第50話 待ち受けていたもの

 先生はサングラスを外すと顔をまるでおしぼりで拭くようにごしごしと擦って深く吐息した。そしてこういった。


「すごい気迫だった」


 オレはごくりとつばを飲み込んで後続の言葉を待った。


「数か月会わない間に。キミなにしてきたの?」


 オレは緊張し切って言葉を選んだ。


「演技と向き合いました」


 先生は唇を引き結んで頷いた。


「半年前のキミからいうとずいぶん痩せた。ひもじくもあったのだと思う、でもそれだけじゃないよね」

「父は餓狼になれといいました。友人には死んだ方がいいという言葉をもらいました。でも一番突き動かされたのはあなたにもらった言葉です。あなたはオレに牙の抜けた狼は要らないといいました。あの時のオレに足りなかったのは飢えです。なにがなんでも演じたいという飢えです」


 言葉を吐き切ると団長の潔い言葉が差し込まれた。


「素晴らしかった!」


 とたん沸き起こる拍手の波、海灘を走るように大きな感動が胸に押し寄せた。その場に居合わせたすべての人間が立ち上がってオレに最大の賛辞を送ってくれていて、そして先生もその例外ではなかった。


 ああ、そうか。オレは喝采を浴びたかったのだ。演技を始めた当初から渇望していたこと。それをずっと忘れていたのだ。誰かの心を動かすのならば全身全霊で演技をしなくちゃいけない。わき目もふらずにただ向き合わなくちゃいけない。死の淵に立たされてギリギリで生きていること、それが死ぬということなんだ。

 オレは万感の思いで瞳を閉じた。




 拍手喝さいが終わると席に着こうとしたがそれを先生に呼び止められた。


「岸本くん、アレを」


 促されて隅に控えていた脚本家の岸本さんが渡してくれたものは分厚い一冊の台本だった。オレは目を丸くして岸本さんの顔を二度見する。


「先生の指示で書いた新しい作品だ。立長が戻ってきたときのために書いて欲しいといわれていたんだよ。難航していたんだけれどやっと書けた」

「えっ」


 オレは言葉を無くしてしまった。オレが戻ってきたときのため。先生が? オレは先生の顔を見た。


「あの時一番期待していた新人はキミだった。でも失望させられたのもキミだった。このままではボクの気持ちは伝わらない。だから君をクビにした」


 オレは涙が溢れて頭をぶんぶんと振った。


「すま、すんません。本当にオレ」

「戻ってくると信じてボクも突き進んだんだよ。タイトルを読んでごらん」


 オレは和紙の上に印字されたタイトルを見た。



――『或る男の死』



 オレの目から涙がこぼれ落ちた。


「主人公はキミだ」




 モブが主演なんてなにかの冗談だろうか。オレが望んでいたのはモブあって主演じゃない。それをよく知ってくれているはずなのに。


「主演はできません。そんなの。オレの望みじゃないし、実力もありません。広場さんに演じてもらった方が」


 すると先生は軽く笑った。


「主演だとはいっていないよ。自宅に帰ってよく読んでごらん。読めば分かることだが或る男、すなわち君は冒頭で死ぬ。それも印象的な死を迎えるんだ。或る男の死を皮切りに男の周辺の人間に次々と厄介事が降りかかり始める。だから物語を動かす主人公はキミだけれど、主演はあくまでキミじゃない」


 オレは目を見開いて台本を見た。鶯色の冊子が急に重みを持ってくる。


「これを岸本さんが」

「そうだよ」


 先生は頷いていた。言葉を添えたのは岸本さんだった。


「先生の要望にずいぶん苦労した、主演じゃないのにインパクトを残せ。立長にしかできない役を用意するんだって。あいつは必ず帰ってくるからって」

「はい」


 オレはまた泣いた、今度はくしゃっと顔をつぶして目を固く閉じた。


「オレのプロの脚本家としてのデビュー作にもなる。だからしっかり演じてほしいんだ」

「はい」


 こんなに嬉しいと思ったことがあっただろうか。子供のときにでっかいミッキーマウスのデコレーションケーキを食べて以来。……いや、まあそれは違うか。


 とにもかくにもオレは役者人生が始まって以降、最大のチャンスを得た。頑張っていたオレに用意されていたのは最高の死体役だった。


 結局そのオーディションで受かったのはオレだけだった。あとになって知るが審査員の間では他にも候補者は挙がっていたそうだが結局オレの話になり、あの演技を見たあとじゃどれもが霞むなんて嬉しいことをいってくれていたらしい。こういうことを語り合ったのはアカデミー賞祝勝会のべらんめえの酒の席で、笑い話として明るく楽しく聞いた。

 たくさん苦労もした。泣いた。色々と経験もした。でも、そのすべてが糧となりオレは役者を続けている。だって知ってるか、人生山あり谷ありっていうだろ?

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