第2話 独身宣言
「これで最後っと!」
弟の
首にかけた白いタオルで額の汗を拭いながら、ふうっと大きく息を吐く。
私の荷物はさほど量も無かったけれど、それでも一人で運んでいたらすごく苦労しただろう。悠樹が手伝ってくれたおかげで、思いのほか早く運び込むことができた。
「ありがとうね。悠樹が来てくれて、お姉ちゃん助かっちゃった」
お礼を言って、用意しておいたペットボトルのお茶を手渡すと、悠樹が顔をくしゃっと笑顔に変える。
「へへ、別にいいよこれくらい。俺も今日暇だったんだし。さすがに母さんとか、父さんには頼めないのわかってるしな」
言って、悠樹はまだ少しあどけない笑顔を見せた。大学生と言ってもまだまだ子供らしさが残るその表情は、今の私には少し眩しく見える。
実際まだ十九歳の悠樹は、五つ年上の私からすればいつまでも可愛い弟だ。顔の造りも良いので、さぞモテているらしい。元々明るい髪にくりっとした瞳が女の子達の目を引くのだろう。
おかげでお姉ちゃんはちょっと心配だ。
そんな私の気持ちとは逆に、悠樹の方から心配げな表情を向けられて、私は一緒に飲んでいたペットボトルから口を離した。悠樹は一瞬探るような眼をして、けれど次の瞬間には軽く肩を竦めて笑った。
「……何があったんだか知らないけどさ、これっていわゆる別居だろ? 金だってもったいないし、なるべく早く仲直りしろよなー」
悠樹はそう言いながら、ダンボールの蓋を順番に開けていってくれる。
私はわかったとだけ答えて、荷解きを進めた。
―――あの人に、別れたいと告げたのが昨日。
昨日を迎える為に、私は少しずつ自分の荷物をまとめていた。
気づかれる心配は無かった。だって、お互い別々の部屋で過ごしていたのだもの。
悠樹は私があの人と暮らしていた家を離れて住む事を、喧嘩しての別居だと思ってる。
若さ故なのか、それほど深刻なものではないと考えているようだ。
けれどそれは全く違っていて。
私は本当の事を、悠樹にすら話せていない。
私は今日からあの人と別々の道に進むと決めた。
哀しさと寂しさが溢れた、あの生活を捨てて。
彼の所に置いてきた離婚届。
今日あたり、彼が提出するんじゃないだろうか。
家族に言うのはそれが終わってからでいい。でなければ、必ず反対されてしまうと思うから。
「けどさー。別居しちゃうくらいの喧嘩ってどうなんだよ。彰人さんってほぼ完璧じゃん。男の俺から見ても、すげー落ち着いてて大人だしさぁ。喧嘩とか、しそうに無いんだけどなぁ」
「そう……ね」
悠樹がそう言うのもわかる。
彼は確かにスマートで、何でもそつなくこなす。それは結婚も同じ。
喧嘩なんてしたことがあるわけがない。だって彼は私に対して感情を表に出すことなど無かった。
もっと言えば一緒に過ごした時間すらほとんどなかった。
部屋は別室で、出勤も帰宅も私から見送り出迎えなければ顔を合わせる事も無かっただろう。
なぜ結婚などしたのかわからないほど、彼は私との接触を避けていた。
私とて、四年間の結婚生活で妻として認めてもらうための努力はした……したと思う。
朝は彼よりも早く起きて朝食の準備をし、時間が来たら彼の部屋のドアをノックして知らせて。
自分の部屋で着替えをすませた彼が無言で食事を終えた後、「必要無い」と毎日告げても、それでも必ず用意した。
夜の帰宅がどれほど遅くとも起きて待っていたし、夕食も必ず作っていた。
洗濯は彼が自室に置いて定期的にクリーニングに持って行っていたようなのでできなかったけれど、その分リビング等の共有場所の掃除は毎日念入りにしていた。
おかげで、今では某大手クリーンサービス会社に勤務できるほどになった。
私達の四年間の結婚生活は夫婦として過ごしたというより、同居人に近い関係だったと思う。
接触は最低限、お互いの生活には私から干渉しない限り基本ノータッチで。
それでも四年続いたのは、私が食事を作ったり掃除をしたら彼がその都度反応を見せてくれたからだ。
食事を出せばいらないと言いつつも食べてくれるし、部屋を綺麗にしたら「
喜びも怒りも、感情らしいものを示したところなど見たことが無かった。別れの言葉を告げるあの瞬間までは。
私と彰人さんは、今時珍しいお見合い結婚だ。
二十五歳になった年のクリスマス、父親が上司からどうしてもと言われて断りきれずに受けたお見合いで、私は須藤 彰人さん……昨日別れを告げた、あの人に出会った。
その時の彰人さんの様子を、今でもはっきり覚えている。スラリとした長身に、ダークグレーのスーツが良く似合っていて。軽く流した黒髪に、少し冷たく感じる切れ長の眼。自分が社会に出て見た『大人の男性像』を覆してしまうほど、立ち姿が洗練された人だった。端整な顔立ちは、お見合いなんて言葉が到底不似合いに思えて。十人並みの私の容姿とは正反対だと感じた。それは今でも変わらない。一目見て、ああこの人も、無理やりお見合いさせられて迷惑しているんだな、と判った。
そんなだったから、私は当然このお見合いは「ご縁が無かった事」になるだろうと思っていた。
だけどそれは違った。
二人にされた時も、ほとんど会話らしい会話なんて無かったというのに、お見合いから一週間経って親から聞かされたのは、先方が乗り気だという事。
