第55話 置き引き犯の心理
――某月某日、或る男は飢えていた。早朝の閑静な住宅街を歩きながら横目に探しているのは牛乳瓶の青い箱。食事は二日ろくにとっていない。引っ付きそうな腹と背をなんとかいい聞かせて堪えている。ホームレスになってから五年が過ぎた。大切だった妻、息子、ペットのチワワとは職を失ってから浮草のように切り離された。漂浪してたどり着いたのは河川敷、土砂降りになれば浸かり込んでしまうようなぬかるみで段ボール一つで迫る死に耐えている。
「と、まあナレーションはこんなもんでいいか」
脳内でナレーションを流してオレはホームレス、オレはホームレスだと思い込む。ちなみに髭も剃るのをやめたし、風呂も入らず、飯は本当に二日食っていない。毎日飢餓状態のようなものだがここまで食わないとなるとさすがにしんどかった。この住宅街にくるまでにコンビニが二軒もあって、誘惑の足が伸びかけたが我慢我慢。なんせオレには真っ白な牛乳瓶が待ち構えているのだ。
さて、いよいよ本格的に気持ちを作る。お遊びモードは終わりだ。すっと目を細めて顔を少し鬱屈したように下げると背を丸めて小さな歩幅で歩いた。上着のポケットの中で指先を遊ばせてカウントするようにとんとんと打っている。
唇を引き結んだ。牛乳箱だ。
モダンな家に住んでいるのは若い夫婦かもしれない。
「ラッキー」
これは作中に刻まれるセリフだ。軽口を叩くようにいって周囲を警戒する。前後に人はいない。この時大事なのは横も見えていたということ、男はプロの置き引き犯だ。カーテンは閉まっているか、誰か住宅のなかから見ていやしないか。まじまじと覗くわけではないがイヤな視線を感じないか、気配を感じないか肌で警戒している。幸い朝五時だ。郵便配達とすれ違えばあとは誰も知らぬ存ぜぬだろう。
だが、この時の男は静かに黙考していた。良心の呵責がわずかにあったからだ。慣れた、でも違う。そういうことじゃない。飢えていても牛乳を置き引きするのは毎日じゃないんだ。ほんとに時々苦しいときにやるだけなんだ。ポケットのなかで指を擦り合わせた。硬貨の感触がある。
意を決したオレは門扉をくぐって敷地に侵入した。玄関右横に置かれた牛乳箱の蓋を音を立てぬようにそっと持ち上げる。
あった。
瞬間指先が震えた。いいのか? 演技のためとはいえ……いや、今オレは立長吉幸ではない。ホームレスなんだ。騒ぎかけた良心を沈めてそっと手を伸ばす。保冷材で冷やされた甘い心地に感情が震えた。ああ、オレはどうしようもなく飢えていた。
フィルムをはがしてキャップを取ると白い凪が見える。この世に蔓延るすべての悪意を真っ白く変えてしまうようなその泰然とした姿。オレは感動に震えながら口に瓶を運ぶ。嚥下する音が早朝の住宅街に静かに聞こえていた。
最後の一滴まで飲み切ると呼吸が落ち着いた。二日空いた胃に一気飲みは苦しかったが最上に美味かった。
「ああ、最高」
これも男のセリフだ。瓶を箱に戻そうとしたときすっと伸ばした視線の先にカーテンのなかで新聞を広げる男の姿が見えた。見た、見てしまった! カタンと鳴る牛乳箱、男がこちらに気づいた。
オレは瞬時のことに気が動転して、つかんだ三百円を箱に投げ入れると全速力で走った。やべえ、やべえ、確実に殺される! 息をするのも忘れて住宅街を疾走する。一瞬、ホームレスにこんな馬力あるだろうかと考えかけて思考を手放す。ダメだ、逃走することに集中しろ!
「はあっはあ……はあはあ」
もうずいぶん走った。追ってきているものはない。潤わしたばかりの喉は干上がって胃のなかで液体が暴れている。しょっぱい唾液に満たされて荒い呼吸を繰り返していた。
近くに公園が見えて水道で手を洗うと頬に手を押し当てた。どうしよう、見てしまった、ついに住人を見てしまった。このときの或る男の恐怖は計り知れない。殺人現場を目撃してしまった以上、自分も口止めに殺されてしまうという恐怖におびえている。
怖い、警察に行く? オレは置き引きをしたんだぞ。犯罪者だぞ。いいや、殺されるよりマシだ。
とんっと背を叩かれてぞっとした。
「ひっ、違っ! たたた、助っ、助けて……オレはなにも見てなっ」
振り返ると警察官がいた。
オレの気持ちはさあっと冷めていく。やばい、これは別の意味で非常にやばい。背筋を滝のような汗が流れる。
「あんたどうしたの? そんなに走って」
「あ、いや、その」
「ん?」
オレはいい訳を全力で考えた。演技しろ、演技だ、得意だろ!
「走り込みしてたんです。オレ役作りでダイエットしてて。役者で今度舞台があって」
「あ、役者さん。それでその格好?」
「あ、そうなんです。月代あんまりやらないですよね」
風貌はともかくオレの真摯な話しぶりに警察官はそれ以上は疑わなかったらしく「近辺で変質者が出るから気を付けてね」といって去っていった。ああ、マジびびった。肝臓潰れるかと思ったわ。へなへなとしゃがみ込んで息をついたところで冷静になって目を白黒させた。
「あ、……そっか。そうだわ。こうなるわ」
開眼したような思いだった、ますます合点がいく。考えれば考えるほどに合っている。
「そうそう、そうだよ。やっぱりそうだわ。アレ違ってたんだ」
オレは立ち上がると気付きを手放さぬように自宅方面向けて小走りで帰った。
「ここ、悲鳴じゃないんです」
演出家の先生と脚本家の岸本さんは不審な顔でそれを聞いた。今、議論を戦わせているのは最初のところ。オレがアパートで練習してた最初の台詞。演劇冒頭で犯人によって或る男が殺されるシーンのことだ。
「ここね、殺害現場を目撃したんです、だから男はいつ口止めに殺されるかって恐怖におびえているんです。それこそちょっと声掛けされたくらいでおびえてしまうほどに。犯人の顔も分かってる。だからここ、悲鳴じゃなくって犯人と視線が合った時点で命乞いをするんです」
先生も岸本さんもちょっと考えた風だったが、たしかにと呟いてオレの顔を見た。あんまりまじまじと見られたのでなんすかと問い返してしまった。
「いや、台本読み込むってそういうことだよ」
先生は感心した様子でがりがりと台本の台詞を書き換えた。
「キミのいう通りでいこう、いいよね。岸本くん」
「はい」
クールな岸本さんはあんまり表情を変えなかったがそれでもオレのあまりの変貌ぶりにほんの少し驚いた様子だった。
「なにしたの?」
すべての罪を発露させるような質問の響きに、オレは顔の筋肉を痙攣させて口をパクパクさせたあと、「ぜんぜん、ぜんぜんっ!」と意味不明な言葉を口走った。
まあ半分はバレてら。色々やっちまったがとにもかくにも気持ちは整ったよな。あとは邁進するのみ。全力でやり切ってやんよ!
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