第40話 焼き鳥屋

「あなたは私を売ったのですね、たった十ペンスで名も知らぬ男に譲り渡したのです!」

「ああ、可愛そうなミモレット。母の愛情さえ知らずに」


 ぼろをまとった若手女優が手を挙げて宙を仰いでいる。その卑賎な役柄に似合わない気品に溢れた演技に衆目が集まった。新人女優は胸を張り声を上げる。


「わたしは身を売っても心まで売り渡すつもりはない!」


 息を吞むような空白があって……

 相対していたベテランがこらえ切れずに感情を逆立てて台本を投げ捨てた。


「どういうつもり! そんな演技で一端の女優気取りなんて」


 一瞬にして場が凍り付く。雷が轟いたように激しかった。静めるように丸めた台本がたんったんっと鳴る。


「ハイ、ストップストップ。遠藤さん落ち着いて。いったーん休憩」


 若手監督が進行をストップして役者は部屋の隅に散ってゆく。だが怒りが収まらぬベテラン遠藤は歳が半分ほどの監督に食ってかかった。


「監督、わたし大崎さんとじゃ演技できません。粗が気になって仕方ないのよ」


 遠藤はこれでもかと感情を暴発させて新人女優をにらみつけている。いわれた方の新人女優、すなわちひっつめ先輩はなにもいわずに滝のような汗をタオルでぬぐって給水している。さすがにオレもなにか声をかけた方がいいかと思ったがペーペーが割って入れる空気じゃなかった。

 監督が勘弁してくれよ~と空で口を動かして部屋を去るとベテランが悪態をついた。


「大崎さん、あなたいい気にならないでね。監督も困ってるのよ、あなたが妄想で勝手に役を作っちゃうから。指示された通りにやればいいの、わたしの邪魔をしないで」


 ひっつめ先輩はちらっと目をやるとまた無視して水を飲んだ。相手をしてもらえなかったベテランは開いたままのペットボトルを鏡に投げつけるとリハーサル部屋を出ていった。


 十五分後、練習が再開されて通しは続いたがなんともいえない緊張感が漂っていてそれはその日の最後まで続いた。



 

 オレは帰りしなに久しぶりにひっつめ先輩に誘われて飲みにきた。いつもの赤提灯の焼き鳥屋だ。もちろん二人とも大ジョッキ、美人女優でも平常運転だ。当然、愚痴をいうものだと思っていたが。


「いいんすか、ひっつめ先輩。腹立ちません?」


 抱えていた疑問をぶちまけた。実際、遠藤さんのいいぶりには腹が立っていた。いい返さない分ひっつめ先輩は腹に据えかねているはずだ、と思ったら。


「ぜんぜん、遠藤さんは後がないから焦ってるだけよ。お局臭がプンプン漂っててみっともないたぁ、ありゃしない」


 ひっつめ先輩はそういって串から歯で皮を引き抜くと咀嚼した。備長炭の炭火は美味いといってつんとしている。


「でもいわれっぱなしじゃ……」

「あたしの方が上手い」


 そういってもう一つ皮をぐっと抜く。自信たっぷりの台詞に思わず感服してしまった。


「落ちていく人もいれば上がっていく人もいる。あの人は落ちていく人。でもわたしはこれからなの。どんなチャンスだって逃さずに乗り越えてやるわ」


 すげえな学生時代から変わらない、いやむしろパワーアップしてる気がした。こういう人のことをなんていうのかな。そうだ、そうだ。


「餓狼っすね」


 ん? と眉をひそめたのでオレはひっつめ先輩に父との電話でのやり取りを掻い摘んで話した。役者たるもの狡猾でなければいけない、飢えた狼のようにどん欲に役を取りに行けと。餓狼、そう己が目指すべきは餓狼だと。


「ふうん、それで餓狼……」


 餓狼といわれた本人はまんざらでもなさそうにしている。こうしてみるとひっつめ先輩は別に頬がコケているわけでもないのに飢えて見えた。それに比べてオレは。


「先輩オレ、狼に見えるっすかね」


 ううん、と首を振ってこうアドバイスしてくれた。


「気持ちが前面に出てない。いつでもチャンスはつかんでやるって思ってないでしょう。学生気分で平々凡々としてるとそのうち要らないっていわれちゃうわよ」

「きついっすね」

「本当のことだもの」


 ひっつめ先輩のいうように実際、入団する人間がいる一方で去る人間もいる。すでに見知った先輩の何人かは消えていた。そういう人たちの多くは自ら辞めたのではなく辞めさせられた。すなわち解雇通知されたということだ。


 一分一秒が勝負、落ちていく砂時計のようにタイムリミットはいつでも刻まれている。無限にあるようで時間は有限だ。すでに三か月を無駄にしている。どうすればいいのかと首をひねった。俯きがちにあごひげをがりがりとやっているとひっつめ先輩が空になった大ジョッキを豪快に置いた。


「わたしもね、同じだったの。来る役待ってた。たぶんひと月ぐらいは。でも役は与えられるものじゃなくて捕りにいくものなの。それが分かったから今はもぎ取りにいってる」

「それがどうして分かったんすか」


 オレは食らいつくように質問した。するとひっつめ先輩は飲むのをやめてこう話した。


「先生と話したの。居酒屋連れてきてナケナシの自分の給料で支払って。どうしたら役をもらえるんですかって。そんな風に一度話して見なさいよ。立長くんのやりたい芸ってなんなのかを。これでもかと主張するの。で、役のオーディションがあったら狡猾に奪いにいく…………けど」

「けど?」

「うーん……ごめんね、これずっと思ってたんだけど。というかこれを今日いいたかったんだけど。そもそもモブのオーディションって聞いたことないでしょう。したことあるのかしら」


 盲点だった。確かに、とオレも考え込んでしまった。モブは大体がスケジュールの空いている人間に任されて特別にオーディションすることはなかった。


「立長くん、ひょっとしてオーディション待ってるんならそれちょっと違うなって。それより先生ね、ビジョンがあるんじゃないかしら。たぶん立長くんだけに抱いてるビジョンが。そんな気するな。なんか違うもの、きっと変わってるケースなのよ」


 そういってひっつめ先輩は手を上げると店員にジョッキのお代わりを注文した。この人よく飲むわ、飲み食いしねえと舞台って体力持たんもんな。


 結局のところそれをいいたいがために誘ってくれたらしく、その日はひっつめ先輩がおごってくれた。出そうとしたがいいよと跳ねのけられた。貧乏人さ、仕方ねえ。夜道を歩きながらひっつめ先輩と久しぶりにぐだぐだと演劇論について話したけれど、やっぱりかっこよかった。この人は常にビジョンで動いている、学生時代からそうだった。

 一年でこれだけの差をつけたんだからな。未来の助演女優。ああこの人、漢だわ。そう思うとなんだかしっくりきた。


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