第57話 決戦は日曜日
「決戦って金曜日じゃないんすかね」
「なにいってんの?」
稽古終わりにひっつめ先輩とこじんまりとしたちょっといい居酒屋で飲んでいた。舞台本番はもう五日後に迫っている。来週の日曜だ。ひっつめ先輩も立つ舞台だが心構えがまるで違う。一年以上の経験の差だろう。あとは度胸の差。
稽古部屋から場所をステージに移してからも始終、先生は最後までみんなの演技の加減にこだわっていた。演技の加減ってなんだって、まあ塩加減みたいなもんだよ。
頭中のイメージの共有は限りなくできている。それを本番で百パーセントに近い精度で演じること。でもそれは玄人でさえ容易じゃない。
「稽古百ぺん、台詞百ぺん。とっくに超えてるわよ。わたしたち頑張った」
「まだ、足りないっすよ。もっとこう」
「頑張った!」
ひっつめ先輩に押し切られて苦笑いになる。そうだよな、無言で三度目の乾杯をして口元にジョッキを運ぶ。キンキンに冷えたビールはやっぱり極上だった。
「立長くん、後悔も満足もあるけれど万事なるようにしかならないのよ」
「孔子っすか」
「それしか名前知らないんでしょう。わたしの人生訓よ」
ふうんとのんびりした返事をするとひっつめ先輩がにこっと笑ってジョッキを頬に押し当てた。
「本番当日に飛ばされた子もいるわ、そのことを忘れないで」
ひっつめ先輩の恐ろしい笑顔におおう、とオレは返事をして顔をこわばらせるとジョッキから顔を離した。
冒頭の演技は三分間、たった三分というよりも三分も与えられたという方が解釈が正しい。たった一人きりで大きな舞台に立つ。練習で一人演技している間もその凛然とした空気に気持ちが奮い立った。オレが失敗すれば舞台は終わる。プレッシャーを感じてるのかって、いいや逆だ。やってやろうという気概に満たされてコンディションは最高潮、でもその湧きたちを静かに抑えてオレは開幕を演じなければいけない。しつこいくらいに渋く光れ、渋く光れと念じている。
「ねえ、プロになるってどんな気持ち?」
ひっつめ先輩の問いかけにオレは一瞬考えた。ひっつめ先輩はほっけの塩焼きに手を伸ばして縦に身を割っている。感慨深さが込み上げた。
「そっかオレ、プロになるんだ」
「今さら? ずっと望んでいたことでしょう」
「先輩のときはどうだったんすか」
「眠れなかった」
返ってきた意外な答えに耳を傾けた。
「夜ね、ときどき電車の音が聞こえるでしょう。その走行音を聞きながら考えるの。大丈夫かな、わたしできるかなって」
「先輩でもあるんすね、そういうこと」
「うん、あの時は珍しく考えてた」
オレは箸を持つとほっけのもう一枚の方を皿に移す。脂がのっていてかっぽりほぐれる。その大きな身を口に運ぶと炭の香りと塩気が後味を引いた。
「プロってなんすかね」
黙考していると先輩の言葉が注がれた。
「お金を貰うってことよ、それ以上でもそれ以下でもない」
どんっと一気飲みしたジョッキを置いてひっつめ先輩がいった。まじかっけえ、この人かっこよすぎないか。
「演技でお金貰うってすごいっすね」
「でしょ?」
ひっつめ先輩は上機嫌でビールのお代わりと記念日だからとローストビーフを注文した。
「キミはプロになる。道を間違わなければきっといい役者になる。本当はもっと目立つところでっていいたいけれど、死体役にこだわっているようだからそれ以上はいわない」
「そっすね」
「死体役だけをやり抜くってきっと花形よりも大変よ。収入も少ない、評価だって真っ当なものを得られないかもしれない。もしかしたら一生、それも覚悟の上でしょう」
「そっすね」
オレは枝豆をつまみながら、プロになるってどんな気持ちだろうと先ほどの質問の答えを考えてみた。自分なりの解釈がこの世界で生き抜くために必要だと思ったからだ。
「オレね、勝負がしたいって思ってたんすよ」
「勝負?」
「ずっと演劇っていう舞台に上がれなかったでしょう。だから枯渇するような思いだったんすけど、オレを舞台に上げろ、勝負させろ、一度でいいから勝負させろって。だから俺にとって、プロってその世界で勝負するってことかもしれないっす」
「その世界で勝負する、か……」
ひっつめ先輩はそれもそうだ、とにっこり笑って箸を置いた。
「いい、役者人生としてはただのデビューに過ぎない。でも人生にデビューは一度しかない。だから記憶に残るような演技をしなさい」
「ばっちり覚えておきますよ」
「キミのじゃない、お客さんの記憶に残るような演技をしなさいっていったの」
オレはふっと笑った。なんだよ、マジでパンチありすぎるわ。
「心得ておきます」
それからしばらくひっつめ先輩と話して細かな笑いとかちっさな愚痴とか大きな夢を語り合って別れた。異性でこういう関係築けるのも珍しいわ。ありがてえなんて鼻の下をこすってみる。ひっつめ先輩が食事は前祝だといっておごってくれた。
飢えは力となる、やっとつかみかけた夢だ。都会のネオンを見上げていると酔いどれの人々の笑いが聞こえてきてオレは微笑んだ。チケットはすでに両親に送った。決戦は今週の日曜日。オレはプロになる。苦節一年とちょっと、できることはすでにやった、頑張った。あの先輩がごり押しでいったんだから間違いねえ。プロとしての一歩をようやく踏み出せるんだ。
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