第三話 狸合戦。4

「……狂、犬病?」

 その言葉はあたしに奇妙な現実感を乗せて響いてきた。喉元が石を飲み込んだみたいに次の言葉が継げないでいる。そうは言っても、今まで狸合戦なんていう分かりやすい創作を語っていたのに、突然、今でも世界では問題になっている(?)らしい病名(ワード)が出てきて反応に困るというかなんというか。狸との繋がりもよく分からなかった。

 しかしだからこそもやもやする。

 創作と現実がぐらぐら揺れている気分。

 あたしが応えないからだろう、チラリと視線を向けてから吉川さんが口を開いた。

「狂犬病ってあの……、その病気を持った犬に噛まれたら必ず死んでしまうという……」

「そうだね。今でも発症後の有効な治療法は存在しないと言われている死に至る病。日本だとすでに根絶されていると言ってもいいけれど、世界に目を向けてみれば、未だ年間五万人は死んでいる。人間以外の動物に限っちゃ年間数十万頭。症例としては幻覚症状、錯乱症状、凶暴化。中でも有名なのは喉の痙攣によってもたらされる恐水症だね」

 雨梨は続ける。

「一七三二年。亨保十七年、日本の西国で病狼が出現した」

「びょうろう?」

 吉川さんが訊き返す。

「狂犬病を発症した狼。病狼。日本では既に絶滅されたとされる狼だけど、その時はまだ山にたくさんいたんだ」

「狼……」

「そう。古くからニホンオオカミは大切にされてきたんだ。狸にとっちゃあ天敵だから恐怖の対象だけど、人間たちにしてみれば農作物を荒らす害獣――狸や狐や鹿や猪――を退治してくれるいい奴らだった。信仰対象と言っていいかもしんない」

「へえ」

「狼は群れで行動する。彼らの仲間に対する想い、忠誠心は他の動物に類を見ないほど。そして皮肉なことに、その習性が狼に狂犬病を蔓延させる大きな原因となった。言ったように、西国で発生した狂犬病はじわじわと東国へ広がっていった。一七三二年。その年を境にして、信仰の対象だった狼は日本中で恐怖の象徴へと成り代わった」

 成り代わり。

 今では絶滅したと言われるニホンオオカミ。

 狼は犬の近似種だ。

 うちも柴犬を飼っているから分かるが――、その話を聞いてから、うちの犬のあの懐きっぷりを思い出せば……、例え仲間がどんな病に見舞われても、決して見捨てることがなかっただろうなという想像はつく。悲しいが、想像は出来る。

 だけど。

「それが、なんなの?」


「知らない? 狸はさ。狂犬病に掛かるんだよ」


 狸とどう関係が、と続けようとしたところで、雨梨は被せるように言ってきた。

「ああ」

 その言葉にここまでの話の全てが繋がったような気分になった。

 察しが付いたのだろう。吉川さんも悲しげに瞳を伏せ、だけど、息をつき、少し安心したみたいに尋ねる。

「つまり、未だ絶滅していなかった狼……狂犬病に罹ってしまったニホンオオカミと戦っていたということなんですか? 狸……雨梨さんたちが」

「違うよ」

「え?」

「言ったろ? 狸合戦だって。悪魔でも戦っていたのは狸と、狸だ」

 雨梨が手にしていた飴をようやく口に含んだ。

「そしてこれも言ったろ? 俺たちゃあ、誰かを驚かすのが大好きなんだって」

 何時の間にか一人称が変わっている。どこまでも演出に余念がない奴。いや、そんなことより、そうすると――……。

「あ――。あ……!! まさか……っ!?」

 思い至ったのだろう、吉川さんは驚愕に目を見開く。たぶん、あたしもおんなじ顔をしているはずだ。あたしたち、ふたりのその反応に満足したかのように、雨梨の唇がにんまりと笑みを形づくった。

 そうして、告げる。


「狂犬病に罹った狼に化けたんだ。狸相手に」


 くつくつと。

 喉の奥で笑う。おかしそうに。目の前にいる誰かを馬鹿にしてるみたいに。

 誰も彼もが言葉を発しない中、暗がりの教室で、雨梨の、その独特で不快な笑い声が響く。

 たぶん、あたしたちの脳裏に浮かんでいるのは共通したイメージだ。

 暗がりの森の中、狸の群れに一匹の、狂い、涎を垂らした狼が、襲ってきている。いいや、狼は群れで行動するんだったか。ならば、これよりもっと恐ろしい構図が。それこそ日本全国の山々で――。

