第62話 美代子とサイン
美代子とはそれからなんの接点もなく、オレ自身も彼女のことはすっかり忘れていたし、とにかく日々役柄のことで頭がいっぱいでひたすら上手くなりたいと願うばかりだった。
その日は『焔の船』の千秋楽だった。ひと月続いた舞台がようやく終わる。
焔の船は江戸時代末期の討幕運動を書いた作品で内容は極めてお硬いものだった。脚本家の岸本さんにとっては新境地となる時代物で、オレもその意気込みを感じてよりいっそう熱が入った。オレの出番は終盤で燃え盛る船から落ちて水死する役だ。実は結構この役は危ない。落ち方を間違えると打撲、骨折、はたまた命に係わるかもしれないからだ。
演出家の先生に「出来る?」って聞かれた際に即「出来ます」って答えたはいいものの、神経を張っていなければ相当に難しく毎日毎日気を割いていた。
役者たちが物語を繋いでいよいよ舞台は終盤、オレは舞台の下手から回転セットの船へとさっそうと走り出す。裏面から上がって船の縁へ立つ。舞台上にはすさまじい熱気が吹き荒れて轟音が轟いていた。
生唾をも飲めないような緊張感、桜田広場の創り出す空気はただ物じゃない。オレは燃え盛る船の縁で刀を振り上げた。凛と背筋を伸ばし、刀に体重を乗せて広場さん演じる主人公へ向けて振り下ろす。それを広場さんが逆手で受け止める。きいいんっと鳴った。体の芯がブレる。演じてきたどの日よりも覇気のこもった重い一撃。戦い続けた広場さんの呼気は乱れ、額に珠のような汗を掻いている。ならばオレも。
オレは殺気をむき出しにした。殺るなら今しかない、幕府にたて突く不穏分子に鉄槌を。魂の大絶叫し、燃え盛る闘志を叩きつけた。
「覚悟ーー!」
アドリブの台詞を吐いて太刀の一閃を振り下ろした。瞬間広場さんの顔がこわばる。
——えっ。
そう思った瞬間にオレは縁から落ちていた。
舞台が終わってカーテンコールを済ませるとオレは控室へ担ぎ込まれた。
足が尋常じゃなく痛い。椅子に座らせられて靴を脱がされた。先輩が足首に触れて診てくれている。
「あだだだだ」
足の甲を抑えて前後に揺すられるととても痛かった。先輩たちも深刻な顔をしている。
「痛い?」
「痛いっす」
そう渋面を作るとそばにいた岸本さんが吐息した。
「病院行った方がいいかもね」
するとひっつめ先輩も心配そうに声をかけてきた。
「今日帰れる? タクシーで送っていこうか」
「いや、一人で帰れるっす」
そう笑って丁寧にお礼をいった。
オレは痛みを堪えてなんとか着替えを済ませて、千秋楽なので打ち上げがあったがそれには参加せず帰宅することにした。明日病院にいって検査して、その結果を先生に伝えなければならない。まあ、当分稽古は無理だな。
しかし、意地を張ったがまるで痛い。靴をようやく履いたくらいだ。折れてないといいけどな、と思いながらひょこひょこ歩いた。時間をかけてエントランスにたどり着くと誰かがいるのが見えた。でも、オレ関係ないなと思って視線を落とす。やっぱ痛えわ。
先輩がタクシーを呼んでくれているといっていたので今日はそれで帰る。車通勤なんかしたことないんだけどな。今日は仕方ない。
「えっと、タクシータクシー」
呟きながらきょろきょろしていると出待ちをしていた女性が話しかけてきた。いつもの人たちじゃない。あれ、オレの新たなるファンか。そう思って顔を上げると。
「あっ……」
「うん」
なぜか謎の返事をして、こっちを向いていたのは美代子だった。美代子ってのは極めて顔が地味で覚えにくい。でもこの時のオレは運よく覚えていた。
「出待ち?」
オレはそういって笑顔を作る。ちょっと足は痛かったが我慢した。
「そう。今日の演技感動したから」
即座に、あ、広場さんだなと思ってオレは劇場の方を振り返る。
「ごめん広場さん、帰っちゃったかも。みんな先に打ち上げにいったから」
「ああ、違うの。あなたの」
「えっ、え。オレ?」
顔が急に火照ってくる。オレはしどろもどろになりつつ応じた。
「いや、ほんと。なんかね……うん、嬉しいわ。うん」
美代子は真顔でこちらを見たまま表情は崩していない。え、ファンになったとか勘違い知っちゃったオレ?
「あの、サイン書いて欲しいの」
そういってパンフレットとペンを出す。全然そんなテンションに見えねえんだけどな。ううん、まあこうローテンションな娘も世にはいるから。
オレは丁寧にサインをし終えると、はい、ありがとうと笑んで渡した。
「じゃあ」
そういって帰ろうとすると美代子が「あの」と声をかけてきた。
「ごめんね、そのこの間。悪いこといっちゃったなって。そのことを謝りたくて」
「え……ああ、いや。アレは」
オレは頭をポリポリと掻いて記憶を掘り起こした。そうだな、まあ歯切れの悪い別れではあったか。オレは目をつむり、吐息すると美代子に声かけた。まあ、今日は特段用事もないしいいだろ。
「ごめん時間ある?」
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