第51話 復帰への道
自宅に戻ったオレは真摯な気持ちになって台本と向き合った。金一封のまえに置いて拝んでみるが変化はねえ。オレは台本をそっと手に取ると正座をして台本を開いた。
或る男、彼はすなわちホームレスだった。
ホームレスの男は早朝の誰もいない時間、牛乳ボックスの牛乳瓶を置き引きしようとした時にある殺人現場を目撃する。牛乳配達の男が住民の裕福な娼婦と口論をして殺すところだ。刺した男にも刺された女にも不貞の秘密があって、さらにはその周囲には数多の人間が取り巻いている。女のどうしようもないヒモ、男の不倫相手、隠れたもう一人の目撃者だったレースカーテンの奥の向かいの住人。さらには殺人犯を脅す謎の電話の主。ホームレスとは無関係のところで事件は次第に膨らみ始めて、あらぬ方向へと転落していく。
で、この『或る男の死』という作品は冒頭で殺人を目撃した不運なホームレスが刺殺されるところから始まる。
「さすが岸本さんだ、くそおもしれえ」
これまで読んだ学生時代の岸本さんの脚本とはまったく違う、共通点なんてない。なのにどこか懐かしく肌になじむ。ページをパラパラとめくって何度も何度も同じシーンを繰り返してはその余韻に浸り、情感を抱きしめる。こんなにしみ込むストーリーがあっただろうか。新品の台本が膨らむほど読み返すと万感の思いで閉じてフローリングに置いた。深々と唸る。このホームレスをオレがやるのか。
断っておくがホームレスは冒頭で死ぬだけであとは数か所回顧として登場するのみ、ほとんど登場人物たちとは無関係だ。なのに冒頭のインパクトが弱いとメリハリがつかねえ。だから先生は熱演を要求している。
それなのに台本をもらうときに「やりすぎるな」とまさかの言葉が添えられた。たぶんオレのオーディションの演技を見たゆえの諌言だろう。
「困ったな」
オレは今まですべてを出し切るという形で演技をしてきた。注意されたこともなければ抑えるなんて発想もなかった。全力演技が人の心を動かすのだと信じてやってきたのだし、舞台にも合う。そのオレにやりすぎるなと要求した人は一人もなかった。
なのにやりすぎるな。おそらくこれまでとはワンランク上のプロの技術を要求されているのだ。
「どうすんだろうな、経験ねぇから分かんねえわ。広場さんに相談してみるか」
桜田広場さんの技術をもってすればそれも可能だろう。でも今のオレに演じ分けは無理だ。だから聞く。きっと演じ分けることの重要なヒントをくれるはずだ。
翌日、オレは辞める前と同じように先輩たちの演技をしっかり見てから拍手を送り稽古終わりの広場さんを捕まえた。Tシャツを汗に染めて顔をタオルで拭っている。台本を持ってちょっと食い気味にファンのようにもぶれついた。
「広場さん!」
「ああ、吉幸くんかい。合格おめでとう、素晴らしかったそうだね。ボクも見たかったよ」
「ああ、いえ」
ちょっと謙遜しながら台本を見せた。
「ああ、それちょっと読ませてもらったよ。岸本くんは面白い脚本を用意するね。メリハリがあって作品として浮かない。玄人好みの筋だよ。彼は才能がある」
「うん、オレも思いました」
広場さんは台本を受け取るとぱらぱらとめくって話を続けた。
「とくにここのね、向かいの住人がカーテンの奥からのぞき込んで盗撮してるでしょう。ぞっとしたよ。なんだろうね、人間の浅ましさをこれでもかと突き付けている気がするよ」
「浅ましさ?」
「だってそうだろ。彼はカーテン越しに娼婦の仕事を見ている、殺人も見ている。警察に連行されるところだって見ている。それを全部心の秘密と隠してほくそ笑んでいるんだ」
ああ、そうか。この作品の面白さはそこかと気づけた。オレは自分の役柄ばかり考えるあまり細かいところまで目が行き届いていなかった。たぶん広場さんはオレより広角にストーリーを捉えている。そうかそこか。
「で、何が悩みなんだい」
「え、あ」
そうか、オレ相談もしてなかったわ。
「ああ、その。すんません、その役のことで」
もじもじとしていると広場さんがうん? とのぞき込んだ。堀の深い顔を見ていると言葉が上手く出てこない。この人すごい人なんだよ、勘弁してくれよ、かっこいいわ。
結局悩みをまとめ切れず、オレは食い気味に提案した。
「すんません、これからお時間ちょっとありますか。近くのカフェで話聞いてもらいたいんです」
「いいよ」
広場さんはにこにこと笑って了承してくれた。広場さんがあせだくのTシャツを着替える間にオレはもう一度台本を開いて冒頭を読み返し、ひたすらにどうしたらいいのだろうと考え込んだ。
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