雪。:温泉を巡る物語
蓮見庸
雪。
雪。
空から舞い落ちる一片の
電信柱に隠れるように、ひとりの少年が立っている。体に不釣り合いなほど大きな黒い長靴を履いて、黄色い雨傘を差していた。
傘で半分隠れた顔は、悔しいような怒っているようなそれでいて寂しそうな表情でこちらを見つめていた。
「……………」
私はその少年に、何か言わなければならないはずのことを口に出そうとするが、どうしてもその言葉が出てこない。
しんしんと降り積もる雪は私の足を膝まで覆った。
やがてあたり一面は吹雪となり、その少年と目に写っていた景色のすべては白くかき消されてしまった。
*
ここは東北地方の小さな温泉街。古くから信仰の対象となっている山の麓にあり、傷に効くという温泉が湧く
私は借りた車でこの温泉街を目指し、刈り取りが終わった物寂しい田園地帯を通り抜け、山奥へと向かった。そして急に空が開けたかと思うとそこは広い台地で、草っ原の中の一本道を走った。しばらくすると今度は山を下り、ようやくのことで温泉街の集落が見えてきた。
宿に着いた頃には、もうとっぷりと日が暮れ、建物と建物の境界も
私は子供時代のある時期をここで過ごしたのだったが、それはもう何十年も前の話だ。今回偶然にも近くへ来る用事があり、思い立ってここへ来たわけだが、山の麓は日が暮れるのも早く、風景や町並みに当時の面影が残っているのかどうかさえもわからなかった。
道に沿って建てられている木造の宿は、湯治に使われた昔ながらの姿そのままだという。そうだとすると、私がいた当時もこの宿はあったのだろう。主人に案内してもらった二階の部屋は、廊下とは
部屋に荷物を置いた私は、冷えた体を温めようと、さっそく宿の内湯へ向かった。
先客はなく、電気のスイッチを入れ扉を開けると、淡いオレンジ色の照明に照らされた石造りの浴場は、濃い霧のような湯気で満たされていた。
畳一畳分くらいの小さな浴槽と十人以上は入れそうな大きめのふたつの浴槽。お湯は惜しげもなく
すっかりお湯に体を慣らして浴槽に足を入れた。冷たい指先がしびれるようだった。
ゆっくりと肩まで浸かり、ふうとひと息つく。
換気のためか、少し開けられたガラス窓からは、時折、晩秋の冷たさを伴った夜気が忍び込み、そのたびに湯船の表面から絶えず立ち昇る湯気が揺らめいた。
お湯は
目をつぶると、ただお湯が湯船へと静かに流れ落ちる音と、風の音だけがあった。
部屋に戻りほてった体を冷ましていると、主人がお膳に載せた夕食を運んできた。
襖を開け、空になったお膳を廊下に出した時、ガラス越しに外を見やると、浴衣を着て宿の明かりに照らされた路地を歩く二人連れの姿が見えた。
なんとも
路地の両側に建つ宿の部屋の明かりや、軒先の
吐く息が白かった。
身震いをしながら夜空を見上げると、建物で切り取られた暗く狭い空に、星がちらちらと
「今晩は一段と冷え込みますね。そろそろ雪が降ってもおかしくありません」
玄関から出てきた宿の主人はそう言うと、軒先に置いてあった鉢植えの小さな植木をしまい、足早に奥へと引っ込んでいった。
風が出てきたようで、カタカタと窓が鳴っていた。
翌朝、まだ薄暗い通りで開かれていた朝市。その店先に並んだ野菜や漬物を見ていた時からぽつぽつと降り出した雨は、北西からの強い風を伴った本降りとなった。
朝食の後、宿を発つ前に共同浴場に行ってみようとタオルを手に玄関まで下りてきたものの、傘も役に立ちそうにないこの雨だった。
外に出るのをためらっていると、宿の主人が奥から顔を出した。
「気温が下がると雪になるかもしれませんね」
それから主人とこの土地のこと、そして他愛もないことをしばらく話し込んだ。
雨は一向にやむ気配がなく、ガラスの
「お昼からは雨も上がるようですから、もう少しお部屋で休んでいてはどうですか」
そう主人に勧められ部屋へと戻り、ストーブに火を入れた。
………夢を見ていた。
石油ストーブの炎がぽっぽっと音を立てて燃えていた。
夢の中の自分に居心地の悪さを感じながら、私は空虚な気持ちで目を覚ました。
時計を見るとほんの数分のことだったが、いつの間にやら眠ってしまっていたようだった。
ガラス窓に叩き付ける雨の音。
ぎしぎしと廊下を歩いていく誰かの気配があった。