嘘でしょ、と私が思ったのも無理は無い。
だけど社交辞令で交換したメールのアドレスから、また会いたいという旨の連絡があった。
もしかすると、上司の薦めでのお見合いだから断りにくのかと考えた私は、それをOKした。
そして次に聞かされたのは、「結婚してほしい」の一言だった。
どうして、と訊ねたら「気に入ったから」と言われた。大学を卒業して、3年のOL生活をしていた私は、今まで出会った事の無いような素敵な男性に気に入られた事をとても喜んだ。
嬉しかった。今思っても舞い上がっていたのがわかる。そしてそんな馬鹿な私は、何も考えることなくその言葉をOKしてしまったのだ。
幼かったのだと思う。一目で恋していた。この先、愛し愛される生活が待っている、なんて浅はかな考えを抱いていたから。
心の片隅で感じていた、「結婚した理由」への小さな不安は、時間が経つに連れ大きくなっていった。
プロポーズを承諾してから、瞬く間に準備は進み、式を挙げ、当日は新居で過ごすことになっていた。
初夜だったはずのその夜、私は全てを彰人さんに捧げた。私は恥ずかしいことに、未だ誰ともそこまで触れ合った事は無かったから。
恥ずかしくて恥ずかしくて……でも、心は満たされていた。
一目で恋に落ちた人。引き締まった身体の温かさに包まれて、心臓が裂けてしまうんじゃないかと思った。
触れる掌の優しさに、彼も自分を好いてくれているのだと、一筋の涙を零した。
痛みも、恐怖もあったけれど、彰人さんの妻になれたのだからと必死で耐えた。何より何度も何度も繰り返される口づけに、肌を滑る掌に、幸せを感じたから。
その幸福が、明日から続いていくのだと、これから深めていくのだと、私はそう信じていた。
けれど。
その次の日から、彰人さんの態度が一変した。
一つ目は、私に専用の部屋があてがわれた。そして彼は寝起きをその部屋でするように私に言った。
私は昨夜何かしてしまったのだろうかと悩み、悲しんだけれど、彼が再び私と寝室を共にすることは無かった。私達の寝室は、隣り合う二つの部屋に分けられた。
そして二つ目は、滅多に顔を合わせる事が無くなった事。
まるで避けてでもいるように、いえ、実際避けられていたのだろう。
入れ替わるように深夜帰宅するあの人がドアを開ける音を、私は何度耳にしただろう。
それでも、なんとか夫婦としてやっていきたいと、私は毎夜食事の用意をして待っていた。
けれど。
ある夜遅く帰ってきた彼から、「待っていなくていい」と言われた。食事も用意しなくていいと。
彼と顔を合わせる機会さえ奪われて、私はどうしたらいいのかわからなくなった。
そうして一人で過ごす夜を重ねる内、私はどうして今自分がここにいるのか、どうして彰人さんは私と結婚したのかを考えるようになった。
いつしか、彼が私に触れてくれない理由と、顔も合わせてくれない理由になんとなく気付いていた。
彼は仕方なく結婚したのだ。恐らく、仕事の為に。
彼が仕事の『出来る』人間であろう事は、その空気からも見て取れた。
けれど、それにも増して一層、私との結婚後は大きな仕事を任されるようになった様だと、父からも伝え聞いている。私には聞かされない、話してくれない彼の仕事ぶりは、父に聞かなければほとんど分からない。
あの人に新しくついたらしい肩書きが何であるのかも、私は知らない。
実家の母や父は、私が求められて結婚したのだと思っている。
私の事なんて好きなわけじゃない。
ただ一度きり抱いたのも義務だったのだろう。
帰ってこないのも、私などに興味が無いからなのだろう。
こんな生活を、いつまで続けるのだろう。私は嫌だ。ずっとこんな空しい毎日を過ごすのは。
そうして私は、彼に別れを告げ、新しい道に進むことを決めた。
「んじゃー姉貴、早く仲直りしろよ? 親父とお袋にはバレないように気をつけろよな。俺もなるべく話合わせるから、何かあったら言って。」
そう言って、悠樹はひらひらと手を振って帰っていった。
私は部屋で一人、ダンボールの目立つ『私の城』を見渡した。
ここが、私のお城。
これから私は新しい道を歩んでいく。あの人との、哀しい生活を捨てて。
地の底にまで落ちた自己評価を、再び取り戻すために。
とりあえず、細かい片付けは明日に回して、今日は簡単な食事だけして休もう。
昨日からまともに食べていない。たぶん緊張していたのだろうと思う。
彼に離別を告げるだけの事が、あれほど体力の要るものだとは思わなかったから。
台所に立った所で、玄関のチャイムがなった。
……?
誰かしら。悠樹が忘れ物でもしたんだろうか。
たぶんそうかな、と思って確認せずにドアを開けた。
そして、それは間違いだった。
「……ど、うして」
扉を開けた先には、昨日別れを告げたはずの『元夫』が立っていた―――
嘘つきな純愛 国樹田 樹 @kunikida_ituki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。嘘つきな純愛の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます