第32話 デェト 中編
駅から出ると緑の匂いがした。そのアートギャラリーは風光明媚な鎌倉の町の北寄りの場所にある。ひっつめ先輩は軽くステップを踏むように前を歩いていて、普段の場所を離れると気持ちが解放されるらしい。このころのひっつめ先輩は将来というなにか変なものを背負っていた気がしたからほっとした。
「鎌倉っていいとこよね、わたし時々来るの」
「ひとりでっすか」
「うん。ひとりの方がいいときもあるでしょう」
「そっすね」
モテるのにひとりが似合う人なんだよな。たぶんそう思うのは彼女を理解できてきた証拠だろう。ふたり軽やかに足を運んで向かった先に見えてきたのは築年数はそう経たないだろう打ちっぱなしのモダンなアートギャラリーだった。
「大人二枚で」
「3000円になります」
財布からナケナシの金を取り出して支払うと入った。入館者は個人ギャラリーのわりに多く、好き者がゾンビめがけてきたんだなとほくそ笑んだ。
「見て立長くん、ゾンビ映画の歴史だって」
「へええ、歴史なんてあったんすか」
「あったんですよ」
ふたりでふむふむなんて思いながら。しかし、楽しい。これデートだぞ。めちゃんこデートだぞ。
「ねえ、ゾンビ映画普段観るの」
「見るっすよ、でもオレB級の方が好きっすね。ゾンビのクオリティが低いヤツ」
「クオリティ低いって笑えるね」
「いや、いいんすよ。じわじわくるから」
けたけたと腹を抱えて笑うひっつめ先輩となんでも会話をして、演じるならどういうゾンビだとかそういう一端の役者の会話をした。
「あ、これすごいかも」
そういってひっつめ先輩が手を伸ばした先にあったのはリアルなゾンビマスク。通常ゾンビ映画ではマスクを使わずに特殊メイクを施すものも多いがこれには一種のアトラクション的お楽しみがあった。
「ご自由にお被りくださいだって」
そういって真っ黒なゴムマスクに手を伸ばすとひっつめ先輩は迷わず被った。
「がおおおお」
「先輩全然なってないっすよ」
そういうとオレはもう一つのマスクをかぶった。こちらは目が陥没している血まみれの茶肌だった。しかしゴム臭せえ。
骨抜きになるとフローリングにどさっとくずおれた。その瞬間周囲が振り向くのが見えた。もろ手をついて両足を幅広く開いて屈伸の姿勢、首の付け根から頭を振る。呼吸は荒く、これでもかと生臭い息を吐く。首を前後に揺らしながらかくんかくんとあごを鳴らし、乾いた雄たけびを上げた。呼吸が天を衝く。ギャラリー全体が大きく揺れた。大胸筋を開いて縮こめて、体を千切れそうなほどに狂わせる。千切れる、壊れる、千切れる、壊れる。喉を絞ると金切り声を上げた。
「あばばばあああ」
そこで笑い声がひとつ聞こえた。ひっつめ先輩じゃなかった。
振り向くと腹の出たサングラスの中年男性がこちらを見て拍手していた。マスクを脱ぐと初めて自分を取り巻いていた群衆に気づく。他の入館者はパンフレット片手に唖然としていた。
「すごかったよ、キミ」
じきに周囲が去ってひっつめ先輩とふたりマスクを返したところで先ほどのサングラス男性が話しかけてきた。
「どもっす」
ちょっと照れながら。だってこんなお遊び真正面から褒められると恥ずかしいじゃねえか。
「演技かなにかやってるの」
「鷲田大学で演劇サークルに所属してて」
「ああ、そうかそうか。それで」
興味深げに話しかけてきたのでそれに応じて、卒業後に劇団に所属することや演劇スタイルなどいろいろ話した。男性は美しいひっつめ先輩がいるにも関わらずオレだけに夢中になっていた。
「あの、どちらさんですか」
やたらと演技に詳しい。そうすると男性は初めて名乗った。
「いや、僕は北内賢っていう映画監督の卵なんだけどね。今は仕事ないと生活できないからAV助監督やってるよ」
「え?」
そこでひっつめ先輩がぶっと吹いた。
「でも僕はほんとはゾンビがやりたいんだ」
「ゾンビ」
そういうと男性はサングラスの奥の目を光らせてこの上なく真剣に問いかけてきた。
「ゾンビ映画はハリウッドの専売特許だ。日本には幽霊はある、ポルターガイストも、スプラッターも、食人も。でもゾンビはない、ゾンビはないんだ」
「ゾンビがない……」
「多くのゾンビ映画はアメリカから入ってきたものだ。日本でゾンビが出来ない理由ってなんだと思う」
考えたこともなかった、日本でゾンビ映画が出来ない理由。出来ない理由……
「製作費じゃないですか」
ひっつめ先輩が答えた。すると北内はうーんと唇を尖らせた。
「まあそれもあるっちゃあるけど」
「クオリティっすよね」
北内がぱんっと手を打って一本指を立てた。
「そう、クオリティだよ! ゾンビのクオリティが足りないんだ」
「なるほど……」
「ゾンビに必要なのは演技力。その演技力が欠けてるんだよ。まあ日本がゾンビ後進国である理由かな」
うーん、ゾンビ後進国とか聞いたことねえわ。
「に、つけて。キミの演技力は突出してるね! 感動したよ。キミさえいればゾンビ映画が現実になりそうな気がしてきた」
「え、マジっすか!」
「マジだよ、マジ。よし決めた。僕が将来ゾンビ映画を撮る際にはいの一番にキミにオファーをかけるよ」
「ひょえええ」
「構想もあって作品名ももう決めてあるんだ」
「早くないっすか? AVまだ撮ってるんすよね」
「いやいや、遅すぎても早すぎることはないよ。メゾン・ド・ゾンビ。学生時代から温めている作品なんだ。タイトルしっかり覚えていてくれよ」
メゾン・ド・ゾンビね。ゾンビのホラーマンションかよ、めちゃんこB級くせえわ。
「十数年経てばキミは立派な役者になる。僕は立派な映画監督になる。それまで役者辞めないでね、僕も辞めない」
それだけいい置くとAV北内は去っていった。
それからひっつめ先輩とギャラリーを回り制作裏話やらQ&Aやら衣装展示やら見たけれど気はそぞろ。心を打つ圧倒的な出会いがあったからかもしれない。ひっつめ先輩は楽しそうにしていたけれどオレはほとんど上の空だった。
「なんかすごい人だったね」
オレの様子を察してか、ギャラリーを出たところでひっつめ先輩はそう声をかけてきた。
すごい人、まあすごい変な人だよな。ただもうゾンビへの愛は尋常じゃねえ。オレの演劇への変態的求愛と一緒、そこだけはなんだかシンパシー感じたわ。
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