第6話 緑の公国からの使者

 キッドが王の間にたどり着くと、そこにはルルー王女と近衛騎士達が並んでおり、その前に立つ緑の公国の使者が目に入った。使者は白地に緑色の意匠が施された軍服、白いスカート、黒タイツという、緑の公国の外交用の正式な装いに身を包んでいる。キッドにとって、その服は見慣れたものだったが、肩まで届きそうな金色の髪を揺らしているその使者の後ろ姿は、彼の記憶に深く刻まれていた。幾多の戦場で、魔導士であるキッドを守るため、いつも彼の前に立ち続けてくれたその背中を、忘れはずがなかった。


「ミュウ……」


 その名が、キッドの口から自然に漏れた。静まり返った王の間に、彼のつぶやきが響き渡る。その瞬間、緑の公国の使者が敏感に反応し、くるりと振り返った。


「キッド!」


 振り返った緑の公国の使者ミュウの顔には、まるで花が咲いたかのような微笑みが浮かんでいた。最後に別れた時の、痛々しい彼女の顔がずっと心に引っかかっていただけに、キッドは今、目の前にいる彼女の穏やかな笑顔に、ほっと胸を撫で下ろした。

 その様子に気づいたルルー王女が、キッドの方へ視線を向ける。彼女の表情には、珍しく困惑が浮かんでいた。


「キッド様、よく来てくださいました。このかたが緑の公国の使者として来られたのですが……」


 山小屋に彼女が訪れたとき以来、キッドはこんな困り顔を見たことがなかった。一体、どんな話が進んでいるのか、キッドの胸の内がざわつき始める。

 そんなキッドの心を知ってか知らずか、ミュウは再びルルー王女に向き直り、背筋を伸ばして毅然とした態度で語り始めた。


「キッドも来てくれたことですし、改めて、我が国の公王ジャンの言葉を伝えます」


 彼女の声には、女性でありながらも凛とした威厳が感じられた。その姿は、決して動揺を見せない堅固なものであった。


「ジャン公王の即位と共に、キッドの名誉は正式に回復され、爵位剥奪も撤回されました。それに伴い、キッドは引き続き緑の公国の宮廷魔導士としての地位を保持することになります。我が国の宮廷魔導士が他国に長期間留まることは、外交問題に発展する恐れがあり、紺の王国には速やかなるキッドの身柄の返還を求めます」


 ミュウの宣言は、まるで鋼鉄の鎧で守られた言葉のように、力強く、揺るぎない響きを持っていた。キッドからはその顔が見えないが、彼女が物怖じせずに他国の王女に対峙している姿が、彼にはありありと浮かんでいた。これが彼女、ミュウの本質なのだ。どんな状況でも自分を貫き通す、そんな彼女の強さをキッドはよく知っていた。


「……ということをおっしゃってまして……。正式な書状も持参されています」


 困惑したルルー王女は、助けを求めるかのように、切実な眼差しでキッドを見つめた。彼女のいつもとは違う表情に、キッドは深く息を吐く。


(ミュウには、俺がなぜ紺の王国に行くのか話したつもりだったのに……)


 ミュウは自身の戸惑いを抑え、ミュウに歩み寄った。彼の足音に気づいたミュウが振り返り、まるで勝ち誇ったような表情を浮かべている。


「キッド! 私と一緒に緑の公国に戻ろう!」


 ミュウの言葉を無視して、キッドは彼女の腕をしっかり掴むと、そのまま引き寄せるようにして王の間の外へと連れて行く。


「キッド様!」

「キッドさん!」


 背後で、ルルーとルイセの声が響く中、キッドとミュウは廊下へと消えていった。




 キッドは、ミュウを近くの空き部屋まで引っ張って行き、そこで二人きりになった。

 部屋の扉を閉め、振り返った彼は、ミュウと向かい合う。


「キッド、迎えに来たよ!」


 無邪気な笑顔を向けてくるミュウに、キッドは思わず頭を抱える。状況を理解していないわけではないのに、彼女の態度はキッドの知っているミュウの態度と変わらない。逆にそれが、彼の心に重くのしかかる。


「……ミュウ、俺がこの国に来る目的は話したよな。この国が力をつけて、緑の公国の同盟国になれば、黒の帝国にも対抗できるんだ。これは必要なことなんだよ」


 キッドの言葉は真剣だったが、それがミュウの心に届くかどうかは別の問題だ。彼女は、キッドの目をまっすぐに見つめ返し、微塵の曇りも見せない。


「私は納得したなんて言ってないから!」


 彼女の瞳には、強い意志が宿っていた。引くつもりなどないことは、キッドにとってはすぐにわかることだった。彼女がただ従順なだけの女の子でないことは、キッド自身が一番よく知っている。ミュウは、自分が正しいと信じることを、決して曲げないのだ。


「確かに、それはそうだけど……」


 キッドは深いため息をつきながら、考え込む。ミュウの決意が固いことを知っているだけに、彼女の反応をどう捉えればいいのか、困惑していた。彼女がただ感情的に突っ走るのではなく、冷静に戦略を立てる賢さとしたたかさを持っていることも、キッドにはわかっている。だからこそ、彼女が外交手段を使ってまで彼を連れ戻しに来たことに驚かされた。


