第42話 握手

 飲食代は先生が支払うというので財布すら出せなかった。じゃあねというと先生はタクシーを拾って夜の街へと消えていく。オレの心は鳴門の渦潮のように渦巻いて、潮流は大きくなってゆく。静かに渦巻いていた悔しさが加速度的に暴発して隣の居酒屋の看板を豪快に蹴り飛ばしていた。

 がたんっと揺れた大きな音に中から人が出てくる。オレはとっさの判断でその場を逃げ出した。


 人が多く行き交う繁華街を全力疾走しながら目を閉じた。悔しさを振り切るように両手を動かして小さな路地に入るとぜえぜえと息を切らして振り返った。もう追手はこない。誰も追ってきているものはいない。


 静かな小路には店が数軒あって酔いどれのサラリーマンが道端で吐いていた。

 目頭が熱くなってこらえきれなかった涙がだくだくと零れ落ちる。頭を抱えると薄く伸びたスポーツ刈りがこの上もなくみじめに感じられた。


「……っくしょう、ちく……しょう」


 頭をがりがりと掻いて路地に涙を落とす。


「どうして先生があのときいったアドバイスを受け入れちまったんだよ。髪伸ばした方がいいっていったじゃんかよ。ドラッグストアにいって必死に働いてさ、先輩の演技見て一端の役者気取りになってさ……」


 ダメだった。オレはダメだった。その悔しさばかりが胸を締め付ける。オレは応援されてんだぞ、故郷の両親の顔が浮かんだ。チケット送ってこいって……

 体を反らし首を伸ばすと幾筋もの涙の間から輝く星々が見えた、オレはそのひとかけらにさえなれやしない。拳を握りしめると宙に叫んだ。


「オレには運もねえ、実力もねえ! チャンスにさえ恵まれねえのに、遠くで夢ばっかりが輝いてんだよ! ちくしょうーーーー」


 あの時の涙も今なら必要だったって分かる。でも当時はやっぱりたまらなかったんだな。未来を見るより目の前のことをこなすのが精一杯で。あの時の先生の愛情も、同僚の努力も、故郷で応援してくれた家族の気持ちも、すべてを置き去りにして悲しんでた。悔しかった。なにも出来ないうちに失ってしまったことが情けなかった。

 さて、この夜を境にオレは生まれ変わるわけだが……




「すんません、大変お世話になりました!」


 ひと際でかい声であいさつすると先輩連中が驚いて目を丸くした。この時期の退団を予測してたのか、それとも予測してなかったのか。


「立長くん辞めちゃうんだ」


 リスみたいにちっこい女の先輩が残念そうにした。


「すんません、クビなんで」

「どうするのこれから」


 男の先輩が尋ねてきたのでオレは自信満々にいった。


「ドラッグストアで正社員を目指します。薬剤師目指します」


 うーん、と腑に落ちないような返事をしてオレの顔を見た。


「初舞台も踏んでないでしょう。勿体ないよ」

「そっすね」


 たははと笑って荷物を引き上げた。肩に担ぎ上げると三か月分の苦労が圧し掛かった気がする。うん、やっぱちょっと軽いわ。


「皆さん、それじゃあお元気で。更なるご活躍お祈りしてます! それでは」


 くるりと振り返るとどわっと涙が溢れた。コレ見てないよ、誰も見てない。自分にいい聞かせて懸命に口を引き結ぶ。腕を垂直に振り上げてバイバイと後ろ手を振った。アディオス、素晴らしき劇団『メトロポリタン』!


 と、後腐れもなく劇場の出口までカッコつけて歩いたわけだが階段を下りていよいよ出るという時に最後にオレを待っていた人物がいた。オレは顔を上げる。あ。


「広場さん……」


 劇団の看板役者桜田広場さんだ。いつもより渋い顔をもっと渋くさせてオレを見ていた。


「先生に聞いたよ。大丈夫かい」


 オレは合わせる顔がなくて目を地面に背けた。


「すんません、一番お世話になったのに」

「キミが頑張ってる姿、ボクは好きだったな」


 オレは顔をクシャっとさせて涙をこらえた。


「すんません。ほんと、オレ、なんか、ほんと、オレ……」


 涙声を絞り出したが情けなく潰れる。広場さんはしばらく黙りこくっていたが、一つ重たく息を吐くとすっと手を差し出した。いくつもの試練を乗り越えてきた分厚い百戦錬磨の手だった。


「吉幸くん、握手をしよう」


 突如の提案に思考が停止したが意図を汲むと抱えていた荷物を通路に下ろした。

 右手で広場さんの右手を握る。そして頭を九十度に下ろしてひと際でかい声でいった。


「お世話になりました! 御恩は一生忘れないです」


 たった三か月で御恩って笑っちゃうだろうが、それくらいに真剣に取り組んでたっつうことだよ。オレにとってこの三か月は濃密だったんだ。広場さんの手にぐっと力がこもってこれでもかというくらいに力強く握り返された。


「吉幸くん、この握手を絶対に忘れないで」


 まるで舞台の台詞のような強さに忘我しそうになったが広場さんの手は微塵も離れない。絶対だよ、絶対と力を込めて繰り返した。


 出口でくるりと振り返り頭をぺこりと下げると広場さんが遠くで頷いてくれた。たぶんもう会えないんだろうなと思った。でかい言葉を残す。


「ありがとうございました! 舞台観に来ます! 絶対観に来ます!」


 綺麗な拍手が鳴って広場さんがサムズアップする。オレは最後にもう一度だけ頭を下げた。


 終わったんだ、もう終わったんだ。涙と一緒に未練が解けてゆく。アスファルトには人が溢れていた、一人の役者の人生が終わっただなんて誰も気にも留めやしない。行き交う人々の間に身を滑り込ませるとオレは町に姿を消した。

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