「おかしかったなあ」

 想いを馳せるように。

 夢みるみたいに。雨梨は言う。

 口から出した飴玉は雨梨の唾液でてらてらと光っている。

「涎垂らしてさあ。首を左右に振って狂ったみたいに群れン中に駆けていくんだよ。ハアッ、ハアッ、ハアッ……! って。あの頃にゃあ、もうどこの山ン中でも、病に罹った狼の噂はあったからさぁ。そうすっとさ? やってるこっちがびっくりするくらいに大慌てで逃げていくんだよ。狸の群れが。小物大物関係なくね。あーいやあ? むしろ、名のあるお偉い狸にこそ競ってやったなあ。傑作だったのはさ! 死んだふりしながらぷるぷるぷるぷる震えている奴な! 中にはションベン漏らしながら死んだふりしている奴もいて。ありゃあどこのどいつだったか――」

 ダンッ、と話の途中、雨梨が突如また机を叩く。今度は脚じゃなく手であった。視界の端で男子たちの肩がびくんと跳ねたのが見える。

 雨梨が、先程から何も言葉を発せないでいる吉川さんを指差す。

「思い出した!」

「へ? へ?」

 吉川さんの顔は真っ青になっている。対して雨梨の顔は、赤く、どこか怒気を孕んでいるようだ。

 雨梨が腕をぐっと伸ばし、吉川さんの肩を抱いた。そして大きく揺さぶる。吉川さんは呼吸が浅くなっている。

「思い出した思い出した思い出した! いやあ、あんたのお陰さあ! 俺のこと騙しやがったあのクソ! あのクソみたいな兎なあ! 言ったろう!? 俺、ガキの頃その兎にこっぴどく騙されたんだよ! 本当に本当に。何度何度殺してやろうと思ったことかッ!

 ……そんでさあ、この遊び思いついた瞬間、真っ先にあいつに試してやろうとしたわけさあ! ほらほら兎だって狂犬病は例外じゃねえだろう? そんでそんでとうとう見つけ出して! やってやったんだよ! そしたらあのクソ……くつくつくつくつくつ……泣くわ喚くわもう傑作で傑作でなあ! 逃げて逃げて逃げて! 逃げたところをふん捕まえて、ちょっと傷付けてまたわざと逃してふん捕まえて逃して傷付けてふん捕まえて逃して……その繰り返しさあ。いやあ! あのとき俺が味わった以上の苦しみをあいつには味あわせてやりたくてなあ」

 そのまま上機嫌で、心底からおかしそうにくつくつと嗤った後に、雨梨はす、とその嗤いを引っ込めた。同時に肩を抱いた姿勢も解く。

「当然、こんなこと考えるのは俺だけじゃあなかった。俺は仲間にこの遊びを広めたし、そいつらだってまた広めた。俺たち以外の狸だって思いついて実行しただろう」

 その後は。

 そうなってしまえば――

「地獄絵図」

 雨梨は語った。

 平和な山の中が一転、地獄絵図に変わった。ただでさえ捕食される関係にあった狸。狼に狂犬病が蔓延したことにより、それまで辛くも難を逃れることができた仲間を、狼の牙が掠めたというただそれだけの理由で見捨てるしかなくなってしまった。酷い時には逃げる一匹の子狸を集団で殺しもしたという。そして、そこに来ての狸たちの悪ふざけ。止める者はもちろんいた。しかし、所詮我らは畜生。言っても聞きやしなかった。むしろ、そうして咎める者にこそ狸たちは好んで化けた。自分だって化けた。狂犬病を患った狼へと変化した。これを機に名のある狸に下剋上を目論む輩までいた。上手い奴は本当に見分けが付かなかった。山中が疑心暗鬼に陥った。目の前にいるのが狸なのか狼なのか。はたまた狐か。緊張感は否が応でも増し、昼も夜も眠れない日々が続いた。苛々が増し、判断力が鈍り、そこかしこで小競り合いや諍いが起きた。それがやがて血みどろの戦争にまで発展するのにさして時間は掛からなかった。この疑心暗鬼状態を抜けだせるのならば。元の生活に戻れるのならば。己の家族や群れ以外を全て排除してしまえば。

 ――浅い考えに基づいた最低最悪の戦だった。

 戦には、狂犬病を患った狼に化け、相手の油断を誘った。


「気づけば、山の中から狼たちの姿が消えていた」

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