第28話 姫喰い(6)

 村井は焦り荷物をまとめていた。枕元に広げていたノートと資料をオレンジのザックにつめ込んでファスナーを閉める。出よう、一刻も早くこんな村出よう。突如、急いて運んだ指先に猿のような指先が絡んだ。


「どうしたのかえ」

「うわっ!」


 隣を見るとどこから現れたのだろう、家主の老婆がのぞき込んでいた。


「友人の弔いも済んでいないだろう、村の者に責任を負わせるのかえ」

「こんな村、来たのが間違いだった」

「姫神さまの恩恵にあずかれたのだ。本望と思え」


 村井はそのいいぶりに手を押し広げて猛抗議した。


「あんたには村の有様が映らなかったのか! 広場の異様な光景を。呪われている、みんな靖代に呪われたんだ」

「まあ、落ち着け。そんなはずはなかろう。靖代は十八年前に死んだのだぞ」

「じゃあ、何だというんだ。魚代か! 魚代がみんなを呪い殺しているのか」

「呪いなどない、わたしはすでに四人喰っとるのだぞ」

「十分おぞましいじゃないか」


 陥没するほど大仰に目を見開いた。心は涙が出そうなくらいに恐怖していた。

 ふいにきぃと鳴って顔を上げて外を見る。なにかが来た予感を覚えた。しんと肝が冷える。乾いた景色には枯葉が一枚舞っていた。


「きっと疲れたのだろう。もう一晩だけ泊まっていきなさい」


 村井は外の景色を凝視した。地面に影が見えた。なにもいないのに黒い塊がある。おぼろげだった影は歩くほどにくっきりと陰影を描いてやってくる。階段を五段登り、とん、とん、とん、と静かに音がする。


「あが、あががががが」


 村井は腰を抜かして一本指を震わせた。


「どうした、なにもいないだろう。疲れているのだ」


 猿の顔がだんだんと変じる。こんな女など知らない、知っているけれど知らない。女はいやらしいほどに笑みを浮かべ、震える指先をしっとりとにぎり妖艶な顔を浮かべる。すでに老婆のものではなかった。

 一拍開いて水底に引きずり込むような声が伸びる。


「会いに来たよ?」

「うわああああああああああ」


 村井は脱兎のごとく逃げ出した。全速力で足を動かして腱が千切れそうなほど振り切る。怖い、怖い、助けてくれ!


 脳内で美声が輪唱している。



——会いに来たよ、会いに来たよ、会いに……



「帰ってくれ!」


 冷汗が伝う。村を駆ける間中、伏した村人を見た。みんな死んでいた、泡を吹いて恐怖のなかで死んでいた。

 ぜえぜえと呼吸を繰り返し村外の森のなかに分け入る。走る力も尽きてつまずき足裏はすり切れて血まみれだった。


「来ないでくれ、頼む。……もう来ないでくれ」


 やがて宵闇が訪れた。尽きて地に仰向けになり息を切らした。美しい、こんなにも満月は美しいというのに。呼吸が定まらないでいる。


 ふいに満月に白い影が重なって薄目を開いた。こんなに走ったのに冗談だろう、そう思った。白くあどけない少女が冷笑している。可憐な笑みは魚代だろうか、それとも妖艶な笑みは靖代だろうか。村井を組み敷いて心臓を鷲づかみにするような音程で吐く。


「どうして逃げたんだい?」

「く、く、喰ったのは出来心だったんだ」

「美味かっただろう、同族の肉はさぞ美味かっただろう」

「すまない、すまなかった!」


 劣情を押し流すほどの恐怖に喉を絞り切る。意識がどこかへゆきそうだった。


「助けてくれ、助けてくれ!」

「ようし、今から助けてやる」


 黒い影が瘦身になだれ込む。長い髪の隙間から血走った目が見えた。すでに人のものではない。


——喰ってやろう、お前を喰ってやろう。


「ひぎゃあああああああああああ」



       ◇



 満員御礼の講堂に伸びた台詞を聴衆は静かに聞いていた。咳払い一つ聞こえない静謐のなか一つ拍手が鳴る。それを皮切りに野に広がるように拍手喝采が広まる。ああ、ああ。この感動は舞台に立ったものしか得られない特別なのだ。

 花が咲いたような感動の渦はビロードのごとく広がっていく。

 輝くステージの端っこでオレは静かに感動していた。メイクで薄汚れた顔でにんまりと笑っていた。たぶんオレはこの瞬間を何度でも味わいたいから舞台を続けてきたんだな。


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