嘘つきな純愛

国樹田 樹

第1話 離別宣言

 愛し、愛されたいと誰しもが願う事だろう。


 私もそうだった。


 只一人の人を好きになり、愛し、そして愛されたいと。

 他の物は何もいらない。


 ただ、それだけが。


 私が欲しかったものだった。


 『今日から君の部屋はここだ』


 それが、私が夫に失恋した時の―――台詞―――



***


「いってらっしゃい」


 そう言って、私は目の前の人―――『夫』である須藤彰人すどうあきひとに笑顔を見せた。


 けれど私の表情になど目もくれず、「ああ」とそっけない一言だけを返してドアが閉まる。

 ガチャンと閉まった鉄の扉は、まるでそのまま彼と私を隔てる壁の様に見えた。


 毎朝見るのは、彼の無表情と背中だけ。

 この四年間それにひたすら耐えてきた。


 扉に向けていた視線を上げる。


 ――――さあ、早くしなければ。


 夕方、彼が帰るまでに。



***



 ガチャリと、ドアが開く。

 今日は出迎える事はしなかった。私は息を潜めながら、掌をぎゅうっと強く握り締めた。


あや……?」


 怪訝そうに彼がリビングに入って来る。二年間続いていた妻の出迎えだ。

 休んだ事は一度も無かった。だからこそ、彼も不思議に思ってくれたのだろう。


 ここを間違えてはいけない。私は静かに呼吸を整えた。

 もう少し、あと少し……彼の足が、リビングのテーブル前に辿り着くまで。


 その上に置いた一枚の白い紙に、彼が目を留め立ち止まる。

 無言で見つめるその背中を確認し、私はリビングのドアの裏から姿を出した。


 気配に、彼がばっと振り向く。


「これは――――」


 言葉に詰まり、目を見開く彼の顔。


 ああ、そんな顔、するのね。貴方でも。


 彼を動揺させることができた。


 それに少しだけ、私の心が軽くなる。


 本当は彼が帰る前に家を出るつもりだった。

 だけど、そうしなかったのは―――


 その『紙切れ』を目にした時、彼がどんな顔をするのか見たかったのだと思う。


「見たとおりの意味よ」


 驚いた表情は一瞬で、すぐに元の無表情へと戻った彼に、負けじと平静を装い用意しておいた言葉を告げる。

 私は手にしたスーツケースの柄をぎゅっと握りしめ、佇む彼に背を向けた。


「さようなら」


 あれほど口に出来なかった言葉が、驚く程すんなり喉から滑り出た。


 こんなにも簡単な五文字を、どうしてああも頑なに拒んでいたのだろう。心が決まれば、息を吐くのと同じくらい簡単なのに。


 その皮肉さに内心苦笑しながら外へと足を運んだ時、予定外の事が起こった。


「きゃっ」


 右の二の腕に強い力。

 ぐい、と強引に引き寄せられて、唇に思いもよらない熱を感じる。

 頭で何度もシュミレーションした筈の計画が、一瞬にして消し飛ぶ。


 ――口付けられた。


 私は驚きに顔を顰めながら、彼の手を引き剥がした。


「っ何するのよ!」


「……そんなに、俺が嫌いか」


 無表情で私を見つめる彼の瞳を見返した。


 嫌い?

 ……何を今更。


 ずっと私を拒否していた癖に。

 私を拒んだのは貴方なのに。どうして今更触れてこようとするの。


 今まで、唇も、身体も重ねたのは一度だけ。四年という結婚生活で一度だけだったというのに。


「もう、どうでもいいわ」


 玄関のドアノブに手をかけながら、私は彼に背を向けて言った。


 私はこんなに冷たい言葉を口にする女ではなかった。

 少なくとも四年前は。


 「どうでもいい」なんて哀しい言葉を、誰かに向けて告げる事など。


 歩き出した私の後ろで、重たい扉が音を立てて―――閉じた。

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