「キッドが私の話を聞いてくれないから、こうして外交的手段で連れ戻しにきたんだよ! もちろんジャンも私と同じ考えだからね!」


 ミュウの言葉には、確固たる信念と共に、彼女自身の決意が込められていた。その上、彼女がジャン公王の支持を得ていることも、事態をさらに複雑化している。これはもはや、キッド個人の意思だけでは解決できない問題に発展している。


「……とにかく、今の俺は、まだ緑の公国に戻るわけにはいかないんだ」


「まだってことは、ちゃんと緑の公国に戻るつもりはあるんだよね?」


 ミュウの目に強い光が宿り、キッドを射抜く。


「うっ」


 キッドは思わず言葉に詰まる。

 元々、キッドは緑の公国に戻る日を待ちながら山奥で時を過ごしていた。ルルー王女の願いに応えて紺の王国に来たのは、隣国の紫の国や黒の帝国の脅威から彼女を助けたいと思ったからだ。

 だが、その脅威が排除され、彼女を助ける必要がなくなったとき、彼は自分がどうすべきか考えたことがあっただろうか。そして、その時、ルルー王女やこの国は自分を必要とするのだろうか。そんな不安がキッドの心をかすめた。


「ちょっとキッド、どうしてそこで言葉に詰まるのよ!」


「と、とにかく! 今の俺はこの紺の王国の軍師だ。少なくとも今は、緑の公国に戻るわけにはいかない」


「軍師? 宮廷魔導士とかじゃなくて? どうしてキッドが軍師なんてやってるのよ!? ……いえ、それより、戻るわけにはいかないってなによ! じゃあ、いつになったら戻るの!?」


「俺には俺の考えがあるんだよ! とりあえず、帰ってジャンにそう伝えてくれ」


 ミュウの表情が、急にふてくされたものに変わった。ルイセとは対照的に、彼女の顔はその時々の感情を隠さずに映し出す。その素直すぎる表情が、キッドの心を揺さぶった。


「……やだ」


「やだって、お前……」


「キッドが一緒に戻ってくれないのなら、私は使者としての使命を果たせてないってことじゃない! だから、キッドが戻るっていうまで、私もここに残る!」


「おいおい、緑の公国だって黒の帝国に備えないといけないのに、公国の三英雄の一人がこんなところで無駄に時間を過ごしてたら困るだろ!」


「そう思うなら、キッドこそ、さっさと緑の公国うちに帰ってきなよ!」


 キッドはミュウが言葉で引き下がるような人物でないことをよく知っていた。彼女の強い意志を前に、キッドは苦笑しつつ、深いため息をつくしかなかった。軍の整備が順調に進んでいた矢先に、またしても厄介な問題が持ち上がったのだと、彼は思わず頭を抱えた。




「――というわけで、ミュウの部屋を用意してもらえますか? 私用で来たのならともかく、まがりなりにも使者として来ているので、無下な扱いをするわけにもいきませんので」


 キッドは、ひとまずミュウを王城内にある自分の部屋に連れて行った後、再び王の間へ戻り、ルルー達に説明を始めた。自分が緑の公国に戻るつもりがないこと、そしてミュウが当面この国に滞在することを話すと、ルルーの不安げな表情が少し和らいだ。


「……よかった。キッド様はこの国に残ってくださるのですね」


「ええ、まだ俺はこの国でルルー王女のために何も成し遂げていませんからね。今この国を離れるわけにはいきません」


「……命拾いしましたね。私を強引に軍師補佐にしておいて、自分だけさっさと緑の公国に戻るなんて言ったら、刺し殺すところでした」


 後ろでルイセが不穏なことをつぶやいていたが、キッドはそれを聞かなかったことにした。


「キッド様の言葉を聞いて安心しました。キッド様自身が戻る決意をされたのなら、私の方ではもうどうしようもありませんから。ジャン公王には、私の方からも使者を送り、我が国がキッド様を不当に自国に留めているわけではないことを説明いたします」


「黒の帝国に対抗するには、緑の公国との連携が必要になってきます。本来なら俺が説明に行くべきところですが、今はその時間も惜しい。両国の関係が崩れず、穏便に進むよう、よろしくお願いします」


「お任せください」


 ルルー王女は力強くうなずいた。彼女にとって、キッドが緑の公国に戻ることが最大の懸念だった。しかし、キッドにそのつもりがないとわかった今、彼女にはもう恐れるものはない。外交に関しては、ルルー自身でなんとかできる分野だ。彼女は、必要であればどんなことでもする覚悟でいた。



「よろしくお願いします」


 ルルーに頭を下げながら、キッドは心の中で問いかけていた。「まだ緑の公国に戻るわけにはいかない」とミュウに伝えた自分は、この国にいつまで留まるつもりなのだろうかと。だが、その答えはすぐに出そうにはなかった。

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