第63話 ナポリタン
普段ならいつもの居酒屋で呑むところだけれど、相手は女性だ。相手がひっつめ先輩なら間違いなく居酒屋直行だがあの人は正直漢だ。オレは近くの喫茶店をチョイスした。ここは昔風のナポリタンが美味い。夜八時まで営業しているので都合がいい。混みあっておらず席にすぐ通された。
「ここはナポリタンが美味いんよ。晩御飯まだでしょ」
と、メニューを見ながらいうと美代子がじゃあそれにする、と愛想笑いもせずにいった。おしぼりで手をふいて、壁のポップ見て、美代子の顔をチラ見して。
しかしあれな、ナポリタンが来るまで気まずい。オレは心を奮い立たせる。モテ男立長吉幸うろたえるな! よっし、いけ、よし。
「大丈夫なんですか、足」
「へっ?」
美代子は間のことなんてちっとも気にしておらず声をかけてきた。どうやらひょこひょこ歩いてたのがもろバレだったらしく気にかけてくれたようだ。
「結構な落ち方だったから」
「ああ、そっちか。よく見てるわ」
そういってシップ薬を貼った足をまくってみせた。やっぱりズキズキした。
「たぶん捻挫。明日病院いこうと思うけど、今日はもう遅いから」
看護婦さんだったから夜間開いてるとこ知ってるよ、とかなんとか他にいってくれるかと思ったが、特段心配はしていないようだった。そうだよな、四六時中患者さん見てるもんな、慣れてるわ。
「すごかった」
美代子は水を置くと吐息した。体の芯まで届くような言葉だった。
「舞台は今まで何度か観たことあるけど、きっと分かった気になってたのね。今日観て思った。込められた熱量はただ物じゃない。みんな真剣なのよ。死ぬ気で演じているのよ」
ちょっと素人の感想じゃねえと思ったが美代子は昔から洞察力だとかそういうものがすごかった。入るとなんも見えなくなるんだな。
「ごめんなさい」
美代子は頭を下げた。テーブルにぱっつん前髪が落ちる。黒い一つ結びが背で少し揺れた。
「ああ、いや……その」
オレは言葉に困って頭を掻いた。まあ、そんなの気にすんな。という軽々しい言葉は元の木阿弥だ。美代子は顔を上げようともしない。相手は看護婦さんだぞ、看護婦さん。言葉を選べ言葉を選べ。
「こっちこそ悪かった。いい方が良くなかったよな。命を取り扱う現場で色んなもん経験してるんだもんな。そりゃ不快にもなる。うん」
頭をカリカリと掻いてぺチンと叩く。安心しろ、この時は月代じゃなかったから、って誰も聞いてねえか。
「友達になろうよ」
するっと出た。今でもなんでこんなこといったかさっぱりだが、美代子にはそう思わせるなにかがあった。ただの知り合いで見過ごせないような重たい、重たい重石みたいなものが。
「うん」
美代子は顔を上げて落ち着いた口調でそういった。
ナポリタンが運ばれてきたからオレはずるずると食って、美代子はお上品にしとしとと食べてそれから二時間くらいおしゃべりしてクリームソーダ食って楽しい時間を過ごした。
断っておくが美代子というのは基本生真面目で誰にも懐くような人間ではない。ほとんど初対面の人間に心を開くような機敏さは持ち合わせていないし、なんならひどく警戒するほうだ。でも、オレは運よく気に入られた。
ちょっとオレがおどけて話をリードしながらそれにしっかりついてくる。時々、オレすら勘づかないような鋭いことを指摘しては熱っぽく舞台の感想を述べる。当時を思い出しても楽しい記憶ばかりだが、それほどに美代子と過ごす時間は特別だった。早い話が気が合ったんだよな。これまで劇団以外の人間でこういう熱く語り合えた友は村崎くらいだった。ちょっと生真面目な地味な女という領域を踏み越えてオレのそばに来てくれたんだなって今はそう思う。
美代子とは連絡先を交換して、また舞台を観てくれる約束を取り付けて別れた。別れ際オレは手を挙げて声を上げた。
「オレ、立長吉幸」
「今村美代子です」
そういって頭を下げると美代子は駅の方へと歩いて行った。
店もそろそろ閉店する。店主が看板をしまい込んでいた。すっかり日が暮れて夕闇から歓楽街の喧騒が聞こえてきた。足を踏み込むと忘れていたはずの痛みがずきんずきんと足首を締めつけて顔がゆがんだ。
明日病院に行かないとな。そう思って夜空を見る。なんか特別な日だった。どうしてそう思ったのだろう。晴れやかな心には次の舞台へかける熱意がふつふつと湧いていた。美代子さんか。美代子さんが観にくるか、じゃあいいもん観せないとな。
彼女が勤める病院も聞いておくんだったよ、なんかオレ怪我とか忘れてたからさ。もっと仲良くなれたのになあと微笑んで首を振った。明日は休みだ、病院いって静かに家で寝るか。
ここからひと月ほど友達関係が続いて、オレは美代子との交際をスタートさせる。
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