第35話 地縛霊

「目標を……センターに入れて……スイッチ、目標を……センターに入れて……スイッチ、目標を……」

「タテナガさーん、大丈夫デスカ」

「大丈夫じゃないでース」


 オレは今、分離を行っている。まだ分離かって? 分析始めてないのかって? ちょっとそこのお前、ナックルかましたろうかああああ! 


 はあ、頭がおかしくなるくらい分離を続けているわけだが一向に物質は精製できねえ。異性体なんちゃらってのを分離するのは容易じゃねえ、付いてる置換基の場所が一つ違うだけで……ってああ、いってて意味わかんねえし頭痛くなってきたわ。


「センセー、……卒業させてくださあい」

「立長、精製だけじゃ論文にならないよ。王さんの身にもなってみろ。自分の卒論もあるのに協力してくれてんだよ」

「手っ取り早い方法ないっすか」

「今やってる方法がいちばーん速いんだよ」

「うぃっす、マックススピードで頑張ります」

「カラムのスピード上げるんじゃないよ、滴々だからね。じゃあ私は上へ戻るから」

「はあ、……便所」


 文句たらたらに実験室を出えると外の景色はすでに暗かった。ガラス越しに見えるこの時期のキャンパス内のイルミネーションはどこか切ない。腕時計を見るとすでに夜の九時。九時に実験やってるとか信じらんねえと思ったが、余所の実験室にも煌煌と明かりはついていて泊まり込みで夜通し微生物の世話を見る学生もいる。聞けば同学年のみんなはとっくに卒論発表の準備は済んで今残っているのは院生か大学院に進学する熱心なヤツ。オレみたいに滑り込みのやつはほとんどいねえ。しかし、生物系って大変だな、選ばんくて幸いだったわ。


 ふらふらした足取りで暗がりを通過し、階段横のトイレに入ると小便器の前に立った。朱色の壁で彩られたなかは伽藍洞だ。


「まじあり得ねえ、卒業させてくれや」


 ふふ~ん、ふふ~んと演歌を口ずさみながらちろちろ用を足しているとふいに背後でコツン、と音が鳴った。コツン? おかしいんじゃねえか。ハイヒールの音だ。おいおい、ここ男子トイレだぞ。


——コツン、コツン、コツン……


 尖った音はどんどん近づいてくる。静かなトイレに俺一人。振り返るのも怖くてしょんべんが凍った。喉が渇いてムンクの叫びになる。間違いないこの臨場感。出た、出た、月が~~~じゃねえ!! そして背後で……トンと音がする。

 裂けるほど目を見開いて瞬刻。


「ぎゃああああああああ」


 絶叫して振り返るとインテリがいた。ぜえぜえとした口調で怒鳴る。


「馬鹿っきゃろう、心臓止まると思ったじゃねえか!!」

「先生が呼んでたぞ」


 目をしかめてじっと全身を見るがこいつもハイヒールなんて履いちゃいねえ。


「誰か…………いなかったか?」


 恐る恐る聞いてみるがインテリは訝しんでいるだけだった。


「聞こえたろ。コツンコツンって」


 確認するようにいうとインテリはいつもの不機嫌をさらに濃くして応じた。


「早く四階へいけ。先生の機嫌が悪くなるぞ」


 なんだ、ただの幻聴か。やっぱ疲れてんだよな。ズボンのチャックを引き上げて手を洗うとトイレを出た。短い階段を重たい足取りで上って左側の四つ目の教授の部屋をノックする。大半の教師はすでに帰宅しているようだったがおれのセンセーはまだいる。


「はーい」


 のんびりとした返事があって「失礼します」と断って入ると教授が不思議そうな顔をしていた。さっき会ったばっかだもんな。


「用があるのかい」

「インテリが呼びに来たんすけど」

「インテリ?」

「あ、いやあの眼鏡の。早坂っすけど」


 すると教授は首をかしげてこういった。


「早坂くんとは今日は会ってないよ、そもそも僕は呼んでいないしね」


 ………………。


 オレは肺が凍るほど冬の空気を吸い込んだ。そして頬に手を当てて。


「ひいいいいいいい!」 

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