第54話 鶴の黙考
オレは壁に吊るした鶴柄のシャツを見て胡坐を掻いていた。先日の古着屋に再来店して買ってきたものだ。店員のおじさんはよっぽど気に入ったんだね、気に入ったものってそうなんだよって笑っていたけれど、またその言葉で開眼しそうになってオレは動揺を隠して自宅へと持ち帰った。
気に入った、よっぽど気に入った。でもこれから具体的にどうすればいい。
「うーん、見れば見るほど渋いんだけどなあ」
冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出してラッパ飲みした。それから羽織ってみる。ちょっといい気分になりはしたけれど、そんなに変化はない。まあ、いっか。こんなもんだろ、と寝転び三角枕をして台本を開くと何度読んだか分からないシーンを繰り返し読んだ。
――ホームレスの或る男が正体も分からぬ犯人に殺される。
想像もしたけれど、正体が分からぬということはすなわち犯人役はこの時点では一緒に舞台に立たない。オレの一人演技ということだ。たった一人で恐怖と死にざまを表現しなくてはならない難しさ。
ここで考えなければいけないことはいくつかあるが一つは男がホームレスだったということだ。ホームレスというのは河川敷にいるのをよく見かけるが、彼らの所作は常人と違って怯え、世間を警戒し、かつ飢えている。当然堂々とした振る舞いではないだろう。背を丸め、剥げ落ちて、陰湿。表情は陥没していなければならない。
顔つきが気になり共用の洗面所にいって見た。洗面台に手をつき、前のめりになって呆然とした顔を作る。倹約生活の賜物だろう、表情は決して悪くはない。ひげも伸ばそうかとあごをさする。右へ左へ顔を振って枯れた肌を確認する。手入れもしない方がいいだろうな。
ふいに背後に人影が立った。オレの心は急に恐怖に絞られる。
「誰だ!」
叫び勢いよく振り返るが誰もいない。確かにいたはずなのに。オレはもう一度鏡をのぞき込む。今度ねっとりとした気配がした。
「っいるのか!」
誰もいない。オレの表情は恐怖に陥没していく。背負っているのは迫る死だ。誰かがオレをつけ狙い命を刈り取ろうとしている。オレは全神経を背中に集中させた。歩きピリピリとした空気をまとうなかでついに犯行の時が訪れる。とんと打たれる背。オレは裂けんばかりの悲鳴を上げた。
「ひぎゃああああああああああ」
「さっきからあんたどうしたんだい」
視線を下ろすと大家のおばちゃんが呆れた顔をしていた。心臓は轟いていた。
心拍を抑えながら部屋に戻る。マジで怖かったがいいものができた。あとは殺されるだけ。それは先生との打ち合わせでその時に話し合えばいい。
ページをめくると中ほどのもう一つの大事なシーンを確認した。
――ホームレスの男は早朝の誰もいない時間、牛乳ボックスの牛乳瓶を置き引きしようとした時にある殺人現場を目撃する。牛乳配達の男が住民の裕福な娼婦と口論をして殺すところだ。
ここでやらなければいけないことは二つあって一つは牛乳瓶の置き引き、もう一つは殺人現場の目撃だ。オレは生まれてこの方置き引きというものをしたことがないので、その時のスリルや心情が想像できない。どんな風なんだろうと考えてみたが、まるで想像がつかないのだ。見つかる恐怖におびえていたのだろうか。いや、それは常人の思考だ。なんせ男はホームレスだ。初めての犯行でないのならばきっと慣れていた。彼にとってはいつもの日常だ。
男は朝、腹を減らして閑静な住宅街を訪れる。各家庭を物色し、牛乳瓶を置いてある家を見つけてほくそ笑む。いいのが見つかった。ここでの男の警戒心はさほどのものではなかったろう。たぶんオレが想像する以上に慣れ切っている。プロの犯行だ。
さっと身を滑り込ませて速やかに箱を開けて持ち去る。その所作を何度も何度もしてみるがイマイチ腑に落ちなかった。
「これじゃただのピンポンダッシュだよな」
男の退廃し切った日常が現れてもいなければ、牛乳を得たときの地味な喜びもまるで表現し切れていない。普通。監督の求めるものならば派手より地味でいいのだろうが、これじゃ舞台映えしない。演じていると演じていないの瀬戸際だ。ここでオレは口元に手を当てて黙考した。
足りない、明らかにリアルな心情が欠けているのだ。そう感じるのはきっとオレが牛乳瓶を置き引きしたことが無いからで……と、ここまで思い至ったところでオレはあることを閃いた。
「そうか、やればいいんだ」
今のオレに必要なことはただ一つ、牛乳瓶を置き引きすることだ。表現するものの心を真に理解して実際にやってみること、それが一番の近道になる。
この細部が表現できればきっとそれが地味演ではなく渋さになる。これがすなわち広場さんのいっていた渋く光れということだ。
やっと答えにたどり着けたオレは嬉しかった。数学の難解を解いた気分だった。
「と、なればまずは断食だ」
オレはガムテープを取り出すと冷蔵庫に豪快に張り付けた。冷蔵庫の前で手足を振り上げて、ふふんふふんと鼻歌を歌いながらてけてけと丹頂鶴の舞をしてみる。
「よっしゃ、やったるで!」
オレは上機嫌で買ってきたばかりの食パンを鳩に向かって窓から投げた。
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