第56話 舞台稽古

 或る男の死の舞台に立つのは全部で二十余人、うちの公演としては今回はかなり多いほうらしく、稽古中もなにがなんでも成功させてやろうという先生の意気地がだだ漏れだった。厳しさのあまり半泣きでやってる先輩もいる。でも辛さを超えて面白い。気持ちいい。やってやる、次こそいいので魅せてやる、いいのを見せたらその次はもっと超えてゆかなくちゃ。気持ちはどんどん上に引っ張られてオレは演舞する。いいぞ、だんだんいいぞとなって、


「たあてながあーーーー!」


 先生の怒声が飛んだ。汗だくになって演じていたオレは額をぬぐうと直立になった。指示を聞くときは真摯な姿勢で。心臓がぎゅうっと竦んだ。


「はい」

「お前その演技本番でもやるつもりじゃねえだろうな!」

「いえ、こんなものやるわけにはいけませんからもっと練習して……」

「それをやれっつってんだよ!」

「へ?」

「その演技を本番で見せてみろ。鳥肌もんだぞ。観客総立ちで泣いちまうわ」


 あ、褒められたんか。胸をほっとなでおろす。キレてたから怒られてるかと思ったわ。

 かと思えば次の出番では。


「てめえ、気い抜きやがったな! 殺人目撃したときに笑ってんじゃねえ。ちょっと褒められたからって調子こいてんじゃねえよ」


 飛んできたメガホンが頭に弾んで舞台上に転がる。スタッフが回収にきて先生のところにそっと戻したが、ホールはものすごい空気になってみんな言葉を発せず一時の休憩に入った。


 オレは自らの上気したほほに触れながら自分の演技を思い返す。笑ってたか? 良い演技したつもりだったんだけどな。気の緩みが出ちまったか。内省しながら三角座りでペットボトルの水を飲むと乾いた喉が塩辛かった。


「先生の求めてるところって微妙なんすね」

「微妙とも絶妙ともいう」


 同じく舞台に立つひっつめ先輩に話しかけるとこれまた絶妙な答えが返ってきた。クールに決めてるがおそらく疲労困憊だ。先輩は殺される娼婦の役でオレの出番とも少し被る。こんなチューリップみたいに可愛らしい人が娼婦やるとかその演技力に脱帽だった。


「先生にはきっちりと頭に描いたイメージがあるのよ。それこそ脚本家の脚本を読み込んで自分なりのイメージを作りこんで。だからそのイメージをわたしたちは先生と共有しなければならない。舞台に挑んでいるとその齟齬が一番の課題になるのかしらね」

「広場さんがね、先生が望む以上のものを提示してご覧っていってたんすよ。そしたら虜だよ的な」

「さっきはそうだったのよ」


「さっき?」

「褒められたでしょう。あの時先生感動してたでしょう」

「怒ってたっすよ」

「ううん、感動してた」


 一年も勤めているとあの怒りもそう受け止められるようになるのか。オレはふううん、そうだったのかと感想を述べてまた水を飲んだ。


 休憩を終えるとまた稽古。稽古に稽古を重ねてそれ以外に求められているものはない。先生には一番気になっている個所があって、今も子リスの先輩が半泣きになりながらやっているんだが、遺体の第一発見者の娼婦の仕事仲間が警察に聞き込みを受けているシーンだ。さっきからのやり取りを見るに先生はどうも子リス先輩の動揺が弱いことが気に入らないらしい。男でもビビるような叱責を一身に受けている。子リス先輩の小さな肩は震え、脱落の瀬戸際で演じている。繰り返される怒声にぐらぐらと感情が揺らいで終ぞむせび泣き始めた。


 小さな泣き声がホールに響く。針のむしろのような時間が過ぎていく。

 ああ、これじゃ演じられないわ、とみんなが顔を落とし始めたところで先生が、がっとメガホンを取り上げた。


「笹倉、よしもう一度だ! そのままやれ」


 子リス先輩は腕を抱きしめ涙をだくだくと流しながら必死に台詞を吐いている。でもその大半は嗚咽で聞き取れない。


「せ、せぱ……わた……変な人に……付きまと、いるって」


 あんまりだ、と思いかけたところでふと気づく。そうか、そうだ、先生は。


「オッケーだ! そうだ、その演技だ! 笹倉、今の演技忘れるな。おんなじことやれよ、絶対忘れるんじゃねえぞ」


 演技から解放された子リス先輩はありがとうございますと呟くとタオルで顔をぬぐいながら舞台を降りた。おそらく洗面所に化粧の落ちた顔を洗いにいくのだろう。


 痺れた。先生の求めているものの水準が分かってしまった。女優を泣かせてまで演じてほしい役柄。できないと思っているから怒っているんじゃない。できると思ってそれぞれに要求しているんだ。限界まで力を引き出すこと、それが至高のビッグウェーブに繋がると信じて、それがおそらく広場さんのいっていたクオリティ。


 オレはちょっとなにもいえなくなって舞台を見た。たくさんの人間が作り上げる舞台が渋く輝いて見える。茶色のフローリングがきゅっきゅっと音を立てて役者が舞う。回転する巨大セット、ホール全体に響き渡る台詞。この場にいられることが、この空気を浴びられることがこんなに幸せなんて感じたことはなかった。

 オレは先生の理想に見合った演技ができるのか、プロの役者として舞台に立てるのだろうか。拳は自然と武者震いしていた。


 『或る男の死』の初日公演まであとひと月もない。

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