お茶を入れ、しばらく夢に出てきた少年のことを思い出していた。
ざあっという雨の音が急に静かになり、襖を開け外を見ると、白いものがはらはらと舞い出していた。
「はい、男湯はそっちね」
共同浴場の受付でチケットを渡す。
脱衣所とガラス扉だけで仕切られている浴場は、真っ白な湯気に包まれていた。
タオルを手に、建て付けの悪い扉を少し力を入れて開けると、湯気に混じった硫黄のにおいがやさしく体にまとわりついてくるようだった。
浴場には洗い場はなく、十五人ほどが入ればいっぱいになりそうな、石造りの湯船がひとつだけある。先客が四、五人、黙って静かに湯に浸かっている。私は年季の入ったすこし重い木の桶を手にすると、湯船からお湯をすくい、さあっと足にかけた。
タオルを縁に置き湯船に浸かると、お湯の表面がゆらゆらと揺れた。手を伸ばし、手のひらを見た。
目の前を覆っていた白い湯気は、濃くなったり薄くなったりしながら漂っている。
お湯が体に染み渡るような感覚を味わいながら、何とはなしに窓の方を見ていると、お湯が流れ出てくる所に石像が置かれていた。
それはお地蔵さんだった。どうしてこんなところにお地蔵さんがいるのだろうか。
そういえば…。
その姿を見ていると、この石像にお湯をかけたり、
その時になって急に思い出した。
子供の私がこの温泉街へ来たその日から、とても仲のよい友達ができて、毎日時間を忘れて遊んだことを。
どうしてこんなことを忘れてしまっていたのか。
夏には川に入り、虫を捕り、薬師神社の小山に登ると、遠くにはまだ雪の残る山々のなだらかな頂きが見え、秋になると鮮やかな夕暮れ色に染まった。神社の前から温泉街を見下ろすと、なぜか少し偉くなったような気持ちになった。
そして夕方になると、私と少年は決まってこの温泉に入ったのだった。
私は温まった体で共同浴場の外に出た。
雪は大きな
静まり返った温泉街の真ん中に、ひとりの少年が立っていた。
その顔はなぜか怒っているような表情をしてうつむいていた。
少年と過ごした日々は毎日が輝き、あっという間に過ぎ去っていき、冬が近づいた頃に私はまた引っ越すことが決まった。
そしてここを離れる前の日、少年と
翌日、雪が降っていた。積もり始めた雪の中を少年はひとりでやって来た。
私は嬉しかったが、けれどどうやって話をしていいのかわからず、お互い黙ったままで迎えた別れの日。
彼とはそれっきりだった。
その後、彼は不慮の事故で亡くなったと聞かされた。
時間は永遠にあると思っていた子供の頃。
いつでも会えると思っていた友達。
しかし世界はそういう風には出来ていないことを知った悲しみは、成長するに伴って現実感をもって心の隙間に入り込み、その空虚な心はいつしか私を押しつぶしていた。
ふと気がつくと、私の隣にあの頃の自分が立っていた。
わずかに口を開け、小さな声で何かを
「昨日は、ごめん」
どうしてあの時、そのひと言が言えなかったのだろう。
「ぼくが悪かった。また遊びに来るから。離れてても、いつまでも、ずっと友達だよ…」
私はその幼い自分に姿を重ね合わせ、重い口を開かせるように声に出した。
すると少年も口を開き、何かを言ったようだった。
少年が顔を上げると、怒っていたのだと思っていた表情は、そうではなく、涙をこらえるために口元をぎゅっと結び震わせていたのだった。そしてふっと笑った瞬間、大粒の涙が止めどなくこぼれ落ちた。
「ずっと、ずっと忘れないから!」
はっきりと思い出したその少年の顔を見ながら、私は大声で叫び、堪らず
雪が溶け山桜が咲き、蝉時雨を聞きながら沸き立つ入道雲はそのまま夜空を流れる天の川に変わり、たわわに実った柿と赤や黄色の燃えるような紅葉、そしてまた雪が降ってきた。それは少年が私に見せたいと言っていた風景だった。
私のまわりの景色が目まぐるしく移り変わり、急に時間が動き出したようだった。
空から白い
まるで桜の花びらが舞い散るように。
少年と思いが通じたかのように。
私の心の隙間を埋めるように。
いくつも、いくつも。
雪。
雪。:温泉を巡る物語 蓮見庸 @hasumiyoh
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