なんかは街に下りて人間に紛れて暮らしていたからね。役人に化けて甘い汁啜ってる奴らもいたんだよ。で。そんなときにあいつらは見計らったみたいなタイミングで山から下りてくるんだ。講談なんかであるだろう? 犬に吠えられる化け狸の話。あ、まず講談を知らないか。いいや。まあさ。そうやって人里に奴らが現れるとバレちまうんだよ。臭いで。そんで追われる狸っていうね。笑い話さ。……は。全くいい気味だったよ。いなくなってせいせいした。けどさ」
まるで誰かに言い訳しているみたいな早口で雨梨は語った。俯いたその瞳は前髪に覆われ、あたしの側からは見えない。
「江戸から明治――あの時、日本中で、間違いなく、狸たちが狼に対する恐怖を助長していたんだよ。俺らの悪ふざけで……化かしあいで、功名心で、一時の感情で……ひとつの種が、大昔から当たり前に俺たちの隣にいたような奴らが、この日本から――この世から消えて失くなったんだよ」
雨梨は続ける。
「そういう意味じゃあ、俺は平成狸合戦はけっこう冷ややかな目で見つめていたね。全く大御所連中が寄り集まってなにをやってるんだかって……。金長に禿――たしかにあんたらは俺らの戦いとは無縁だったんだろうさ! それでも、知らないわけじゃないだろうに。俺らの仕出かしたことで一体何が起こったのか」
少し、声音が変わっている。本当に腹を立てているみたいだった。先程とは違う、静かな怒り。
雨梨は俯いた顔を上げ、少しだけ声を張り上げるようにした。
長い話を終わらすみたいにした。
「あの時さあ! 思ったんだよっ。もう俺は一生人間を驚かさないで生きていようって。誰かを騙すことなく、誰かを嵌めることなく。なにかに化けることもなく。妖怪ではなく獣のように。ひっそりと、ひっそりと暮らして生きていこうって」
「…………」
「…………」
「おしまい」
あたしと吉川さんが、いや、教室中にいるみんなが何の言葉も発せずにいる中、元の雨梨に戻ったみたいな、ダウナーで、あっさりとした声が響いた。
「…………」
「…………」
「……え? なに?」
拍手の音が響いた。ぱちぱちと拍手の音に合わせて蛍光灯が瞬いた。誰かがやっと電気を点けてくれたようだった。
雨梨は目をぱちくりさせてから訝しげに教室に散らばる居残り組を見てから、
「は?」
と、呟いた。
あたしは言うことにする。拍手に負けじと言うことにする。
「お前~っ!! 用意してただろ!? んだよあの兎の下りとか!! こういうことがあってもいいようにストックしてあっただろ!?」
「はあっ!? してねーーーーーからっ!! 狸合戦参戦なんていきなしわけのわかんねーお題出してきやがって!!」
「そりゃあ毎回こっちの台詞だっ」
「雨梨さん!」
「へ?」
あたしと雨梨の言い合いに吉川さんが横から割り込んだ。手がぎゅっと握られている。賞賛の拍手が止み、けれど、その賞賛をそのまま引き継ぐようにして吉川さんは告げる。
「感動しましたっ!」
「あ、ありがとう?」
「弟子入りさせてくださいっ!」
「お断りさせてください」
「はあっ、もうっ! 私、即興でこんなお話を作れる人がこの世にいるんだと本当に感動してしまいました! 遠回りしてから真実が判明したときのあの驚きっ! 私だって日本で狼が絶滅したことは知っています存じています。だからこそ! 徐々に分かってくる狼たちの悲しき結末とそれを引き起こしてしまった雨梨さんたち狸の心境が伝わってきたときに訪れるこの胸の虚無感がっ! ああっ! 堪らないっ! 史実と虚構を織り交ぜてひとつの壮大なストーリーを紡ぎ出した雨梨さんの手腕たるや! 私、決めましたっ! 今日家に帰ったら平成狸合戦ぽんぽこ早速観てみますね!」
「ああ、そう」
興奮した吉川さんにぶんぶん腕を振られて雨梨が引いていた。しかし、雨梨は納得がいかぬようにぶんぶんやられながらも「う~ん」と唸って漏らす。
「わたし的に最後のわたしの扱いとかだったらどうして今人間として生きているのかとかそこは狸憑きに罹っていたってことにしたかったってのもあるし佐渡の団三郎狸の扱いとかもっと言うとこの土地の史実も織り交ぜたりしたかったんだけど……ま、いっか」
「その飽くなき探究心っ! よっ! 日本一っ!」
「うざい」
ただでさえおかしな吉川さんに雨梨の太鼓持ちという属性が加わろうとしていた。放っておいたらこのまま雨梨の手を取ってミュージカル映画みたく歌って踊りだしそうだ。
あたしは、
「はいはい。じゃ、もういい時間だし帰るよ」
と、雨梨と吉川さんの手を無理やりひっぺがすと、机に掛けてある鞄に手を伸ばして背負う。
「待てよ」
雨梨が止めた。
動き出そうともしない。座ったままで。
あたしは背を向けたまま返した。
「なに」
「あの」
あたしたちふたりの声のトーンからいきなり喧嘩みたいな雰囲気になったと思ったのだろう、吉川さんがおろおろとしだす。なんとなく罪悪感。
「なに」
「点数」
その言葉に、その問いに、あたしはなるべくぶっきらぼうに聞こえるように、なんでもなく聞こえるように、雨梨からは顔が見えないように――背を向けたまま答える。
「百」
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