第58話 舞台デビュー前編
初日公演の朝がいよいよきて、オレは敬虔な気持ちで目覚めた。天井を見つめ、じっと考える。オレはデビューする、今日この日デビューする。時計を確認するとまだ五時、目を閉じて静かに心を定める。頭中には舞台の画しかない。煌びやかなあの瞬間を、始まりのときを誰よりも一番に迎えられる栄誉を、そしてラストのスタンディングオベーションを想像して心臓が膨らんでゆく。そっと、ないないない、と頭を振って邪念を消し去った。今、考えるのは自分の演技のことだけだ。
朝焼けの差し込むキッチンでコップ一杯の水を飲むと冷静になれた。やれる、と拳を握ると準備を始めた。
早めに劇場にいったがすでにきている人は何人もいた。ひっつめ先輩はまだきていないらしいが舞台に上がる人も上がらない人もいて、そのなかに広場さんの姿があった。
「やあやあ、吉幸くん」
いつも通り男気のある笑顔を向けられたのでいつもの調子を取り戻せそうだった。みんなの激励にきてくれたらしい。
「いよいよだね、ボクまで嬉しくなっちゃって」
「いえ、ほんとにすみません。嬉しいです」
「頑張ってね、いつも通りのキミでいいんだよ」
両肩に置かれた手はすごく厚くて温かかった。名俳優桜田広場の熱が体に移りかけて微笑む。
「いつも通り百二十パーセントでいきます」
「そうだよ、とてもいい表情だ」
きりっとした顔を向けると広場さんはサムズアップをしてくれた。
ボロを着てホームレスメイクが済んで、廊下で静かに時を待っていた。お茶もあるが喉を通らない。指先を遊ばせて床を見ていた。綺麗になった女優が通路を行き交っていて、そのなかにひっつめ先輩と岸本さんの姿も見えた。ふと顔を上げる。
「立長くん、いい感じね」
みすぼらしい姿を見止めて褒められるなんて舞台役者くらいだろう。髪も汚く生え揃えたつもりだ。見た目は完璧、でもそれ以上に演技で魅せたかった。
「立長」
岸本さんがこちらをまっすぐ見下ろしていた。
「客席で見てる。いい作品にしろよ」
「はい」
言葉少なななかに学生時代からの信頼が隠れている。信頼して書いてくれた、それがなにより嬉しかった。岸本さんは関係者通用口から外に向かっていく。オレはひっつめ先輩と反対方向へ向けて歩き、舞台袖へと移動した。
舞台袖で静かに開演のときを待つ。思った以上に緊張していた。心地よく高鳴る心音を数えながら目を閉じた。これまで経てきたどの瞬間よりも震える。心の奥底から舞台への情動があふれ出しそうになって拳を胸に当てた。高鳴る心音はオレを新たなる世界へと連れていく。こい、時よこい。
静かに目を開けると仲間たちの顔が見えた。みんな覇気ある顔で上を向いている。卑屈な人は一人もいない。オレはすべてがゆっくり刻む時のなかで、そっと背中を押された。
――頑張れよ。
オレは緞帳の下りた舞台の中央へと歩み出した。
暗い中でスタンバイすると膝まづいて胸元で手をクロスさせた。震える指先で喉に抱きしめるように触れる。オッケーの合図を送ると大きなブザーが鳴って緞帳が上がった。
広がった光の海原のような景色。人の目だ。しんとしたなかで静寂のなか人々の息遣いだけが聞こえる。演者、観客、すべての人々が固唾をのんで見守るなか、白い照明が中央へと降り注いだ。
映し出されたのはみすぼらしい男。痩せた身を縮めるように抱きしめて天を仰いでいる。口を半開きに呼吸して静かな恐れのなかで声を発した。
「誰だ!」
声が響き渡る。男は首を左右へと振りひどく怯えている。
「そこにいるのは誰だ」
手を口元へと当てて周囲を警戒している。
「いるんだろ! オレを見ているんだろう!」
立ち上がって右へ左へ舞台いっぱいに走る。右へ行って深く腰を引き、体を旋回させて左へ行って伸ばした腕を引く。足音と鼓動を高鳴らせて男は怯え切っている。
突如雷が落ちる効果音とともに照明が赤く転じた。男の動揺は激しくなり、言葉を迸らせる。
「違う、見てない! オレはなにも見ていないんだ」
男はなにに怯えているのだろう。衆目が注がれる。感情を逆立てて、忍び寄るそれを予感している。
「オレはあの日見たことをなにも伝えちゃいない。あんたがなにしてたかも、オレがなにをしたかも。だって一つだろう、たった一つの牛乳瓶で」
男は正体の見えない人物に向かって絶叫した。
「違う、やめてくれ! オレは出来心だったんだ! 腹が減ってた、あんたは飢えてた。それだけだろう?」
小さな懇願が帳へと消えてゆく。男は両膝をつき、貫くような衝撃のあと、胸に手を当ててだくだくと血をこぼしながら悲壮な命の叫びをあげた。
「ああ、ああ、あああ」
固唾を飲んで観客が見守るなかでもう一度でかい効果音が落ちると、照明が消えて男の無念の死とともに暗闇が訪れた。いよいよここから物語が始まる。
やれた。転じている間にオレは舞台袖へと身を引いて、しゃがみ込み心臓を轟かせていた。出演する仲間がよくやったと背を強く叩いてくれる。オレはできていたのだろうか、これ以上なにも考えられないくらいに呼気を乱して、緊張から解放されていた。でもまだだ、まだ。ボロを血糊のついてないものに着替えると次の出番の訪れを待った。
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